第十三話 ながらへば


 火照る頬にそっと手を重ねる。じわりと広がっているのは熱ばかりで、不思議と痛みは感じなかった。心は酷く凪いでいる。悲しいとすら感じていない。
 夫の目が、あまりに静かな色をしていたからだろうか。
 深い深い森の奥のような、ひそやかな瞳。私はただ、眺めていただけだった。しっくりと頬に食い込んだマダラの掌が、このまま溶け合ってしまうのではないか。白い皮膚が蕩け出し、境など無くなってしまうのではないか。そんな事を頭の隅で思っていた。張り倒され強かに身体を打ちつけても、ただ茫洋とその指先ばかりを見つめていたのはその所為である。その掌が離れる時に、何かを力一杯引き剥がす音が聞こえたのではないだろうか。そればかりが気に掛かった。

「、あ……」

 鏡に映る顔に、思わず息を呑んだ。随分と、腫れている。熟れたような朱の痕に、恐る恐る指を這わす。今まで痛いとすら感じてはいなかったというのに、いざ鮮やかな刻印を認めれば思い出したように痛みが湧いた。それと共に、先程のマダラの眼差しが甦る。湖の底が揺らいだ色。打ち据える視線。
 掌が触れていたのは一瞬であった筈なのに、生々しく体温は残っている。愛しむように触れた手が頬を打つそれと同じことに、未だに違和感を拭えない。私は、確かに見ていたのだ。それでも、何故か遠い夢のように輪郭がぼやけてた。記憶が馬鹿になってしまっている。
 堪らずに、何度か頬を指先で擦る。彼の掌の皮膚が、張り付いているような気がしたからだ。

 きっかけは、もう思い出せなかった。恐らくは、丁寧に指を這わせないと見落としてしまうようなとても小さな、ちいさな棘だったのだろう。やわらかな皮膚を貫き、棘は奥深く突き刺さる。根は深い。知らない間に取り返しの付かないくらい刺してしまって、暗い何処かで怯えたように身を潜めているだろう。糸のように細い血が傷口から流れ出すばかりで、今はもうどうする事も出来ないのだ。


 イズナが亡くなってもう一年が過ぎようとしているが、あの日からマダラは変わってしまった。一族の長として敵対する千手に真っ向から戦い抜くという覚悟は、確かに以前からの彼の姿勢ではあった。それでも、長引く戦で双方の一族は疲弊していく。互いに誰もが心の底では休戦を望む中でも、彼だけは頑なに戦う事を主張した。
 いつの間にか、一族の意志とマダラの心はゆるやかに離れていったのだ。隣にいると、その埋まらぬ距離が抉るように胸を刺す。遣る瀬無かった。彼が一族を誰よりも思う気持ちは、息苦しいほど分かっていたからだ。
 諭す様にマダラに問い掛けても、彼は頑として聞き入れない。意見を交わす度、細やかな傷が幾重にも重なっていった。気が付けば、擦れ違ってばかりいたのだ。
 それでも。何度か言い争いになりそうな事もあったが、崩れる手前でいつも均衡を保っていた。甘やかされて、いたのだろう。手を上げられた事など、初めてだった。
 もう一度、鏡に映る自分の顔を見詰める。鏡面に映る己の顔は、泣き出しそうに歪んでいた。


「セキナ、お前も俺に逆らうのか」
「違いますっ、そうではありません。ただ……このまま戦を続けていても、きっとイズナさんは、」
「五月蝿い――」

 その瞬間、乾いた音だけが響いていた。容赦無く張り飛ばされた私は、その反動で倒れ込む。唇を噛んで広がる鈍い味。身体は竦んだように動かない。俯いて、しばし瞬きばかりを繰り返していた。
 どちらも何も言わなかった。ただ、マダラが拒絶を示していたのかといえば、恐らくそうではない。彼の指先は、か細く戦慄いていた。紅き瞳孔と虹彩の境が蕩けている。粒子の細やかな目蓋が絶えず痙攣していた。
 叱られた、子供のようだった。私の頬が痛むのではなく、彼の頬が痛んでいるのではないか。そんな倒錯した不安を抱いてしまう脆さである。ごとり、心臓が跳ねた。頬を打ち据えた掌は、あの時確かに私を求めていたのだ。

