Long StoryShort StoryAnecdote

父の名


「父さん、そろそろ起きないと遅刻だよ」
「うーん、わかってる……」
 言いながらも、父は布団から出ようとはしない。血圧が低いから朝は苦手なんだと言うけど、低血圧なのは俺だって同じだ。
 しょうがないな、とボヤきながらも俺はクスクスと笑って、父の布団に乗った。
「ぐえっ! ……おい、重いよ。お前、自分がいくつになったと思ってるんだ」
「17」
「下りなさい、起きるから」
 俺が渋々身体をどけると父はのっそりと布団から這い出して大あくびをした。ボサボサ頭を掻き毟り、おはよう、と涙眼で言う。
「おはよう、父さん」
 俺はそう言って微笑んだ。

 父とは15歳から一緒に暮らすようになったばかりだ。
 母は俺が生まれてすぐに離婚して実家に戻り、3年後に交通事故で亡くなった。それから俺は祖父母と叔父と一緒に暮らしていたけど、12歳の時に祖母が、そして一昨年、祖父も病気で亡くなった。
 本当なら俺はそのまま叔父と一緒に暮らす話になっていたけれど、叔父は粗暴でろくに仕事もしないような人で、祖父も残される俺を憐れんで泣いて詫びたくらいだった。俺は高校進学も諦めなくてはならないかもしれないと思っていた。
 でも祖父の葬儀の日に、見知らぬ男が現れた。その日急に調達したらしい喪服とボサボサの頭で、身なりからすれば叔父と大差はなかったけれど、男は俺を見つけると自分がお前の父親だ、と名乗った。
「今まで寂しい思いをさせてすまなかった。俺と一緒に暮らそう」
 そう言って俺のことを抱き締めた。
 両親がどうして別れたのかは知らない。母にも聞いたことがないし、大きくなってからも祖父母に聞くのは何となく気が咎めた。父と暮らし始めてからも、その機会はない。
「お前の作るご飯は本当に美味いなぁ」
 昨日の夕飯の残り物だというのに、父はニコニコと笑って食べてくれる。今日のお弁当は何かと聞いてくるので、開けてみてのお楽しみだと秘密にした。
 父はあまり昔のことを語らなかったけれど、どうもこの社会で生きていくのは難しい人らしかった。叔父のそれとは違う。父は真面目で、真面目なのに不器用だった。
 母は結婚する前は、父のそうしたところに母性本能をくすぐられ、結婚して俺が生まれると、父のそうしたところに苛立ったのかもしれない。
 でも俺は、父の一生懸命さが好きだった。一緒に暮らすようになって2年、父のことを知れば知るほど、どうして俺を引き取ってくれたのだろうと思う。
 生活能力もなく、仕事も上手くはいかないようで、極端な激務に身をやつしたり、薄給の閑職でこき使われては夜もアルバイトをしたりした。
 それも俺を高校に通わせるため。1人で生きていくならこんな苦労をしなくても済んだはずなのに。
 父は、身なりさえきちんと整えればそれなりに見てもらえる男性だと俺は思っている。身長も高く、40を過ぎても体型は締まっていて(副業でやった肉体労働の賜物だろう)、無精髭をこさえている時でさえ不潔な感じはなく、妙にそれが様になった。
 新たな伴侶を得てもいいだろうに、父はそうしなかった。
 再婚しないのか、と俺から聞いたことがある。でも父は、しないと即答した。お母さんが好きだったからな、と父は言って、その話をすぐに切り上げた。
 俺は母によく似ていた。あるいは父が俺を引き取ったのも、母の面影を近くに置きたかっただけなのかもしれない。
 父の温かな思いや期待に対して、俺は勉強を頑張ることで応えたけれど、一方で絶対に応えられないことがあった。
 俺は男性が好きだった。
 理由なんてないと思う。小学生の頃、教育実習に来た男子学生にキスをされたけれど嫌じゃなかった。中学生の頃に好きになったのは事務員の男性だったし(片想いだったけれど)、あの叔父に身体を触れられる時さえ、俺の身体は否とは言わなかった。
 高校生になった俺は、父の知らないところで男性を相手に身体を売った。実際、父の稼ぎだけでは生活が厳しかったこともあるけれど、単純に俺の趣味の延長だ。それでお金を得られるなら俺にとってこんなに割りのいい仕事はない。
 父には本屋でバイトをしていると言いながら、放課後はいろんな男達と会った。
 俺は父と違って要領がいい。人を見る目にも自信がある。
 お金を持っていて社会的にそれなりの地位を築いている人。妻や子供を養いながら少年と言っていい見た目の俺を相手にして、それでも絶対に暴力を振るったり、脅したり、人を陥れるようなことはしない人。俺はそれを上手に嗅ぎ分けて自分の客にした。
 どの人も俺に優しかった。セックスも上手だったし、たくさんお金をくれた。
 ほんの時々、俺に対して本気になってしまうような可哀想な人もいたけれど、根はいい人達だったから、俺の恋の話をするとみんな労り慰めてくれた。
 俺の1番お気に入りの客は、そんな風にしてくれたうちのひとりだ。少し長めの髪を上等そうな香りの整髪料で後ろに撫でつけて、いつでも綺麗に髭を剃りあげている。背が高くて肩幅ががっしりとしていて、ぎゅっと抱き締められると安心できた。俺と同じ年くらいの息子がいるという。
「好きな人がいるんだ。あなたと同じくらいの年の人。あなた達みたいに世の中を上手く立ち回れないのに一生懸命でさ。すごく損をしながら、笑って生きてる」
「君がこんなことをしているって知ったら、その人は悲しまないの?」
 聞かれて、俺は痛む胸を誤魔化すようにひどい顔で笑う。
「悲しむだろうね。ひっ叩かれるかもしれない。でも、俺のことは絶対に抱いてくれない。そういう人なんだ」
 彼は、泣きそうになっている俺をぎゅっと抱き締め、頭を撫でてくれた。
「辛い恋をしているんだな、君は」
「……辛くないよ。あの人に比べれば」
 彼は俺と身体を離して、不思議そうに首を傾げる。
「どうして?」
「俺の好きな人は、世界で1番愛した人にもう2度と会えないんだ。それなのに、その人との間にできた子供と一緒に生きていかなきゃならない。その子供に、自分がどう想われているかも知らないで」
 彼はしばらく口を開けてぼんやりしていたけれど、俺の話を理解したのか目を見開いた。
「……君は、君の好きな人は──」
「ねぇ、今夜はあなたのこと、別の名前で呼んでもいいですか?」

 いつもは遅くても21時くらいには帰宅するけれど、その日は終電で帰った。
 父は先に帰っていた。着替えもせずに、居間の床に寝ころんでいた。
「父さん、こんなところで寝てたら風邪をひくよ」
 俺は慌てて父の肩を揺すって抱き起こす。父は寝苦しそうに唸って頭を上げた。一瞬、目と目が合う。
「ほら、起きて」
「み……」
「え?何、父さん」
 父の口元に耳を寄せると、父は母の名前を呼んだ。それからまたぐったりと倒れる。父の名前を呼びながら、他の男に抱かれた息子の胸に頭を預けながら。
「……、」
 俺は、自分の胸に縋る父をぎゅっと抱き締める。何かの過ちで、父がこのまま俺を母と誤って抱いてくれないものかと思った。でも、絶対にそんなことは起きない。
 俺は、父の名前を呼びながら泣いた。もし父が起きていたなら、親を呼び捨てにするもんじゃない、と言ってひっ叩かれたことだろう。

2019/09/15

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