らしくないことをした、という自覚は無い。ただ勝手に体が動いていただけで、そこに思考の余地は無かった。ただ、数日会話を重ねただけの依頼人を、海の魔物から庇うために、どうして自分が海に落下したのか。波に食われて意識をブツンと失ったのか。椿に、明確な理屈はわからなかった。

　Honey I’m home ――「ただいまハニー！」なんてふざけた名前が、椿が所属する、いや『率いる』冒険者チームの名前だ。勿論そんな面倒な名前を一々呼ぶ奴なんていなくて、大体は「HOIHO ―― ホイホー」なんて余計に馬鹿げた名前で呼ぶ。
　ことは、数日前。依頼が随分入らなくて、椿の執筆が進みに進んだ辺り。一向に『冒険者』という仕事に出向かない椿に対して、宿の親父の眉間の皺は深くなっていく。怒り半ばで親父がカウンターに叩きつけたのは、商船の護衛依頼だった。

　期間は二週間と長いもの。冒険者業なんて寝床も安定しない職業を酷く嫌っている椿が、それを快く引き受けるなんて有り得なかった。加えて親父が依頼書きを叩きつけたのが原稿の上だった為に、椿は頑なに首を横に振った。だが、椿が嫌な顔をしていると喜ぶ男もいる。それが夏目という男である。夏目は椿と親父の身にならない口論を暫く黙って聞いていたが、椿が子供のように「絶対にこの依頼は受けてやらないからなッ！！」と言い切ると、ご機嫌な笑顔で後ろから「承諾」の印を押してしまったのである。椿が「はぁ！？」と言おうが「こんなの無しだろ！」と言おうが、HOIHOが依頼を受けるという承諾印は消えることは無い。椿は項垂れた後、肘で力強く夏目の腰をどついた。

　残念ながらこういった「人の為になる依頼」はビスマルクが反対する訳もなく、シトムベはビスマルクが行くならと重くもない腰を上げるし、いつもなら面倒だと一緒に眉を顰める要ですら「そういやこの前海行きたいなぁ、なんて思っとりましたわぁ」とか言い始めてしまって。ロザリアは、「金になるならなんでも」と匙を投げる始末。椿は嫌嫌――いや、本当に嫌嫌この依頼を引き受けることになってしまった。依頼も前半は無事に終え、毎夜寝返りの度にぶつける額がそろそろ青あざになり始めた五日目。リューンを離れヴィスマールを越え、それから碧海の都アレトゥーザから海を走り、五日目のこと。船に乗る者なら誰もが知っている『魔の海域』とやらに差し掛かったあたり。本来は避けるべき舵をどうしてか取り損ねて、巨大な鯨と死霊鴉に襲われて、椿は依頼人を庇って海に落ちた。

　それが、ことの顛末。

　椿は、――なんで一番嫌がっていた俺が、こんな目に遭ってんだ―― ふざけろ、夏目――なんてことを、思っていた。
　意識が無くなる直前に、波の重さがいっぺんに自分の体に乗っかって、視界が真っ暗になって、ぶくぶくと無数の泡を見た。それから自分の体が上と下とで半分にちぎられたんじゃあないかと思うほど苦しくなって、そこからは、わからない。手を伸ばしたビスマルクの姿が見えたとか、お話じみたこともなかった。それどころじゃあ、無かったもので。
　椿は、そうやって海を流された。ひと晩か、ふた晩か、そんなこと椿の知ったことじゃない。だが彼女の持ち合わせた無駄な悪運が波を動かし、椿は巨大な魚に食われることもなく、意識の無いままどこかの浜辺に打ち上げられた。

「……………………」
　荒い岩に乗り上げた黒い濡れた髪を見た時、ネルはそれを『巨大なワカメだ』と思ったという。