もう一段


 ひそやかな娘だった。
今でも時折思い出してしまう。思い出すことしか出来ないそのたおやかな女のことを。
戦乱の世に生を受け、里を興し育む中で、非情に徹し二代目火影として生涯を捧げた。留まることのない猛き奔流のような、燃えるような人生だった。その早瀬に寄り添っていた水底のような静けさのことを、未だに忘れられないでいる。
別の世に生まれた扉間にはあの頃と同じように兄もいた、弟もいた。弟子たちも、かつて啀み合った敵もいた。皆がそれぞれ記憶を持ち、それぞれがあの頃と別人として生きている。扉間も木の葉での記憶を持ちながらも、ただ一介の学究の徒として日々を過ごしている。
微睡む日向水のような、平和で起伏の無い日々。そこに、あの白はいなかった。抜け落ちた無音の空白だった。
生前に一度だけ、彼女のもしもを夢想してしまったことがある。だが、そのとき思い描いていた夢にも彼女の隣に扉間がいるとは願えなかった。だからこそ、この空白もそういうものだと飲み込める。
もしも生まれ落ちているのなら。どうか今度こそは、――ただ健やかであれ、と扉間は思う。
遠いどこかで、幸せに生きていてくれればいい。幸せであればそれでいい。
今でも時折、そんな事をふと考える。


「先生、お手伝いしましょうか」

問いかけられた言葉に我に返る。講義を終えた学生たち三々五々に廊下へと散らばり、すでに教室は閑散としかけていた。目の前にいるのは扉間の専門である物理の学徒だ。

「自分でやる。次の講義に遅れるぞ」
「えー、でも次のは無いですし」

大学の教師群の中でまだ年若い扉間に気があるのか、妙に圧しが強いのが気掛かりであり胃痛の種である。社会的にまだ終わりを迎えたくはない。

「いいと言ってるだろう、ほら早く行け」

いい加減億劫になり、扉間は素っ気なく追い立てる。不満げな顔をしながら学生は渋々というていで教室を後にした。
はあ、と思わず溜息が漏れ出る。師として仰がれるのならまだ構わないが、色恋の相手として懐かれるのなら別だった。学生としての本分を弁えろ、とつくづく思う。何の為に大学まで通わせてもらっているのか。平和で平穏だが、豊かさが爛熟した贅沢な世である。

ホワイトボードに書き殴った数式を手早く消す。物理屋の板書が崩れていることなど別段珍しい訳ではない。だが、それを差し引いても奇怪な暗号にしか見えなかった。

「……汚いな」

他人事のような自嘲が漏れた。次の講義は大学院生全体に向けた必修だが、スライドであるのがまだ救いである。以前、扉間の悪筆に慣れていない畑違いの学生から感想と称したクレーム紛いが届いたことをまだ根に持っている。

扉間はホワイトボードを消し終え、無人となった講義室を後にする。学生の騒めきが引き潮のように引いた廊下は独特の静けさに満たされている。足音が反響する。空白を挟んだような遠くのどこかで笑い合う漣の声がする。
学内の静寂は活気に寄り添う余白のような慎ましさを帯びている。講義を終えた後の教室。陽光だけが差し込む渡り廊下。図書館の奥深くにある書架の隙間。忘れ去られた掲示物。今では使われていない廃墟の温室。ふ、と世界の外側に紛れ込んだような心地になる。

受け持つ講義はまだ先である。共同研究室へと至り、自席へと腰を下ろした。離れた席で作業をしていた秘書がこちらに目を向ける。

「千手先生、お疲れ様です。コーヒーお淹れしましょうか」
「ああ、どうも。お願いします」
「そうだ、あの子また来てましたよ。モテますねえ、相変わらず」
「……勘弁してください」

あの子、とは先ほど声を掛けてきていた件の女子学生である。眉間の皺がより深くなるのを感じる。本格的に胃が痛い。ブラックで渡されたコーヒーに、珍しくミルクを入れるか迷ったほどである。教え子に手を出すなど、死んでもごめんだ。

