一段目 回想
物音ひとつしない静けさに満ちていたものだから、扉間は部屋を間違えでもしたのかと一瞬思う。まるで沈黙と記憶が堆積する静謐な書庫のようだ。
――子どもの部屋にしては静か過ぎる。
忍を志し、いよいよ学び始める頃合いの歳だ、と先程改めて聞いたばかりである。甲高い声だけではない、空気の揺らぎやその空間に佇む息遣い。木の葉が芽吹くような溌溂とした活力。滲み出す熱。そういったものがまだ騒々しく無遠慮で、やかましい。それでいて、その賑やかさが微笑ましくもある。子どもとは往々にしてそういった生き物だと扉間は認識している。
「申し訳ありません、こんな部屋までご足労頂くことになって」
「構わん。無理をさせ、結果碌に話も出来ず後日となる方が面倒だ」
気遣いでもなんでもなく、心底扉間は気にしていなかった。相当に身体が弱いのだと再三にわたって聞いている。そんな相手を、まだ子どもであっても――否、子どもだからこそ無理をさせてまでわざわざ客間に来させる必要も無いだろうと判断した。呼び付けようとするのを扉間が断ったのだ。
どんな空間に囲まれて暮らしているのか少し見ておきたかったというのもある。部屋というのは、精緻な箱庭だ。そこに住まう人間の内側が垣間見える。会話の中から類推を重ねるより手っ取り早くて効率が良いと扉間は考えていた。
見たところ、客人を上げる上で無礼となるほど散らかっているわけでもない。埃や塵で余計に身体へと負担をかけないためだろう、清々しく清掃が行き届いていた。その歳の子どもが好みそうな玩具の類は身を寄せ合って息を潜め、書棚から取り出されたままのいくらかの本も慎ましく整列する。やはり子ども部屋にはどう見ても思えない、忘れ去られた書庫かあまり使われていない書斎というのが精々である。
あまり使われていない、とわざわざ付け足したのは、扉間の書斎など多忙にかまけて目も当てられないほど散らかっているからだった。
単に整頓されているのではなく、人の残す気配が極端に希薄だ。病弱な子どもが必要以上に親へ負担をかけないように心掛けているのだろう、と想像に難くない。
「イノリ」
部屋の隅、作り付けの大きな書棚と壁の、ほんのささやかな隙間。呼び掛けにより夢から醒めたかのように、小さな気配が揺らいだ。
「はい」
「お客様だよ、貴方の先生になる方。こっちへ来て御挨拶をしなさい」
存在感が薄い、淡い娘だった。色褪せたような色素のせいだろうか。
儚く大人しそうだが、意外なことに静かな視線は迷うことなくしっかりと扉間に向けられている。その純粋な真っ直ぐさは、扉間にとって僅かに驚きを覚えるものだった。強面というほどでもないが、子どもに好かれるような柔和な容貌ではないと自覚しているからである。
恥ずかしがって宙を泳いだり、軽率に揺蕩っている様子もない。見知らぬ大人を不躾に値踏みしている無遠慮さがあるわけでもない。目の前の人間に対しての誠実さを備えていた。
聡明な娘だ、と予め兄から伝えられていた言葉が、手触りを伴ってするりと扉間の胸に馴染んだ。
「はじめまして、イノリといいます」
「千手扉間だ、よろしく頼む」
「よろしくおねがいします」
素直な言葉だった。声は決して大きくないが聞き取りづらくもない。きちんと伝えようという意思がある。
「えっと、昨日の夜から息苦しくなって夜中に熱が上がって、朝には下がりました。今は――」
「イノリ」
微妙な沈黙が下りる。予想外だったのだろう、慌てて遮った声に少女は首を傾げた。
「先生は、お医者様ではないのですか?」
「違う。……娘には説明していなかったのか?」
「言い聞かせてはいたのですが、少し勘違いしていたようで。申し訳ございません」
漏れそうになった溜息を扉間は寸前で圧し留める。予想外ではあったが、事情を踏まえれば分からなくはない話だった。極端に外界との接触が少なく、その数少ない経験のうち出会う大人で『先生』といえば医者だけだったのだろう。
膝を曲げ、扉間は目の高さを少女に合わせる。虹彩の色素も同様に淡く、透き通る鉱物のようだ。扉間が探るように真正面から見据えても、それでも注がれる視線は揺るがない。
「イノリと言ったな、俺はお前に知識を教えるために来た。その歳で本を読むのが好きとは聞いているが、本の知識以外にも学ばなければいけないことが山ほどある。それを教えに来た」
「知識を、教える……」
「先に聞いておこう、学ぶ意欲はあるか」
「はい」
ささやかな、それでいて一片の曇りさえ滲まない澄んだ返事。ほう、と内心で舌を巻く。――これは、当たりかもしれない。
「イノリ、今読んでる本はなんだ? ……そうか、悪くないな」
「悪い本があるんですか?」
「いや、そうではない。歳の割に難しい本を読んでいて感心した」
