二段目 静謐


 ひそやかな午後だった。
数日続いている快晴で湿度はさらりと低く、風も穏やかに微睡んでいる。心地の良い白昼である。ゆらゆらと揺らぎのある硝子を透かした昼光の中で、埃が光の粒のように音も無く降り注いでいた。

――ねむい。今、扉間は猛烈に眠たかった。
自他共に厳しい扉間をもってしても、到底抗えない粘度の高い睡魔である。二代目火影の名が泣くぞ、いやこれは千手扉間としての矜持に関わる。色々と繰り言ばかりが浮かんではくるが虚しくも消えていく。ここのところ家に戻るのが日付を跨ぐ頃ばかりだったから、という言い訳だけが消えずにしぶとく張り付いている。兄者ならば確実に寝ている、という恨み言も後から湧く。
書類を読んでいるはずなのに同じ行を読むのがもう三度目だ。つい今しがた四度目に増えた。
清冽な流れのごとく、普段は休みなく働き続けている脳髄は日向水のようにぬるく停滞している。時間さえも泥濘むように流れが遅い。睡魔も、思考も、木漏れ日も時間も静寂も何もかもが蹲って足を止め、ひっそりと沈殿している。

沈黙が心地良い。耳鳴りのするような欠落ではない。余白のある安らかな静けさだった。
執務室に流れる、秩序ある静寂が扉間は好きだ。
さりさりと刻み付ける細やかな連なりに、時折刺すように跳ねを刻む音。次の間でイノリが書き綴っている音である。一定のリズムで淀みなく連続していた万年筆の音が不意に途切れる。さら、と紙を捲る短い休符。かさり。海底で息を潜める貝殻のような青白い耳朶に、細い髪の毛をかける微かな音。万年筆が紡ぐ整然とした連なり。
それらは物を書き示すだけの、単純な行動の音ではない。儀式に相応しい慎ましさをも秘めた厳粛な営みに似ている。
静謐な旋律が鼓膜を通して脳髄へと堆積していく。外側の静寂と内側のあわいが曖昧になっていく。境界が溶けていく。
駄目だ。ねむい――。

ことん、と。
慎み深く、それでいて明瞭に鼓膜を叩く硬質な音。蕩けていた扉間の意識がゆるゆると浮上する。

「お疲れですね」
「……嗚呼。すまん、助かった」

眉尻を下げて笑うイノリを一瞥し、扉間は机の端に置かれた器へと手を伸ばす。普段イノリが差し入れてくれる湯呑ではなく、朝露を散りばめたような透明な硝子。幾ら眠気覚ましの効用があるとはいえ、今この瞬間にあたたかい茶など飲めばそのまま虚しく陥落するところだっただろう。
掌で握り込めば、冷えた指先から意識の輪郭が定まっていくような心地である。一気に喉奥へと流し込むと冷涼さと共に睡魔がさらさらと注ぎ落ちていく。粘ついた渇きは癒やされたが、それでも頭の芯はまだ澱んだままである。
空になった硝子器を受け取り、イノリは続けた。

「あの、警務部の建設用地の件ですが、視察はいつ頃でお考えでしょうか」

来週と伝えたはずだ、と鈍く濁った頭で一瞬そう答えそうになった。口を開きかけた途端、溢れそうになった欠伸を扉間は噛み殺す。威厳も何もあったものではない。
彼女の手の内にある硝子器と、困ったように、心配そうに眉を下げている顔を交互に見比べ、ようやく合点が行く。思わず息を吐いた。

「だが、大名との会談はどうする」
「それでしたら、つい先程延期したいとの御連絡が。日程は追ってまた調整下さるとのことです」
「相変わらず勝手なことだ。まあよい、ならば決まりだな。……しかしイノリ。お前、近頃本当に抜け目が無くなったな」
「それはもう、先生のご指導の賜物ですね」
「育てた甲斐がある」

何気無く告げてから、他の部下が聞いたらどう思うのだろう、と扉間は少しだけ考える。
正統な評価というよりただの個人的な感慨だ。普段わざわざ口にしない。別段言わずとも済むものを、おそらくは生ぬるい眠気のせいで意識の境界が僅かにまだ緩んでいる。