配信済みの資料を確認しつつ、話すべき要点を整理する。普段受け持っている専門ではなく、大学院生が研究を行う上で必要となる教養――要は、研究倫理についてである。
どういう流れで自分が請け負うことになったのか最早曖昧だが、これ以上の皮肉もそうあるまい。前世で死者を冒涜する研究を重ねた男が今や倫理を説いている。仮にうちはの兄弟に知られでもしたら一生酒の肴にされるだろう。一度は別の教員に回してくれと食い下がったこともあるが、評判も良いし適任だと退けられた。何がどう適任なのだ。専門外だ、と言い捨てられないのが苦しいところである。

扉間はコーヒーを飲み干し、要点を頭に入れ直してから席を立つ。廊下に出ると講義の合間特有の無人の静謐さで満ちている。階段を降り、建物の外へと出た。
晴れている。空が高い。
大講義室に向かう道すがら、学部棟の向こうから学生たちの声が聞こえる。遠く、近く、遠く。笑い声が重なっては崩れる。自分とは関わりのない音が着かず離れずの距離で縷々とただ流れていく。遠い彼方の海鳴りを聞いているような心地だ。
すれ違う学生達が軽く頭を下げ、扉間も目で返す。少し高揚したような歓声については聞かないふりをした。

大講義室のドアを開ける。まだ誰も学生は来ておらず、扉間ただ一人である。使われていない講義室は部屋ではなく、ただの空気の塊だ。階段状に連なる空白の椅子はまだ静まりかえり、蛍光灯の蒼褪めた灯りだけが整然と降り注いでいる。扉間は教壇に立ち、手元のスライドを確認する。マイクの音響を調整する。水を飲む。講義前にやることなどそうある訳ではない。

やがて学生たちが疎らに入り始め、点々と席が埋まっていく。教室を満たしていく気配と衣擦れと囁き声、視線。扉間はいつものように受講者の顔を教壇から見渡した。
ふ、と一点で目が留まる。
――白い、と思った。だからどうしたという話である。確かに色白ではあるが、学生の肌を見てつくづく白いなどと思う教員も気味が悪い。大体今は仲春なのでまだ薄着には程遠い、何をどう見て思ったのかすら分からない。
否、――明るいのか。光の粒を両手で掬い上げ、そこだけに集めたかのように見えるのだろう。目線を逸らそうとしても、何かを囁きかけられるかのように、時折目が留まる。

正面の中ほどに座っているから自然と目が行くのだろう。それに、随分と姿勢が良い。教養科目を受ける生徒は大抵腑抜けているものだから、伸びやかに緊張した背筋の良さだけでも目を引いた。時折僅かに目線を下げる、その角度が。どこかで見たことがある気もした。思索の海底に沈んで、蹲る言葉を丁寧に手繰り寄せるような慎ましさ。細い指が時々こぼれ落ちる髪を浚っては耳に掛けている。筆記具を携え、手元のノートに何かを記している。
さり、と書き綴る音が聞こえた気がした。
真っすぐに向けられた視線が交差する。軽率に揺蕩うわけでもなく、ただ目の前にいる人間に対する誠実さを秘めたひた向きな視線。僅かに扉間の息が止まる。
この世界に二人だけのような、そんな妙な感覚に陥った。――いくらなんでも飛躍しすぎだろう。

「研究倫理とは何か。端的に言えば、研究が社会の信頼に足るものであることを担保する為の規範です」

マイクを通した自分の声が講義室の空気を均す。階段状に並んだ席を見渡しながら、扉間は淡々と口を動かす。初回の導入。総論から入り、原則の骨格を示し、次回以降で各論に入る。毎年同じ構成で、もう何度も繰り返している。
スライドを送る。定義が並ぶ。
学生の大半は手元の端末に目を落としている。配信済みの資料と照らしているのだろう。幾つかの視線が教壇に向けられているが、それらを滑るようにして、扉間の目はまた同じ場所に戻る。正面の中ほどの席、しなやかに伸びた背筋、傾ける首の思慮深げな角度。
整った顔立ちだ、と扉間は思った。大学教員といえどただの成人男性である、美人がいたら目が向くのも道理といえば道理だ。無論あまり褒められた事ではないが。
それに加え、あの娘がこちらの講義にきちんと目を向けている数少ない内の一人なのである。大半の学生が手元の端末に気を取られている中で、丁寧にスライドの要点をノートに書き留め、無駄に俯くこともなく真摯に教壇へと意識を向けている。教員としては目が行くのも自然だろう。真面目に聞いている学生に好感を持たない教員がいたらそちらの方が余程どうかしている。