書物が好きで聡明な娘らしいから、専任の文官にでも育ててみたらどうだ、と何の計画性もない夢物語を呑気に語っていたのは兄である。そう上手くことが運ぶか、と心底呆れていたのだが、なかなかどうして――。
もう一度、目の前の少女を見定める。果たして、どの程度使い物になるのだろうか。
「それで、読んでみてどう思った?」
「どう、って……よくわかりません。読むのは読みました。他にやることがないから」
「読むだけでは何の糧にもならんぞ」
思わず普段通りの取り繕わない事実が口を付く。対するイノリの返事は無い。この程度で委縮するならそれまでだろう、と反応を冷淡に伺うが、怯えて縮こまっているのではなく何事かを考えているらしい。投げられた言葉を鼓膜の奥でしっかりと受け止めて、咀嚼しようとする思慮深い目をしていた。
「……今持っている地図をやる。この里そのもの、この木の葉における理の根っこだ。何でもいい、次までに少しでいいから考えてみろ」
「次、ですか。わかりました」
次とはいうが、時間を割くのがどれだけ難しいのか、扉間自身が嫌でも分かっている現状だ。せめて文官がもう少し増えれば話が違うのだが、と。願うのは行政事務専任の文官だ。里の運営において文官に近い役目の者もある程度はいるが、業務に対してあまりに少なかった。人殺しを生業とする忍の寄り集まりなのだから当たり前といえば当たり前である。
扉間も里を運営する上での立案や算定ならいざ知らず、細々とした書類仕事など本当は死んでもやりたくない。迂遠な上に、体裁を整えるために神経を使う。扉間が効率重視の悪筆であるからその苦労は余計だった。
「字はもう書けるのか?」
「……少しだけ。すぐに疲れてしまうから」
「ああ、手先に力が入らんのか。簡単なことだ、手を冷やさぬように意識しろ。温めればその分書き易くなる」
「……え?」
「ん? かじかむのだろう」
白化した小枝のような細い指先を眺めていた扉間は視線を上げる。イノリは心臓が弱いと事前に聞いていたから、今更問わなくとも分かることだった。末梢まで血液を送る余力が無いから、指先が冷えて上手く動かないのだろう。至極当たり前のように返した扉間を、しばし穴が開くほどイノリは見つめた。
「どうした」
ふ、と薄氷に似た空気がほころんだように思った。何がそんなに嬉しいのか扉間には分からなかったが、そうして笑えばまったく年相応である。希薄だった表情が色付くように鮮明になっていた。
「はい。……ありがとうございます、扉間先生」
「礼を言われるようなことはまだ何もしとらんが。手炙りか
「ああ、それならどちらも。今度までには用意いたしますね」
「そうしてやれ」
その日は単にイノリという少女がどんな子どもであるのか、教えたところで果たして物になるのかという確認だけだった。単なる仕事の延長である。
元はといえば、イノリの両親からの柱間へと直々に相談されたものだったらしい。四人いる子どものうち、三番目の子が到底忍を志せないほどに病弱で将来が心配である、そんな内容だった。
イノリの家系は木の葉創設以前から手堅く実績を積んできた優秀な忍の家系である。逆に、忍になれない子どもをどう扱っていいのか分からない。有体に言ってしまえば、居場所のない子どもを持て余しているらしかった。
恐らく兄は両親の頼みを飲んだというより、病弱で満足に外へも出歩けない哀れな子どもに同情でもしたのだろう。
そもそも扉間は乗り気ではなかった。兄者が引き受けたのに何故俺なのだ、と思いはしたが他に適任らしい適任がいないので厄介なのだ。最近では里内の困り事なら扉間様へ、と思われているらしいことは嫌でも感じる。本来強靭であるはずの千手の胃の腑をもってしても疼痛が一向に止まないわけである。
あの手この手でサボろうと奮闘する兄の尻拭いで忙殺され、片付けるべき仕事など呼んでもいないのに次から次へと積み上がる。火急、至急、早急など、その他諸々。扉間の胃痛などまるで関係無く。
その中に、将来忍とならない子ども達の教育格差をどう片付けるのかという課題があった。前々から扉間もそのうちなんとかしなければ、と思ってはいたのだが、『そのうち』は誰かから直々に依頼でもされない限りそう回ってくるものではない。扉間に急ぎでもない仕事を押し付けられる誰かから、――柱間から依頼でもされない限り。
安請け合いで仕事を増やし、文官にでも育てればいいと太平楽を並べる。兄が楽天家でお人好しなのは今に始まったことではないが、大概にしてほしい。
「先生、これからよろしくお願いします」
「……俺は甘くないぞ」
それでも、なんだか随分眩しそうにこちらを仰ぎ見ていたので。
温石でも手炙りでも足りるかもしれないが、熱が安定せず管理も面倒であるのが難点だ。ことに寄ればより効率良く使えるものでも作ってみるか、と扉間はそんなことを考えていた。