EX

耳で笑う蜘蛛

※ホラー要素有り

 ぼわぼわ ぼわ。
 ぼぼっ、ぼ。   ぼ。

 耳の中にミツバチを突っ込まれたみたいな、やたらと不快な感触がある。まぁるい毛玉をぶちこまれて、羽音がもぞもぞ暴れているような。
 リゾットは、書類を置いて耳の穴に人差し指を突っ込んでみた。

 第一関節を、ちょいと動かしてみる。
「……………………」
 勿論、耳の中には何も無い。ミツバチどころか、汚れを指先が掠めることもなかった。すこしザラついた皮膚があるだけだ。
 昨日のナポリは雨だった。昨日どころか、今日の昼ごろまでずっと空は灰色で、外の道路はまだ湿って黒くなっている筈だ。リゾットは、メローネが昨日「こういう気圧の低い日は、耳が気持ち悪くなる」と言っていたことを思い出した。

 ――気圧のせいか。
 なんて、リゾットにしては珍しい、世間にしてはありがちなことを理由に、リゾットは耳から指を抜いた。

 ぼ。ぼぼっぼ。ぼぼぼ。

 音はやまない。奇妙な感覚もそのままだ。
 違和感に眉を顰めながら、リゾットは再び書類を手に取る。チームの皆は全員出払っていて、アジトにいるのはリゾットだけだった。即ち、この書類を処理できるのも、リゾットだけだった。

 ため息をひとつ。
 ターゲットと顔写真と、名前と性別、それから職歴。情報がつらつらと並べられた書類は、履歴書のようだ。ペン先をしまったボールペンの先っちょを、紙の上に走らせる。目線と一緒に動かしていく。
 名前はダリオ・マリア。性別は男で、年齢は四十七。トレド通りでバールを営んでおり、今年で二十三になる娘がつい最近孫を妊娠し、祝いにパーティをしたばかり。バールの名はヴェルヴェロで、閉店後にチンピラ達の溜まり場として場所を提供している。そのチンピラ達が――ちょいと宜しくないことをやってのけたので、この男は、最初の制裁だ。白い髭をふかふかに蓄えた男は、一見温和な印象を受ける。リゾットは、目を細めた。

「……………ン?」
 もう一度ボールペンの先で彼の名前をなぞり、リゾットの眉が寄った。ペン先がなぞった後を追うように、蚯蚓みみずのような、蛇行した線が引かれている。
「(……ペンは、出ていない)」
 リゾットは改めてボールペンの先っちょを確認したが、そこには丸い空洞が空いているだけだ。インクを引きずるペン先は出ていない。

 リゾットは、もう一度、紙にペン先を押し付けてみる。
「…………?」
 インクは出ていない。ペンを押し付けた紙は、真っ白なままだ。……もしかしたら、見間違えだろうか?リゾットはそう思って、今度は名前の方に目線を移す。その時、ペンを紙から離したものだから、当然ペンの先っぽも宙に浮いた。

 べちゃっ。

 吃驚ビックリ、した。リゾットは吃驚した。明らかに大きな液体の塊が、紙の上に落ちる音がした。名前を確認しようとした目線は自然にその音に引き寄せられて、リゾットは目線をゆっくり下ろす。
 リゾットは困惑に眉を寄せた。資料を汚す真っ黒なインク。大きなシミ。たった今、ボールペンから落っこちたインクの塊は、資料の大部分を読めない状態にしてしまった。

 ぼわ。ぼわ。
 嗚呼、何が気になっちまったのか。その真っ黒い色を、リゾットは何故か凝視していて。そうやって凝視している間、明らかに違和感の塊が耳で大きくなっている。耳の穴から侵入して、裏っかわでぼわぼわと大きくなって、毛のチクチクした感覚が少しむず痒く、――ぼぼっ、ぼ。ぼーーー……っ――

 きもちわるい。

 ぶわりと冷や汗が浮き上がったとき、「ブーッ」というチャイムが鳴った。
「悪いリーダーさん!鍵忘れた!」

 リゾットは、ハッと顔を上げた。
「………………ガリカか」

 ガリカは、今日夕方仕事を終えて、夜には帰ってくると連絡を貰っていた。雨や曇りで助かったと言っていたから、彼にとって外の天気は都合よく働いたようだ。いつも日に焼けて疲れているガリカにしては、帰宅の声が元気だった。鍵を忘れた――というのは、頂けないが。リゾットは、立ち上がって玄関へ向かう。
 ふと、リゾットはなんとなく先程の書類を見返して――やっぱり眉を顰めた。インクの汚れなんて、綺麗さっぱり無くなっていた。