「次に、人を対象とする研究について。ここでは一つの原則を押さえてもらいたい」

スライドが切り替わる。

「インフォームド・コンセント。研究対象者に対し、研究の目的、方法、予見されるリスク、そしてそれらを踏まえた上での参加の自由意思――これらを十分に説明し、対象者の明確な同意を得なければならない」

言いながら、自分の声が妙に遠い。俯瞰している。言葉の一つひとつに覚えがある。理論としてではなく、生々しい実感だ。
口が止まりかけたのは一瞬のことだ。原稿を忘れた訳でもない。何事もなく流暢に言葉だけは流れている。
自分が何を言っているのか、正確に理解してしまった。対象者の同意。意思の尊重。死者を弄ぶ禁忌への、その意志を。一度は得た。一度は聞かずに、今際の際にただ会いたかっただけである。一度得た許しも、果たして同意と言えたのだろうか。一度ならず、二度も私欲に付き合わせた。何十年と積み上げ、出来る手段を持ちながらも行わずにただ沈黙の底に凝っていた。その果てに、全てをやり終えた安堵と解放から、もう一度呼ばずにはいられなかった。求めていた、それと同時に求められたくて堪らなかったから。
頭を振る。扉間は何事もなかったかのようにスライドを送った。

「当然のことながら、対象者の意思は最大限に尊重されなければならない。同意の無い研究は、いかなる成果を上げようとも倫理的正当性を持たない」

その時、視界の端で空気が揺らいだ。あの席だ。扉間を仰ぐ目蓋が緩み、口元が幽かに、ほんのかすかに綻んでいる。澄ました顔が淡く色付く。――笑っている。手で押さえて隠しながら、堪え切れずあふれ出た雪どけの水のように。
周囲の学生は誰も笑っていない。今の説明に笑う学生がいるとすれば、碌に聞いていないか、余程惚けているか。あの娘はどちらでもない。注意深く耳を傾け、一言も漏らさないように聞いている。その上で笑ったのだ。
ぐ、と息が詰まるような心地がした。

「――具体的な事例については次回以降に扱う。まずは原則の全体像を頭に入れておいてください」

残り時間が少なくなる。スライドの最後のページに辿り着いた。質疑を促し、手が二つ三つ上がり、いくつかの問いに答える。あの席からは手が上がらない。静かに、扉間をただ見つめている。
一途に祈るような、そんなひそやかな眼差しだと、今になって気が付いた。
講義が終わる。九十分、たった一枠だ。未だかつてこれほど長く感じた九十分に覚えは無い。
灼けつく様に喉が渇いていた。喉元に熱がせり上がる。水は飲んでいる。――ならば、これは。
件の学生が余計な音を立てないよう、控えめな所作で席を立つ。階段を上がって教室を後にする波の合間を縫うように、こちらへと降りてくる。
迷いのない足取り、芯のある静謐な目、そして――胸を締め付ける何かに堪えるような、そんな苦しげな表情。

「――イノリ」
「お久しぶりです、扉間先生」

聞こえてきた声は穏やかだった。軽やかに笑いながら、それでも随分と切なげな顔で目を細めている。
イノリが、いる。
生きて、笑って、ここにいる。苦しげなのは発作に怯えているわけでなく、ただ嬉しいから。そう思うと、扉間の胸が張り裂けそうになる。それだけの事実に溺れそうだった。
言葉が感情に沈んで浮んでこない。扉間は何もかもを言語化して生きてきた人間である、こんな奔流は初めてだった。何も言えずに俯いた扉間を見かねたのか、イノリが覗き込むように首を傾けた。

「研究倫理のご講義、とても分かりやすくて面白かったです。先生が一番よくご存知の分野ですもんね」
「……今は物理が専門だが」
「知っていますよ、シラバスに書いてありましたから」

