Long StoryShort StoryAnecdote

リミット


「ん……」
 ちゅ、と唇が離れる。物欲しそうに追ってくる彼の滑らかな頬を、俺はやんわりと包んで押し留める。子猫が飼い主の足にその身を擦りつけるみたいに、彼は目を細めて首を傾いだ。
「先生……お願い」
 彼の瞳に涙がこみ上げる。でも、俺は彼の望みに応えるわけにはいかない。もっとも、彼の想いを聞いてしまった時点で、俺は教師失格なのかもしれないが。

 彼はクラスに馴染めないタイプでもなければ、やかましく目立ちたがりな一団ともグループを異にしていた。どこにでも属せてどこにも属さない、風のような立ち居振る舞いだというのが最初の印象だった。
 いじめられているような生徒にも何気なく声を掛け、主要グループの冗談にも上手いパスを返す。14歳という難しい年齢にしては妙に達観しているというか、地に足の着いた子供だと思った。
 だから、そんな彼に突然告白をされた時には驚いた。珍しく放課後まで居残っていると思ったら、正面きって俺のことが好きだと言ったのだ。
 彼はボーイッシュな少女と言っても通るような、可憐な容貌をしている。けれどその身に纏っているのは黒い詰め襟の学生服で、俺は戸惑った。同性に告白された経験なんて1度もない。
 付き合うとかじゃなくていい、ただ好きでいさせて欲しい。そう言われて、俺は渋々了承した。好きだと言われて嫌な気持ちがする人間はそういないだろう。まして、可愛い教え子の1人だ。
 彼は勉強もできたし、生活態度もよかった。他の教科の教諭から褒められたことも1度や2度ではない。クラスのいざこざも、彼がそれとなくとりなして収めることもあった。教師ながら、生徒の1人である彼にちょっとした畏敬の念を抱いたほど。
 そんな子が、何故俺に――告白を受けてからというもの、自然に彼に目がいった。ホームルームの時間、授業中、子供同士の他愛ない会話で盛り上がっている給食の時間でさえ。
 俺はその度に思春期の少年のようにどぎまぎしたけれど、彼の方は大人びた微笑を浮かべているのだ。
 ある日、俺は彼に放課後居残るように言いつけると2人きりの教室で返事をした。俺も君のことが気になっている、と。卑怯な言い方だとはわかっている。けれど、好きだと胸を張って言えるほど俺は若くはなかった。彼の本心も疑っていた。子供の遊びの罰ゲームなのではないか、と。
 けれど彼は俺の言葉を聞くと顔を伏せ、肩を震わせた。次に顔を上げた時、大きな目にはいっぱいの涙を溜めていた。
「嬉しいです。おれ、本当に先生のことが好きなんです」
 もう1度、面と向かって涙ながらに言われて、抱き締めずにいられる人間がいるだろうか? 俺は学び舎の埃っぽい香りを染みつけた学生服を掻き抱くようにして、彼の頭にキスをした。