事務補佐として取り立ててから数年が経つが、教え込んだ時間で言えば十余年を超える。文官不足の解消と傷病者雇用の先駆け例になれば、と余り期待もせずに実験的に始めた手習だった。十歳にも満たない病弱な小娘が随分と真面目に取り組み、かつ完璧にこなすものだから、最初は事務的だった指導にも次第に熱が入るようになっていた。
それは欠落を埋めるような切実さだった。自分では決して手が届かない、見ることもできない世界への祈るような飢餓が幼い胸中にはあったのだろう。イノリは扉間が教えること全てを貪欲に学んだ。実務の基礎から、外遊先の政治や文化、身を守るための術、脆い身体との付き合い方、里の世間話に至るまで。どんなささいな断片すら惜しみなく、扉間は師として一つひとつ世界を与え続けてきた。
今のイノリを見ていると、慎重に積み上げてきた精巧な建築物を見ているような、安らかな達成感と傲慢な満足感がある。その足元が、いつ罅割れてもおかしくはない脆い薄氷の上であるから尚のことなのだろう。

視線を手元へと戻し、水と共に持ってきたらしい文書に扉間は目を通す。物資配分計画決裁書、忍籍管理規定の清書。言い付けた案件は全て完璧に揃っていた。彼女らしく端まで丁寧に揃えられた佇まいは端正でどこか誇らしげでさえある。

「報奨金の改定案はどうなっている」
「尋問部の提出だけがまだです、先程お声をかけておきました。一応内容の確認もさせて頂きましたが、明日の夕方には出していただけるかと」
「そうか、思っていたより早く済みそうだな。出してきたら次はこの要請書を渡しておけ。催促ではなく、念押しだ。……だが催促に聞こえるように渡せ、お前なら容易いだろう」

火影直属として側に置くにあたって、さては公私混同か、二代目様も隅におけない、と訝るような嘲るような下馬評が無かったわけではない。二十も下の若い娘を事務補佐として取り上げれば、そんな悪評も立つだろうというのは充分想定の範囲内だった。むしろ立たない方がおかしいだろう。

実際に働き始めれば誰もがすぐに無駄口を噤んだ。扉間がイノリを甘やかさなかったのは言うまでもなく、偏に本人の力量である。仕事ぶりは非の打ち所が無く、丁寧で誠実。人柄も決して自己を主張し過ぎることなく慎み深い。直接扉間に申し上げにくいことでも、イノリを通してならば言いやすい。厳格な為政者の補佐として申し分ない存在だった。

扉間は差し出された羽織に袖を通す。次に取り掛かる草稿の解読を試みているイノリへと声を掛けた。

「それは明日でいい。見たところ一区切りついてるのだろう、着いて来い」
「ですが、二代目様。うちはの区画までですと私の足は遅過ぎます、お一人で回られた方がよろしいかと思いますが」
「どうせ戻らんのだから構わん、今日はそのまま上がる。お前も帰れ」
「私もですか、それは――」
「お前が処理した分だけ俺の仕事も進めんといかんだろう、付き合う方の身にもなれ。……流石に疲れた」

言ったら負けだ、と。口に出さないようにしていたが認めてしまうと余計に身体が重怠くなってしまった。

「ここのところ付き合わせて無理をしていただろう。今日辺りでゆっくり休め」
「お気遣いありがとうございます。じゃあ少しだけ、片付けだけしてきますね」

少しだけ肩の緊張がほぐれた、未だあどけなさの残る声だった。火影直属の補佐として慎重に張り詰められた彼女の意識がふと緩む一瞬、繊細な硝子細工のようだった頃のちいさな声が今と重なる。
――聞こえるも何も、相変わらず子どものままなのだから当然だろう。

決裁書に承認印を手早く押し、自分が渡した忍籍管理規定の草稿とイノリの清書を見比べる。当然内容は変わらないのだが、これが同じものなのだとは到底思えない。草稿の文字は効率を重視し過ぎた奇怪な暗号だ。意識すればある程度読み易くも書けはするが、イノリ相手だとどうしても癖が出る。

