Long Story|Short Story|Anecdote山の向こうに
まだ17時だというのに、外はひどく暗い。今日は夜から雨が降るらしい。重たい空はそのまま俺の頭に伸し掛かるみたいだ。湿気すら、呼吸を邪魔する。
待ち合わせの居酒屋に入ると、予約の名前を告げる。この時間ならわざわざ席を取ることもないと思ったが、カウンター6席に小上がりが2つ、全部合わせても30名弱しか入れない小じんまりとした隠れ家は、すでに半分が埋まっていた。
「お待ち合わせですね。奥の個室にどうぞ。もういらしてますよ」
「ありがとう」
約束の時間にはまだ20分ほど早いはずだが、先手を打たれるとは。
俺は店員に会釈すると、奥の小上がりで靴を脱いだ。暖簾をくぐった先に、この店には不似合いな髭面の大男が1人、胡座をかいて座っていた。
「よぉ、久しぶり」
「ああ、待たせたな」
「オレも今来たところだ。随分洒落た店を知ってるんだな」
「俺も人に教わって1度来たきりさ」
小部屋をぐるり見回しながら座る。
個室内は板の間に座布団、タモ材を使った円卓が、昭和風の懐かしさを醸し出している。竹をモチーフにした吊り行灯が橙色の光を灯し、俺達を柔らかく包み込んでいた。
熊のような風貌の男の隣には、大きな登山用リュックが立てかけられている。
「いつこっちに帰って来たんだ?」
「先週からずっといる。昨晩は、天狗岳から下りて来た」
てっきり海外に行っていたと思った俺は拍子抜けした。
この男は学生の頃から一眼レフカメラを抱えてあちこち撮り歩いていたらしいが、入社後は広報の専属カメラマンとして働いていた。俺の同期だったが、プロ写真家業界でもその腕を認められるようになり、2年前に退職した。
山岳写真家として世界の名だたる山を登って来たこの男にすれば、天狗岳などハイキングのようなものだろう。初心者でも一般ルートなら比較的楽に登れる、安全な山だ。もっとも、登山愛好者に真正面からそんなことを言えば、難易度など山の名前だけでは測れない、と一蹴されるだろうが。
俺は、かつてそう語った人の苦笑を思い出す。
「お前の代わりに、弔って来てやった」
「……え?」
短い追想に耽っていた俺を、男の声が呼び戻した。
「お前が慕ってたあの先輩……滑落して亡くなっただろう、天狗岳で」
「あ、ああ……なんだ、覚えてたのか。5年も経つのに」
俺は動揺を悟られまいと、運ばれて来た日本酒を猪口に注いでやりながら、しどろもどろに相槌を打つ。盃を合わせようとすると、男がじっと俺の顔を見つめていた。
「これは献杯、だな」
「……ああ。献杯」
音をさせずに猪口を掲げると、一気にあおる。まろやかな味わいだが、喉はじんと熱くなった。
会津磐梯山。以前この店に連れて来てくれた人も、この酒が好きだった。磐梯山の思い出を、興味を示さない俺にも熱く語り、しまいにはぐでんぐでんに酔った。ろれつの回らない舌でしきりに俺を山へ誘い、実際にいくつかの山へ俺を連れて行った。
八ヶ岳、高尾山、阿蘇山、乗鞍岳、八甲田山、道後山、笹ヶ峰。俺の休日を奪い、いろんな景色を見せてくれた。俺は登山自体にのめり込むことはなかったが、彼と一緒に長い時間を過ごし、いろんな話ができるのが嬉しかった。
彼は俺より一回りも年上なのに、少し頼りなくて可愛い人だった。地味で謙虚で努力家で、隣に支える女性も持たぬまま、30代でマネージャーにまで昇進し、頑張っていたのに。
5月の連休が明けて出社すると、彼の姿がなかった。連休に有給休暇を足して山に行っているのだろうと思っていたが、3日が過ぎて上層部がざわついていることに気づいた。直属の上司に話を聞けば、彼と連絡がつかなくなっているという。山岳捜査隊はすでに2日前に出発しているとのことだった。
俺は何だかふわふわとした心地でそれを聞いていたが、その月末、彼の遺体が見つかったと社内朝礼で発表された。
遺体の損傷からすると、滑落した時に背骨を折り、身動きできない状況で力尽きたらしい。グループ登山ではなく、彼は1人だった。
俺はそれ以降、1度も山に登っていない。
「お前もまた登ればいいんだ。俺が面倒を見てやる」
「元々アウトドア派じゃないんだ。それに俺はもう……登る理由もなくなったしな」
今になってこんな後悔をするくらいなら、あの日も一緒に行けばよかった。あの人を1人にするんじゃなかった。そうすれば彼はまだ、俺の近くで笑っていたかもしれないのに。
彼がこの店に俺を連れて来てくれたあの日、俺は酔った彼を介抱するふりをして、後ろからぎゅっと抱きすくめた。
一緒に山を登ることで、俺も山の危険は身をもって知っていた。それほど難しいルートではなくても、天候次第で山は見せる顔を変える。俺は彼と一緒にいたかったが、いつか彼が山に囚われてしまうのではないかと恐れを感じるようになった。ヤワな考えだとわかってはいても、できることなら危ないことはやめて欲しかった。あるいは、この想いを受け止めてくれるなら、どんなに危険な場所へでも着いて行こう、と。
しかし彼はやんわりと俺の腕を振りほどいた。彼は、俺とは性質が違った。
──俺は女性にモテないけど、君に慰められるほど性愛に飢えてはいない。ありがとう。君の優しさに感謝はするけど、俺はそうじゃないんだ。
そう言って、彼は困ったように笑った。
彼は、俺が思っていたよりも大人で、冷静だった。彼らしい、柔らかい拒絶を受けた俺は、黙って彼から距離を置いた。彼もそれを咎めなかった。
その1ヵ月後だ。彼が、天狗に足を掬われてしまったのは。
「あの人は、お前の心を山の向こうに連れて行っちまったな」
ちびりちびりと酒を進めながら、熊が低く唸る。俺は苦笑して、そうかもしれない、と口の中で呟いた。俺の想いが叶おうが、叶うまいが。
今でも時々思い出す。あの人の困ったような笑顔、上司の愚痴に潜めた声、しゃんとした背中。いつも目で追っていたのを、この男には気づかれていたのだろうか。
「5年だぞ。まったく、俺にしておけばいいものを……」
ぶつぶつとひとりごちるボヤきを、俺は聞き流す。
5年。長かったような短かったようなその積み重ねで、俺もいつの間にか30代になった。あの人の年を越してしまうのも、きっとすぐだろう。
2016/09/25
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