「セキナ、」
「…………」

 ――名前を呼べば、よかったのだろうか。
 震えた声が聞こえても、私はずっと口を閉じていた。そうする事が定められたかのように、ただ息を潜め、彼の爪ばかりを見つめていた。眼球は乾いていた。マダラの爪を確りと眺めた事など、多分初めてだったのだ。みずみずしい薄桃色の滑らかな曲線。胸の底が淡く疼く。肌に触れていない筈のそれが、何故か胸の奥に刺さったような気がしていた。


 それきりマダラは何も言わず、踵を返すと何処かへ出掛けてしまった。もう二刻も前のことである。その時からずっと、私は何をするでも無く、だらしなく壁に凭れかかっては無為に時間を過ごしている。
 頬がずっと疼いていた。熱が燻っているのだ。呻くように声を漏らし、膝を抱えて頭を埋める。

「……いたい」

 幼子のように頭を振る。しゃら、と簪が細く揺れた。そっと指を這わせると、珊瑚の珠が少しだけ欠けているのが分かった。気が付かなかった。先程倒れ込んだ時に、何処かにぶつけたのか。
 髪に挿していたそれを抜き、祈るように抱き締める。とても小さな皹割れが、堪らなく怖かった。

 ――多分、彼は恐れたのだ。指の間から滑り落ちて、跡形もなく壊れてしまう儚い物を。大切な何かほど、羽化したての蝶のように脆く果敢無い。余りに呆気なくイズナが逝ってしまったから、急に怖くなったのだろう。ひそやかな終わりが、ぞっとする程近くに息を潜めている事に。
 大丈夫、傍にいる、と。その背中を抱き締める事は容易だった。きっと、マダラはそれを望んでいた。けれど、――。

「イズナ、さん」

 イズナなら、どうしただろう。こんな時、私にどう言ってくれただろう。そんな事を、ふと思う。答えなど、決して返ってこないのに。幾らあの笑顔に問い掛けても、終ぞ言葉は返ってこない。胸の奥に問い掛けた言葉だけが、ただ暗い底で反響して澱の様に沈んでいく。深くふかく落ちていっても、その先は冷ややかな闇でしかない。
 溜息を吐いた。胡乱な事ばかりが、浮きつ沈みつしては脳裏を掠める。
 嗚呼、マダラは何処に行ったのだろう。

 その時、耳慣れた声が響いた。

「ごめんください、どなたかいらっしゃいませんか」

 我に返り、弾かれたように顔を上げる。玄関先で誰かが戸を叩いていた。簪を元の様に挿し込み、揺蕩っていた意識を掬い上げる。
 慌てて玄関に向かえば、見覚えのある青年が立っていた。

「あらヒカクさん」
「どうもご無沙汰しています、奥方様」

 そう言って頭を下げる彼はうちはヒカク。一族きっての実力者であり、マダラの参謀を務めている青年である。立場上度々屋敷に出入りしていた所為もあるが、何よりその屈託の無い性格のお陰で、私が初めて打ち解けられた相手でもあるのだ。マダラとは歳が近い為、幼い頃から親しくしていたのだという。実際、参謀とはいえマダラとヒカクの関係は知音のそれに近いものだった。

「お久しぶりですわ、どうなさいましたの?」
「少しお話が。マダラ様は御在宅ですか?」
「いいえ、ずっと朝から出ていらして。いつ頃お戻りになられるかも……」
「そう、ですか」

 歯切れの悪い口調である。何か、大切な話があったのだろうか。このまま返してしまうのも気が引けて、咄嗟に言葉だけが口を衝いた。

「折角ですから、上がって待っていらしてはいかがでしょう。お茶でもお淹れ致しますわ。そうでした、頂いた錦玉羹がございますの。涼しげで良いものですよ」
「ではお言葉に甘えて。すみません、そうさせてもらいます。――失礼」

 夫の気を損ねてしまったというのに、一体何をしているのだろう。今更のようにそう思う。だが、一人でじっと帰りを待っているよりも、誰かと過ごしている方が気が楽だった。

「頭領、何処かに行かれたんですか?」
「それが何も仰っていなかったので、詳しくは……。お役に立てなくてごめんなさい、お急ぎでしたのかしら」
「いえ、そういう訳ではないんですが」