 部屋を出て、リビングの電気をつけて、玄関に向かう扉を開ける。ぼぼ。ぼぼぼ。耳の違和感が拭えずに、リゾットはやや苛立たしげに頭を振った。効果は無かった。

「リーダーさぁん」
「今開ける」

 ノブに手をかけて、……一応、本当にガリカかどうか確かめる必要があると思った。そこかしこで恨みを買っている自信があるチームの拠点なのだから、この程度の警戒心は持ってしかるべきだ。

 ヴウーーーン…………ぼっ、ぼっ、……
 リゾットは軽く屈んで、ドアの覗き穴を確認した。ぽっかり空いた穴の形は、なんだか先程のボールペンの先っぽと、よく似ているように思えた。だが、穴の先は暗闇ではない。円形のガラスに歪んだ光景だが、キチンとドアの向こう側の景色が見える。すぐ向こうにある路地は、雨に濡れたままだった。

「(なんだ)」
「(耳がすごく、)」
「(きもち、わる――――――)」

 扉の向こうからガリカの声が聞こえる。外は寒いから開けてほしいと訴えている。けれども彼の声を阻害するように、……ヴーン、ヴーン、ぼっぼっ、ぼぼぼ。耳の穴をもこもこのミツバチが塞いでいて、羽音を間近で聞いているようだ。触角が耳の奥をくすぐっていて、ゾワゾワとした感覚が皮膚の内側から這い上がって、頭から体温が奪われていく。ぼうっとするよりは、より鋭利になっていく感覚があって、だからこそ余計に気味が悪く、ぼっぼっ、ヴーー……ヴー……ン……ぼぼぼ、ぼ。

 音は、蛍光灯が切れる寸前のそれによく似ている。
「(五月蝿い)」

 リゾットがそれを耐えかねて、もう一度耳の穴に指を突っ込もうとしたとき。急に、ノブにかけた方の手が、外側に引っ張られた。

「あれ、リーダーさん?」
 キョトンと、ガリカがこちらを見上げていた。

「…………ガリカ?」
「?うん。そうだよ。というか何?俺が帰ってくるのわかってたのか?それとも、今から出るところかい?」
 ――随分なタイミングだな。
 とガリカがそう言って、リゾットの姿を改めて眺め直す。それは、たった今ドアを開けようとしたリゾットのことを言っていて、それを『知らずに』ガリカがドアを開けたものだから、ちょっと不格好になっていた。
「…………鍵を忘れたんじゃあ、無かったのか?」
「は?まさか。車のキーにくっつけてるから、それ忘れてたら俺は仕事に行けないよ」

 ふと、リゾットは、覗き込んだドアの向こう側が背景≠セったことを思い出した。そこに、ガリカは立っていなかった。……ほんの少しばかり、鳥肌が、立つ。
「……というか、リーダーさん。手に持ってるそれ、ボールペンだろ?仕事中か?」
「は?」
「右手」
 ドアを開けようとしたのは、左手。右手は、ついさっき奇妙な音に耐えかねて、自分の耳に突っ込もうとした指。リゾットの右手は、確かにボールペンを握っていた。

「…………………………、」
「……リーダーさん、なんか、調子でも悪いのか?顔、強ばってるぞ」
 硬直しているリゾットに、ガリカは苦笑いを浮かべた。それから「とりあえず中に入れてくれ」とリゾットにも中に入るように促す。リゾットは、わずかに茫然自失といった様子で、促されるままドアを閉めた。
 ぼっ、ぼっ、ヴヴーーーー……ン……。
 まだ、音は、消えない。

「ガリカ」
「ん?」
 リゾットが、自分の耳の外側をゆるりと撫でて、強ばった顔のまんま言う。
「俺の耳の中に、なにか、いるか?」

 ざわざわ。ざわざわ。音は耳の内側から。感触は耳の内側から。きっとぽっかり空いた空洞に見えるその場所に、なにか、いるような。そんな感覚だった。頭の奥から、耳の奥から、もぞもぞとした、ふわふわとした、ぼわぼわとした物体が、延々と這い出そうとしているみたいだった。
 きっともう、先っぽは顔を出している。人間のしわがれた指。蜘蛛の脚のように、チクチクとした毛が生えて、けたけたと這い出ようとしている。
 ガリカは片眉を上げて、それから「あぁ」と納得したように言った。