「俺が言うのもなんだが、よくこれが読めたな」
「慣れてますから。それに先生の字、私は好きですよ。なんだか秘密の宝探しやパズルに似てる気がして」
「また妙な事を……」
「私にとっての事実をお伝えしただけです」

毒気無く笑うイノリに、扉間は肩を竦める。

「あと、文字には温度がありますよね。体温の方が近いのかな、書いた人の心臓をそのまま写し取ったみたいだと思うんです。先生の字はあたたかくて好きです」
「一体どこからそういう発想が出てくる。それだと冷血漢だと名高い俺は氷でないとおかしいだろう」
「それは外側でしょう、先生はお優しいですよ」

相変わらず流れるように整った、たおやかで細い字だ。自分が書き殴った乱雑な走り書きがこうも整えられたと思うと、それが彼女に割り振られた役割とはいえど矢張り思わず舌を巻く。
昔から変わらないのかもしれない。扉間から見た世界をイノリが受け取り、そして今度は彼女が自らの手で積み上げる。イノリの世界、引いては彼女という存在そのものがそうして作り上げられてきた。この文書のやり取りという実務的な作業も、何百、何千回と繰り返したひそやかな営みの延長線上にあるのだろうか。

くあ、と知らぬ間に息が漏れた。溜息ではない、欠伸である。しまった。――幸い、まだイノリは背を向けている。
扉間の準備は早い。対するイノリは身体に余計な負荷がかからないように万事において慎重になりがちである。よく言えば所作が丁寧で、悪く言えば何事も遅い。同行を促したのは扉間であるし、事情も理解しているので今更急かすつもりなど毛頭ない、それこそ慣れている。
むしろ執務に追われていない時に、見るとはなしにイノリのことを眺めるのが嫌いではなかった。そこには安堵を伴う心地よさが存在する。整然とした秩序のある機関を注意深く観察するような、そんな感覚である。

机の片付けが済んだイノリは愛用の万年筆を丹念になぞり、整えている。深海のような思慮深い紺色に螺鈿の細工がよく映える、贅沢だが華美ではない上品な意匠だ。絢爛な螺鈿が花火のような光彩をばら撒き、虹を押し込めたような極彩色を病的な白に沿えている。硬質な艶が磁器のように冷えた指先からますます体温を啜り取る。境界が溶け合うように、今では人差し指の一部として機能していた。あるいは、万年筆に彼女の指そのものが乗っ取られてしまったかのように分かちがたい。
最早身体の一部のような万年筆を、一点の曇りなく拭き上げることが彼女の仕事終わりの習慣だった。

「その万年筆、随分と丁寧に扱うが相当気に入っているのか」
「え?」

驚きを隠さない顔でイノリが振り返る。苦笑しながら少し首を傾げた。

「気に入ってるも何も、先生が下さったんですよ。お忘れでしたか」
「……そうだったか?」
「そうですよ。私が筆で苦労してるのを見て、こっちの方が力が要らなくて書き易いからって。わざわざ持ってきてくださったんです」

言われてみれば、と思い返すとそのような覚えもある。ただ真実今の今まで忘れていた。確か、他国からの献上品か何かで受け取ったのだが、装飾的過ぎて扉間の趣味には合わず、無造作に仕舞い込んでいたのだ。
貰った本人が不要とはいえ、仮にも木の葉の有力者へと捧げられた恭しい貢ぎ物である。子どもへ与えるにはなかなか度肝を抜くような逸品だが、肥やしにする位なら相応しい者へ、という当然の判断だったのだろう。
扉間は過ぎたところにあまり頓着しない気質である。合理性に基づき施したものなど、余程のことが無い限りわざわざ思い返さない。省みる必要が無いからだ。

無頓着な施しが巡りめぐって補佐としての役割、ひいてはイノリの生き様の礎になっている。その事実に不意を突かれた。イノリはただ嬉しそうに笑っている。

「だから、嬉しかったんです。勿論こんな贅沢なものを頂いたので畏れ多いような気持ちもあったんですけど、苦しかったら辞めていいって言われるのが普通だったので」
「そうか」