 私達の事情など露程も知らないヒカクには余り深くは伝えられない。ヒカクも何かを察したのか、それ以上は問わなかった。いつもの調子で微笑んでいるが、心なしか彼の笑みもまた硬い。きっと、何か大切な話があったのだろう。
 マダラは、いつ帰ってくるのだろうか。そればかりが気に掛かる。

 客間へ向かいながら当たり障りの無い話していると、ふとヒカクが首を傾げた。

「どうされたんですか、その頬。随分と腫れている」
「いえ、大したことでは……。先程うたた寝をしていたら、寝惚けて打ってしまったんですの」
「笑い事じゃありませんよ、大丈夫なんですか?」
「そんな、この位平気ですわ」

 そう笑って答え、そっと髪で頬を隠す。頬は未だ火照っている。後で冷やしておいた方がいいだろう。顔の瑕疵はやはり目立つ、きっと見苦しいに違いない。延々と無為に時間を過ごしていた先刻までの自分を、今更のように恨めしく思った。
 ヒカクの視線が、垂らした髪越しに向けられているのを感じていた。――気付かれてしまっただろうか。ひたひたと伝う眼差し。気になる気持ちも分からないでないが、少し、居心地が悪い。今日は空気が強張っているようだ。
 何かあったのだろうか。マダラが早く帰ってこればいいが――。

 今に雨が降りそうだ。あの人は何処に行ったのだろう。


「話と言いましたが、実はセキナ様、あなたにお話があって今日は伺ったのです」
「私に、ですの?」

 客間に通し一息吐いたところで、ヒカクがそう言った。予想外の言葉に、僅かに目を見張る。ヒカクは今まで何度も屋敷出入りしていたが、私への要件など初めてだった。話と言われても、心当たりなどまるで無い。

「あの、何のお話でしょう?」
「…………」

 たっぷりと間を置いた後、ヒカクが深い溜息を吐いた。

「千手から使者があったことをご存知ですか」
「え?」

 思わず首を傾げる。確かに頭領の妻とはいえ、忍としての能力が皆無な私には外交の事はほとんど知らされていない。寝耳に水だった。

「あら、そうでしたの? ごめんなさい、マダラ様は余り私にはそういったお話をなされないので、その……」
「いいんです、分かっています」

 戸惑いながらそう答えると、ヒカクが頭を振った。伏せていたその目を上げる。

「十日程前の事ですが、千手から中立の一族を介して使いがあったのです。とはいっても、休戦自体は随分と前から上がっていたことなのですが。正式な申し出があったのは、今回が初めてです」
「まあ……」

 感嘆のような、およそ間の抜けた声が口を衝く。ヒカクが少し目を伏せる。

「一族は休戦を望んでいる。ただ、当のマダラ様が乗り気でいらっしゃらない。それは、セキナ様もご存知ですよね」
「はい、その事は何度か」
「何故渋られているか、知っていますか?」

 応とも否とも答えなかった。喉の奥で言葉が蹲っている。ヒカクはじっと私を見詰めていた。射抜くような、哀しげな視線だ。
 ――その瞳は、誰かに似ている。覚悟さえ滲ませた青褪めた色に、ひっそりと心臓が動いた気がした。ヒカクの唇が、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。

「あなたなのです」

 静かな声に息を呑む。――どういう、意味だ。

「休戦交渉自体は前からあると言いましたね、それには一つだけ条件があった。うちはと千手の同盟がより磐石なものに成るよう、誓いを立てる事です」
「…………」
「聡いセキナ様ならお分かりでしょう、――嫁入りです」
「……それは、その」
「千手からうちはへ、です。千手柱間の実妹、千手咲耶を頭領に輿入れさせるという提案でした。千手側からの監視とも取れますが、これは我が一族としても決して悪い話ではない」

 千手が、輿入れ? どういう事なのだ、何故そんな事を。

「そんな、……。それでは、マダラ様は」
「今まで疑問に思われませんでしたか? いくらあなたが忍では無いとはいえ、族長の正妻である事には変わりはない。本来ならば、立場上嫌でも耳に入るでしょう。何も知らされていなかったのは、ひとえにセキナ様を慮っての事だったのです」
「私を?」
「簡単な事です、セキナ様に余計な憂慮を掛けたくなかったのですよ。万一こんな事をご存知になれば、誰から言われずともご自分で身を引かれていたかもしれない。あなたはそういう人だ」