そんなことまで見ていたのか。――つまり、イノリは事前に扉間のことを知っていたことになる。知っていて、一講義分を何気ない涼しい顔で座っていた。元から気骨があると思っていたが、これほどとは。
下げられた視線が机上に置いてあるノートへと向かう。イノリは続けた。

「字は綺麗になりましたか?」
「意識はしているが、どうだろうな。前にクレームが来たことはある」
「本当ですか。でも私は好きでしたよ、先生の字はあたたかくて。また見せてください」

無邪気に、毒気無く笑う。

「でも知らないことが沢山です、これから教えてくださいね」
「……お前は、まず背が伸びたな」
「はい、元気ですから」

嗚呼――、と扉間は思った。長いながい間、背負っていたことすら忘れていた荷物をやっと下ろしたような、そんな辿り着いたような安堵があった。
――すこやかな、娘だ。幼くして何もかもを弁えなければいけなかったことも、恋心ひとつ抱くことすら負担にしかならなかったことも、今の彼女にはもう何も関係が無い。その事実が。
ただ今は、この煌めくようなたおやかな命を眺めていたい、扉間はそれだけを願った。

互いに申し合わせた訳でもなく、講義室を後にする。廊下を歩いていると、さっき程まで静まり返っていた空間が色とりどりの音に満ちている。すれ違う学生たちの声、足音、どこかで笑い合う声。その全てが瑞々しいほど鮮烈に聞こえた。
隣にイノリがいる。半歩後ろではなく、隣に並んで。扉間が歩幅を合わせずとも並んで歩ける。かつてのようにこちらが歩みを緩める必要がない。軽やかに、もう自分の足でついて来られるのだ。
建物の外に出ると眩むばかりの陽が弾けていた。イノリが少し目を細める。光に翳した艶やかな睫毛が、閃くようにまたたいている。

「ねえ先生、折角だからカフェでお茶でもしませんか」
「ナンパか。最近の若いのはどうなってる、どいつもこいつも……」
「若いのって、もうそんなに歳も変わらないですよ」
「論点が違う。考えてもみろ、学生と二人でカフェなんぞに行ってるところを見られたら俺がどうなると思う。……研究室で少し話すか」

体裁を整えている、という自覚があるのだから始末が悪い。だが、あの研究室の一角に彼女が座る。それを思い描くと、欠落がようやく当てはまったような充足に満たされる。

「ありがとうございます。先生の研究室って今はどんな感じですか」
「……どこに何があるかは分かる」
「散らかってるんですね、相変わらず」
「散らかっている訳ではない、全て把握した上で置いてあるだけだ」
「それを世間では散らかってるっていうんだと思います。でも先生の置き方には独特の秩序があるんですよね、将棋の盤面みたいな」
「口が減らんのは相変わらずか。分かっているとは思うが触るなよ」
「勿論です。……でも少し楽しみです、先生の今のお部屋」

研究室の事務と会えば、何か言われるだろうな、と扉間は思った。昔の馴染みだとでも言えばいい。まごう事なき事実である、嘘ではない。嘘ではないが、馴染みと片付けるにはいささか常軌を逸しているだろう。

「……その前に、腹が減ったな。コンビニでも寄るか」
「いいですね。私あれが好きなんです、あたためるスープ。色々あって選ぶのも楽しいし、時々変わるから飽きなくて」

好きなものの話をしている。食が細く嗜好に薄かった、あのイノリが。食べるだけで負担が掛かり、楽しむことすら出来なかった。それが今や、嬉しそうにコンビニのスープの話をしている。たったそれだけの些細な事である。それだけのことが、こんなにも狂おしい。

「好きなだけ買え、そのくらい奢ってやる」

思わず振り絞るような声になったのは、いつかの悔恨か、それとも改めて湧いた感慨か。扉間には判別がつかない。ただ、熱心に品定めする横顔を眺めていたいと思った。その健やかさがどこまでも連綿と続くものであればいい。どうか好きなだけ悩んで、好きなものを呆れるくらいに選んでくれ。​​​​​​​​​​​​​​​​

抜けるように晴れ渡った青空に一機、飛行機が白く輝きながら南へと飛んでいく。空が無性に広く感じた。


額縁