せいぜい大事にしてくれ、と言いかけて扉間は結局止めた。イノリが片付けを終えこちらに戻ってきたのと、今更言わずとも彼女の性分など分かり切っているからだった。イノリは何事も疎かにしない。きっと明日も明後日も、そのまた先も。連綿と続く約束された儀式のように繰り返し飽かずに行うのだろう。それこそ、か細い命の続く限り。



「良い天気ですね」
「そうだな」
「晴れていると雲の影が山の上に落ちますよね。私、あれを見るといつも遠い国の地図を見ているような気持ちになるんです」
「明日は雨が降りそうだ、としか俺には見えんぞ」

イノリの言葉に扉間も里を取り囲む山並みへとまた目をやる。意味ありげな文様には見えなかったが、確かに良い天気ではある。
執務室に住んでいる。まことしやかにそう噂される扉間ではあるが、実際には散歩や巡察を含め外回りが割と好きである。時間が無いから自ずと機会が減っているだけで、現場に任せるより自分で見て聞いた方が余程正確で効率が良いからだ。机上に収斂していた意識が里全体へと拡散し、分散した思考で物を見ている開放感がある。
――要するに。扉間とて忍であるので事務仕事が続けば身体を動かしたくなるのだ。

「そういえば、この間の釣果はどうだったんですか?」
「……今は、時期が悪い」
「先生、何よりポイントが大事だって前に言ってましたよね。坊主でしたか」
「聞くな」
「次こそは釣れると良いですね」

悪気があるのだか無いのだか、恐らく毛頭に無いのだろう。聞いたまま思ったまま、言われたことに対して事実を率直に述べているだけである。下らない話をしている時のイノリは扉間相手に案外遠慮無くモノを言う。何度か指摘した事もあるのだが、師匠が良いからだと空惚けられるとその通りだと言うより他ない。

「ねえ先生、警務部の用地は里の中枢から離れていますよね。有事の際に支障は出ませんか」
「要所は分散させるのが基本よ。一箇所に集中させれば一手に機能が止まる。そもそも警務部の構想自体が俺の考案だ、その辺りは織り込んである」
「そうでしたか。先生がご考案されたのは勿論存じていますよ」

道すがら、往来からの挨拶や会釈をやり過ごす。その中で見知った声が掛けられた。

「おや、二代目。ようやく峠は抜けたか」
「お陰様でな」

男は連絡部を指揮する、奈良一族の者だ。柱間の補佐時代から事務仕事が集積し続ける扉間にとって数少ない分水嶺の筆頭でもある。能吏と言って差し支えないほどの実力だが一族由来の秘伝を継承しており、行政面でも実戦面でも頼りになる。各方面から重宝されている男だった。

「その補佐殿のお陰だろう。相変わらず仲睦まじいことで」

出世に頓着しないところもあり肩肘張らない気安さが好ましい。反面、その分野心が無いので遠慮も無い。扉間が火影となった今でも平気で軽口を叩いてくるのが玉に瑕だ。

「相変わらずの減らず口だな。見ればわかるだろう、視察ついでの巡察だ」
「そうですか。なんだか散歩みたいにも見えるがな」
「ならば少しは考えろ。貴様こそこんな所で油売って何をしている」
「薬草園からの呼び出しでね、向こうだけで処理してくれれば楽なんだが……」

溜息混じりにそう答え、男は続ける。

「確かイノリと言ったか、評判は聞いてるよ。実際、私に押し付けられていた仕事も今では随分と減った。結果的に助かってるよ、あんたのお陰だろう」

向けられた視線に答えるようにイノリが丁寧に頭を下げた。

「恐れ入ります。至らぬ点も多いのですが、二代目様のご指導ご鞭撻のお陰で」
「いやいや、助かってるのは本当だ。何事にも気配りが効いて卒が無いと聞いている。正直なところ、うちにも来てほしいくらいでね」

本心半分、世辞半分といったところか。この男のことだから、もしかすると打算もない本心なのかもしれない。イノリは社交辞令と受け取ったのだろう、いつもの弁えた笑みを浮かべながら受け流している。