 買い被りだ、そう言い掛けて止めた。ヒカクは続ける。

「勿論、マダラ様が妻であるセキナ様を一心に愛されている事は重々承知しています。あなたを守る為に、千手側の条件を受け入れることが出来ないのだとも。ただ、一族の総意が休戦へと向かっている。その枷となっているのが、」

 ――セキナ様なのです。
 残酷な程ひそやかにヒカクはそう呟いた。淀みない声に眩暈がした。幾度かまばたきを繰り返す。哀れむ様に私を見詰めている顔が揺らぐように瞬いた。眩々と言の葉が巡り廻る。――嗚呼吐き気がする。うねる様な感情の揺らぎ。回旋する声。零れそうな激情を抑え、漸う掠れた声を振り絞る。

「私に、一体どうしろと仰るのです」
「……頭領とは、離縁して頂きたい。それが我等うちは一族があなたに望んでいることです」
「そんな、……」

 何事かを言いかけて、口を噤んだ。確かに、分からないでもない事なのだ。本来、私とマダラは政略結婚。戦乱の時代、好いて共に添い遂げるは夢のまた夢。家の為、一族の為、想いを捨て自分を殺す事など実にありふれている。考えてみれば、私は恵まれているのだろう。過程がどうあれ、結果的には愛し合ってマダラと伴侶となったのだ。相当に幸せな方なのである。
 ――だが、それも本来ならば必要無い。結婚は個と個が結ばれるではなく、家と家、一族と一族が結び付く事に重きを置かれる。感情などは二の次だ。嫁いだ先はうちは一族、栄華を誇り忍の頂点に立たんとする輩。当然、マダラの婚姻も一族の隆盛の為となる筈のものだった。元はと言えば、古からの名門と謳われた磐永家と契りを交わす事になったのもその為なのである。旧家の姫君、その肩書きが在るのならば頭領の妻としては相応しい。だが、それも――。
 それも、昔の話だ。そう心の内で独り呟く。

「確かに、磐永家も絶えた今、私はもう何の後ろ盾もない身ですわ。輿入れから三年も過ぎますけれど、マダラ様の御子を身篭ってもおりません。ですから、皆さんがそうお考えになられるのも当然の事と分かっております。一族にも、マダラ様にも……ただの枷としかなりませんもの」

 今は絶えた貴族の亡霊。対するは、うちは一族と双璧をなす旭日昇天の名門、森ノ千手。うちはと千手、彼等が手を取り合えば、その栄華は限りないものだろう。考えるまでもない事だ、私はマダラにとって毒でしかない。所詮は何の役にも立てないのだ。
 それに、血を残す事さえ――。
 分かっている、頭では分かっているのだ。これは私の我儘だ。それでも、
 弱々しくかぶりを振る。でも、と声を振り絞った。

「嫌です、――いやなんです。あの方と離れたくありません」
「そう、ですか」

 それ以上は何も言えず、ただ俯いた。凝る静寂。沈黙が重い。――聞こえているのは、雨音だろうか。俄かに降り出した雨の声が、遠い彼方で響いている。

「――セキナ様、」

 ヒカクが切なげに顔を歪ませる。その睫毛はか細く振るえ、黒き瞳孔は何かを押し殺す様に揺らいでいた。ごそり、と心臓が動く。苦しげな表情に動揺を隠せなかった。その唇は、何事か告げることを酷く躊躇している。
 ――何故、そんな表情を。これ以上、一体何が言いたいというの。
 思わず戸惑っていると、その唇は重々しく開かれた。

「私は、セキナ様の事は決して憎い訳ではありません。寧ろ、一族など関係無しにお慕いしています。本当は、こんな事は……」

 耐えかねた様に口を噤む。固く握り締めた拳。やわらかな膚に爪が喰い込み、艶やかな鮮血が滲んでいた。ゆっくりと目蓋を閉ざし俯く。一呼吸を置いた後、ヒカクは独り言のように紡ぎ続けた。