 それから1年、俺の学級も残すところ2ヶ月で卒業という時期。別れのリミットは迫っていた。
 彼は俺の気持ちを確かめてからはより距離を縮めようといじらしく働きかけたが、つまらない大人の俺はそうやすやすと乗らなかった。その方がお互い怪我が少なくて済む。
 年頃の彼の方がきっと傷つきやすいが、何度でもやり直せる柔軟性がある。けれど俺はもう、致命傷になりかねない。俺は彼のことを気遣いつつ、自分の心を守ることに注力していた。
 彼の小さな手を握る度、未発達な身体を抱き締める度、あと何度この感覚を味わえるだろうかと胸が苦しくなった。
 きっともう、彼よりも俺の想いの方が強いだろう、そう思った。卒業したら、彼は新しい世界に飛び立つ。卒業の祝詞によく出てくる言葉だが、本当にその通りだと思う。彼の世界はこれから広がっていく。
 教師は、校舎の中に置いていかれる存在だ。
「先生。卒業してもおれのこと好きでいてくれる?」
 放課後、卒業式の合唱の練習に励む声を遠くに聞きながら、俺は外を眺める。
「ああ、忘れないよ」
 言うと、彼はきゅっと唇を引き結んで俯いた。沈黙。
「……やっぱり、言ってくれないね」
「言うって、何を?」
「おれのこと、好きだとは言ってくれないんだ」
 彼は顔を上げ、真っ直ぐに俺を見た。
 たった1年。けれど14歳と15歳の間には大きな隔たりがある。まだ丸みのあった彼の頬は少しほっそりとして、長い首には喉仏が主張し始めている。そしてそこから紡がれる声も、以前よりやや低い。少女のようだった面差しは凛とした涼やかさをそのままにしつつも、もう性別を見紛うことなどない。
 これから彼の容貌がどんどん変わっていくのを、近くで見守り続けたいと心底思う。でも。
「ここにいる間だけだよ。君が俺みたいな人間に興味を抱くのは」
 俺はその純粋な瞳から目を反らして、窓際に凭れる。
 彼から見れば俺は大人に見えるだろうが、実際は14、5歳の頃から大して変わっていない。年を重ねて、臆病を隠す狡さばかりを蓄えてきた。
「そんなことない。おれはずっと先生のことが好きだよ。ねぇ、約束して? 卒業式の後、お祝いにキスしてよ」
 彼はにっこりと笑ったけれど、俺のシャツの裾を掴んだ手は微かに震えていた。
 俺は彼から目を逸らしたまま、小さく頷いた。

 卒業式を終えると、ガランとした体育館の倉庫の中で俺と彼は強く抱き締め合った。
 彼の肩を掴むと、真正面から見つめ合う。大切な大切な、俺の1番可愛い生徒。彼は瞳を潤ませ、唇を薄く開けた。それを合図に言葉もなく唇を合わせる。きっと君は素敵な大人になる。そう思いながら大人の口づけを教える。
 小さな口は俺の舌でいっぱいだった。苦しそうに喘ぐから、鼻で息をするように囁く。顔の角度を変えながら貪るように口内を嬲り、彼の舌を捕まえて吸う。彼の細い指が必死に俺のスーツにしがみついて、少し怯えているのがわかった。ああ、やっぱり子供だ。意地悪くそんな風に思いながら心の中で小さく笑う。
 上顎を舌でなぞると彼はくぅん、と鼻で小さく鳴いて、ふらりと身体を揺らす。俺は肩から腰に手を滑らせると、彼の身体を引き寄せしっかりと支えた。
「ぁ……、」
 包み込んだ小さな顔はほんのりと赤く染まっていて、密着した下半身は微かに反応して俺のズボンに当たっている。
「先生……お願い」
「ダメだ。できないよ」
 これ以上は無理だ。彼はまだ15歳。今、彼が泣いて喚いたって、それだけはできない。
「先生のそういうところが好き」
「そういうところ?」
「頭が固いところ」
「……悪かったな」
 涙を拭いながら笑う彼につられて俺も苦笑する。
「俺は頭が固いから、きっと変わらずどこかでつまらない教師をやっているよ。君がもっと大人になって、それでももし俺のことを覚えていたら……その時はこの続きをしよう」
 教師は時に生徒を裏切るものだけれど、生徒だって大概だ。やってこいと言った宿題を提出しない輩なんて掃いて捨てるほどいる。でも彼は、いつも俺からの教師としての言いつけも守ってくれたな。
 年甲斐もなく切なく痛む己の胸に、期待するんじゃない、と言い聞かせる。
 ――さぁ、最後の宿題だ。
「それまで、俺とのキスを覚えていて」
 俺は学生服の第二ボタンに指をかけると、もう1度彼の顎を引いた。

2018/07/29

Main
─ Advertisement ─
ALICE+