「どうだ、そんな薄情者の側で働くより本当に――」
「やらん」

被せる様に遮った。

「欲しいのなら自分で育てろ、十年もあればそれなりのものにはなるだろう」

軽口を真剣に受け取ったのなら少々情けなくもあるが、ここまで仕込んだのも事実である。相応の自負もある。
イノリの他にも何人か試したが、結局残ったのは一人だけだ。それを横から掠め取られるのは癪だった。虫が良過ぎる、聞いてやる義理も無い。

「おお手厳しい。まあ一事が万事こんな男だろう、嫌になったらいつでも来なさい」
「黙れ、まだ言うか」

降参したように手を挙げて男は苦笑する。それでは、また、とひらひらと手を振りながら雑踏へと戻っていった。

「……先生、薄情じゃないのに」

独り言のように呟かれた言葉に目線を向ける。言うに事欠いてそれか、とも扉間は思う。ただイノリらしくもあった。男の勧誘など全く聞いていなかったらしい。何も答えず歩き出した扉間をゆっくりと足音が追う。

「次はどなたに捕まりますかね」
「無難に済むに越した事はないがな、このまま日が暮れては敵わんぞ」

何事もなかったかのように投げかけられた静かな声に、扉間はそう返す。規則正しい足音がまた続く。


ふ、と会話が途切れた。注意深く吐いたイノリの息がわずかに浅い。イノリに合わせてやるのが習いとなっている歩調は決して速くないはずだが、蓄積した疲労からの消耗が予想より早いのだろう。わずかに足取りが慎重になる。
初夏へと向かいつつある日差しは陽気だが無遠慮に明るい。光の感度が高いイノリは少し眩しそうに目を細めている。執務室の静寂の中では完璧に機能する器官のような彼女が、軽率な白昼の中では驚くほど頼りなく脆く見える。片羽が欠損した羽化したての蝉のように。そう見えてしまう、時がある。

半歩後ろを歩いていたイノリが僅かに重心を失う。声より先に手が出ていた。

「使うか」
「いえ、大丈夫です。それに先生、私はもう手を引かれるような子どもじゃないですから」
「歳など関係なく、 蹌踉よろければ壁を支えにするし転びそうなら杖を使うだろう。それにお前はどう見てもまだ子どもだ」
「貴方の補佐ですし、もう大人ですよ」
「そうか。それならもう少し相応に振る舞ってほしいものだな」
「でも、ありがとうございました」

確かに正論ではある。イノリが言うそれは紛うことなき正論なのだが、何故か扉間は相槌に留めるだけで肯定する気になれなかった。子どもの頃から見守っていた病弱な娘が一端の口を利くようになった。その月日への感慨と充足感は確かにある。思春期の子どもを抱える親のような感傷だろうか。不惑を過ぎても独身のままである自分が抱く感情としては、少々飛躍している気もするが。

「あー!先生!」
「……サル、にお前達か」

破裂するような騒々しい声に思考が霧散する。振り返ると同時に扉間は眉を寄せた。厄介なことになりそうな気配がする。――否、絶対になる。

「デート? いいなあ」
「おい馬鹿」
「戯けた事を言うな、仕事だ」
「あ、その人が先生の補佐?」

興味を隠そうともしない爛々とした眼差し達がイノリへと向けられる。当のイノリといえば自分とは対照的な熱気に当てられたのか、曖昧な笑みしか返せていない。どこか浮世離れしたように目を眇めながら、こちらを静かに眺めていた。

「なー先生。その姉ちゃんのこと、どう思ってんの?」
「補佐だが。それに優秀だ」
「じゃなくて!」
「お前等より聞き分けが良くて真面目だったぞ。見習え、爪の垢でも煎じて飲め」
「えー」
「だって気になるんですもん! 先生、前から聞いても全然教えてくれないし」
「コハル、お前失礼だぞ」
「……手塩にかけて育てたから可愛い、とでも言えば満足か」
「やっぱり好きなんですか!」
「何故そうなる……」

きゃあ、という歓声。――面倒臭い。最早諦めの境地である。

「お姉さんは先生のこと、どう思ってるんですか?」
「……え?」
「いい加減にしろ」

急に水を向けられ、茫洋とした表情を浮かべていたイノリは面食らったように目を瞬く。一拍置かれた間に子ども達が息を潜めているのが嫌でも伝わる。イノリは困ったように首を傾けた。