「何処までも穢れを知らないあなたが、堪らなく好きだった。ずっと、憧れていました。一族の皆がそうです。人を殺す事でしか己を保つ事の出来ない渡世だから、傷一つ無いセキナ様が羨ましくて仕方が無かった。同時に、――」
「――っ!?」
「酷く、妬ましかった」

 力任せに肩を押され、視界が暗転する。打ち付けた背中。押さえ付けられた手首の骨が悲鳴を上げる。呻く声が口から漏れた。

「ヒ、カクさん……? 何を、」
「…………」
「は、離してくださいッ! 離してっ」

 頭の上で両手を纏められ、四肢の自由は奪われる。腕を押さえられ。裾を割られ。押え付けている側とは逆の掌が、ゆっくりと衿の合わせ目を這った。

「離して、お願い離してッ――」
「俺は今から無理やりにでもあなたを犯す。殺しはしません……、ただ辱めを受けた以上もうここには居られなくなるでしょう」
「い、やッ……! 待って、止めてくださ――」

 ざらついた視線。押し倒したままに私を見下ろす瞳孔は、ぞっとする程に一切の感情が消えている。必死に体を捩じらせ藻掻いても、その力は弱まることは決して無い。

「なら、ご自分から離縁なされますか? セキナ様から言ったところで、あの方がそれをお許しになるとは到底思えない。あれ程愛情の深い方だ……。だからこそ、相応の理由が必要なんですよ」
「そんな、……。では、初めから」
「そうです、やっとお気付きになられましたか。どうあれ、あなたには傷を付けなければいけなかった。妻ともあろう者が密通していた事が露見すれば、族長としての面子もある。流石にマダラ様も黙ってはいらっしゃらないでしょう」

 その言葉に声を失った。ざわざわと視界が揺らぎ、見る間に生ぬるい雫が眦を濡らす。噛み締めた唇から血の味が滲んだ。
 首筋を這う冷たい指。異なる温度。鼓膜を揺るがす声は、聞き慣れたそれではない。胸元を這いずる手に、怖気が走った。――嫌だ、嫌嫌嫌嫌。離せ、離せ触るな。

「酷いっ……!」
「何とでも言ってください。――怨まれる方が、余程気が楽だ」
「嫌、いやぁああ!マダラ様ッ――」

ヒカクが目を細める。その顔を歪ませ、崩れるように嗤った。

「マダラ様は、いらっしゃいませんよ」
「――っ、」
「あなたは独りだ。その位、とうに分かっていたでしょう?」

 守る者は、もう居ない。――ヒカクの声だったのかは、今になっては分からない。もしかすると、己の叫びだったのかもしれない。嗚呼嗚呼。そもそも、これは現実なのか。脳髄が肥大して、私の境が曖昧になっている。頭が眩み、滲んだ世界が巡り回る。うねる耳鳴りが鳴り止まない。五感さえ朧気な意識の中で、ただ其の言葉だけが幾度も胸の内で反響した。
 ――そうだ、分かっていた。
 この頬は、誰が打った。浴びせられた罵声は、誰の声だった。家は絶え、イズナも逝き、マダラの心も離れてしまった。私には一体何が残っているというのだ。誰が味方か、誰がこんな私を守ってくれる。
 誰も、居ない。何も無い。そんな事は分かっていた筈だ。
 どれほど足掻こうと、弱き女という檻からは抜け出せなかった。彼の横に立てる位に強ければ、きっと世界は違っていたのだろう。縋ることでしか呼吸も出来ない。貞淑な妻という脆い鎧を纏い、愛という諸刃の剣で生きてきた。愛し愛され、あの人が居るならそれだけでよかった。マダラだけが、全てだったのだ。
 だが、それも――。それも、嗚呼嗚呼、

「どう、して」

 それを境に、私は自分を見失った。


 さあさあ、と雨が降りしきっている。雨樋を伝う水音。雷鳴。雨の音。鼓膜に張り付いた喘鳴。
 どうやら、雨が強いようだ。夫は何処に行ったのだろう。雨に濡れてはいないだろうか。
 そんな事を考える。雨音が酷く五月蝿い。