「リゾット=A少ししゃがんで」
 口調こそお願いだった。けれども、リゾットの耳を見上げるガリカの目は少し冷たくて、気配も僅かにピリピリとしている。ただ、しゃがむように促すガリカの手は優しかった。
「ガリカ、」
「大丈夫。俺の音を聞いて」
 リゾットにあわせて、ガリカもしゃがむ。彼はその細っこい指をリゾットの耳まで持っていき、ずぅっと違和感を訴え続けていた穴に、するりと、滑り込ませた。
「――――――、」
「何処から湧いたんだか」
 ざらり。薄い肌を滑る音は、大きい。うちがわの奇妙な音を削りとるように、そういう音がする。
「リゾット。もう少し深く息をすって、俺の指に集中してみてくれ。指の腹から、……脈拍みたいな音が、しないか?」
「………………」
 無意識の内に浅くなっていた呼吸を、リゾットは言われる通りに深くする。すると、ガリカは指の腹を一層耳の内側に強く押し付けた。その感覚に集中すると、ヴゥーーー、ぼっ。違う。ざりり。とく、とく、とく。脈のような、おと。

「………………きこえる」
「ベネ。じゃあちょっとそのままで居てくれよ」

 耳の穴に入れた人差し指以外――即ち親指を除いた三本の指で、ガリカはゆっくりとリゾットの首元を撫でた。その指が、リゾットの首の肉に沈みこんでいることなど、リゾット本人には、知る由もない。彼の視界はいま、ガリカでいっぱいになっている。
「リゾット、昨日の夕飯何食べたっけ?」
「?……確か、牛肉のタリアータじゃあなかったか」
「あ、そうそう。それだ。パスタにしようと思ってたのに、プロシュートが急に牛肉食いたいって言い出したんだよな。今日の朝は何だったっけ?」
「……ブラックオリーブのフォカッチャ。お前、変なところに入って噎せてただろう」
「うっ、嫌なこと思い出させるなよ。最近噎せると長引いてキツいんだよな……」
「歳じゃあないのか」
「体は二十だっつの。ちなみに昼は?」
「……………………忘れた」
「オイ。食べてないんだろう。その調子だと夜もまだだな?豪勢にしてやるから覚悟しておけよ」

 そう言って、ガリカは口の端を上げた。リゾットは「仕事で疲れてるだろう」と言いかけて――止める。首元から、ずるんと何かが、引きずり出されたような感覚があって。

 べちゃっ。

「さっさと消えな」
 ガリカが、それを落とした。それから、靴の裏で執拗にすり潰す。リゾットにそれは見えない。ガリカが床を虐めているようにしか見えない。――けれど、今までずっと張り付いていた奇妙な音が止んでいた。奇妙な感覚が無くなっていた。
 なんだか、どっと、力が抜けるような気がした。



「へぇ、変な音ね」
「あぁ。いつからだったか、記憶にない」
「昼飯を抜くからそーいうコトになるんだぜ」
「……次から気をつける。それと、ありがとな」
「いーえ。アンタがコメカミにボールペンぶっ刺すことにならなくて良かったよ」

 ちょっと遅い夜ご飯。驚くような手際で作り上げたスパゲッティ・アラビアータと、チーズをツマミにワインを開けたガリカはくすくすと笑った。リゾットとしては、割と冷や汗をかいた出来事だったのだが、彼にとってはそうでもないらしい。そう言えば、イルーゾォから『たまにガリカが何もいないところに話しかけている』という話を聞いた事がある。

「あーいうの、初めてか?」
「…………………いや、たまに、ある」
「っふふ。まぁー、こんな仕事やってれば『バケ』の一つや二つ、いや三つや四つは憑くか」
「いつもは放っておけば、勝手に収まるんだが」

 リゾットは、あの奇妙な音を思い出して、コメカミを指で強く揉む。

「よっぽど怨んでたんだな」
「笑い事じゃない」
「今日一緒に寝るか?」
「………………いい」
「残念」

 アラビアータはトマトの酸味と唐辛子の絡みが上手いバランスを取っていて、喉に流すとちょうどいい刺激になった。リゾットはフォークで巻きとったそれに大口を開けて咀嚼して、この辺りでようやく、自分の空腹を自覚した。
 その様子を見ていたガリカが、ちょっとだけ安心したように笑う。そして、もののついでとばかりに、彼がソファ横に置いた書類を指さした。(ガリカが夕食を作っている最中に確認を済ませようとしたら、『ドルチェでも食ってろ』と怒られ半端に放置していたものだ)

「それ、次の奴か?」
「あぁ。見るか?」
「ザッとだけ」

 リゾットが、書類の束をガリカに渡す。その一番上にあるのは、あの奇妙な現象が起きたきっかけの男が載っている。ガリカはワイングラスを片手に書類を上からゆるりと眺めて――眉を寄せた後に、ちょっぴり納得したように、笑った。

「これ、昨日の仕事だぜ」

 ――俺と、君がった奴。

/×

index OR list