「好きですよ、だって先生ですから。みんなも先生のことは大好きでしょう?」

至極当たり前のようにそう答えた。しゅう、と萎むように躍動していた期待が収束する。納得したような、していないような。誠実な答えのようで、それでいて煙に巻かれたようでもあり、子ども達は不満そうだ。
付かず離れずで成り行きを見守っていたカガミが、不意に扉間を見上げる。真っ直ぐな眼である。他意は無いにせよ、うちはの双眸に見据えられると、それが子どものものであっても若干居心地が悪い。

「……扉間先生、あの人先生にお似合いですね」
「ませたことを言うな」

ようやく追い払うように散らばらせ、扉間は息を吐く。余計に疲れた心地だ。うちはの区画はまだ遠い。

「元気な子達ですね。声だけでも跳ね回っているみたい」
「……なかなか手を焼かされる」
「先生が子どもの頃も、あの子達みたいに賑やかでしたか」
「むしろ聞きたいが、あの兄を持って俺も同じだと思うのか?」
「……思わないです」
「ならば分かるだろう。兄者も今と変わらんがな、いつまで経っても騒がしい……」

すう、と引いていく喧騒に静寂が再び染み込んでいく。大勢でいれば存在感が希薄で埋もれてしまうが、二人きりでいる時はこちらが飲み込まれてしまいそうな。どこか、閉じられた深い底へと陥るような。イノリといると、扉間は時折そんな心地になる。
イノリという人間は、常に静けさで満ちている。先程の教え子達とそう変わらない頃から知っているが、本当に静かな子どもだった。喧騒や熱気だけで括るのならばイノリは初めから大人ということになる、それは流石に馬鹿げた解釈だろう。
先程までの教え子達の残像が網膜に過ぎる。今のイノリを透かし試行錯誤したところで、一向に重ならない。

「……大人、か」
「何か仰いましたか」

思わず呟いた扉間へとイノリが問いかける。敢えて言い直す気にもなれなかった。ただの独り言である。

「いや、何でもない」

そんな会話を続けるうちに、うちはの区画は後もうしばらくとなっていた。

程なく至った建設用地の視察を終え、一人帰路に着く。道すがら時折挨拶をされることはあったが、特段足を止めるほど話しかけられることはなかった。だからだろう、さざめく残響が鼓膜に染みている。


さり、と変わらず万年筆の漣が白昼に溶けている。紙が翻る乾いた音。さりさり、さり。規則正しく、乱れることなく秩序を保って音が連なっている。
書簡の確認が終わり、扉間は次の文書へと手を伸ばす。頭の芯は澄んでいた。万年筆の音に眠気を誘われることもなく、恙なくいつもの通り進んでいく。
決裁の合間に、ふと思い出したように口を開いた。

「イノリ、明後日の夕刻以降は空いているか」
「明後日ですか、特に何もありませんが」
「兄者の屋敷に呼ばれている。別段大した用ではない、珍しい菓子が入ったとかで騒いではいたが……。まあ、どうだ」

扉間は言ってから、一体何を聞いているのだろう、と思わなくもなかった。柱間に呼ばれているのは自分であって、イノリではない。連れて来いとすら言われていない、共に行かなければならない理由など何もない。
だが言い直すほどの違和感でもなかった。ひと匙の雫が溢れ、口をついてただ当たり前に流れ落ちた。それだけのことである。

「先生、私はもうお菓子で釣られるような歳ではないですよ」
「誰も釣っておらん」
「そうでしたか。……では、お邪魔でなければ是非」

万年筆の音が再び流れ出す。何事もなかったかのように秩序が整う。イノリはそれ以上何かを言い足すことなく、ただ嬉しそうに頷いただけだった。扉間もまた手元へと意識を戻す。決裁印を押す乾いた音が一つ、万年筆の連なりに紛れた。

今朝は昨日より日差しが強い。硝子を透かしたゆらぐ光に白い熱が宿っている。背中にじっとりと熱が篭る。指先が熟れる。
なんだか酷く、喉が渇いていた。


額縁