 最初に戻ってきたのは、聴覚だった。水底を揺蕩っていたかのように凝っていた音が、ゆるやかに形を成し回帰する。残響のような声達が胸の深くに沈んでいく。
 ざあざあ。轟々。ぽたり。どくどくどくどく。ごめんなさいごめんなさい。呱々呱々。――嗚呼泣いている。
 閉じていた目蓋を薄く持ち上げた。視界は酷く蕩けている。声は、出なかった。泣き過ぎて嗄れてしまったのだろう、喉の奥が焼け付くように乾いている。もう一度まばたきを繰り返した。ようよう明瞭になる世界。茫洋と、ただ外ばかりを眺めていた。庭では梔子が咲いている。
 嗅覚も戻ってきた。幽かに梔子の香りが馨しい。よき香りだ、胸を刺す臭いを和らげてくれる。

「――痛い、」

 襲う鈍痛に思わず呻いた。体中が悲鳴を上げていた。生々しい痛みにようやく自分を取り戻す。全ての感覚が瑞々しい、吐き気を催しそうなほど。
 ――叶うのならば、ずっと夢に揺蕩っていたかった。
 痛い痛い、と呻き続けていると、背を向けていた黒髪が揺れた。

「セキナ様、」

 ヒカクの声。思わず肩を強張らせる。戸惑いがちに伸ばされる腕。血に濡れた唇を噛み締め、伸ばされた手を跳ね除けた。

「――触らないで」
「…………」
「ご自分がなさった事、分かっていらっしゃるのでしょう」
「…………」
「これで満足なのでしょう。穢わしい、私は淫売ですわ。さぞかし胸が空きましたでしょう」
「…………」
「――なんとか、何とか仰ったらどうなのっ」

 引き裂くように声が迸る。震えの止まらぬ肩を抱き、ただ滂沱の涙を零し続けた。ヒカクは何も答えない。せめて肌を隠そうと、剥ぎ取られた襦袢に手を伸ばす。身を起こせば、白濁した欲がどろりと内から溢れ出た。背筋が凍る。
 そうだ。私はヒカクに、抱かれたのだ。
 あの人ではない他の男に。辱めを。
 犯されて、穢されて、
 酷い。嗚呼嗚呼、いや。嫌嫌嫌嫌――汚い穢わしい厭わしい。
 死んで、しまいたい。

「ころしてください」

 己の喉から零れたとは思えぬほどに静かな声だった。驚いたヒカクが瞠目する。

「いっその事、このまま殺してくださいまし。離縁などは外聞も悪い。夫の留守に男を連れ込み、乱心であったために手に掛けた、と。そう報告なされば、その方が据わりがよいですわ」
「それは、……」
「同じ事でしょう? このままでは間男のあなたも手打ちにされますわよ。私には関係ありませんけれど、殺されるなど不本意でございましょう」
「俺には、あなたを殺すことなんて出来ない」
「――、」

 力無く首を振るヒカクを睨み付ける。ふざけるな、と。叫ぶ筈の言葉が喉の奥で凝った。結局零れるのは嗚咽だけ。腑抜けのように俯いた。
 舌を噛み切って、死んでやろうかとも思っていた。だが、何故それをしないのか。結局は死ぬのが怖いのかもしれない。いや、だがそれよりも、
 何故か心に爪を立てるヒカクの態度。憔悴したその表情が胸を掻き乱す。
 ――何故、何故そんな目をする。何故、そんな眼で私を見る。
 そんな悲しい目で、見ないで。

「殺すくらいなら、傷がついても生きていてほしかった」
「……何を、今更」
「今更、確かに今更です。他に方法があったのかもしれない。だが、もう時間が無かったんです。――すみません、セキナ様」

 思わず目を見開いた。彼は続ける。

「一族の中で、秘密裏にあなたを殺すという案が出ていた。セキナ様さえいなければ、マダラ様は千手の要件を呑まれるのではないか。……愚かな話です」
「何を、仰っているの……」
「私はずっと反対していた。セキナ様は何も悪くは無い。望んで嫁がれた訳でもないのに、我々の都合で殺してしまうなど惨いにも程があると。ただ、現状このままでは休戦に向かわないのも事実だった」
「…………」
「それならば、私と姦通していたことに仕立てたならば、マダラ様はあなたを放逐されはするでしょうが命までは奪われはしないだろう、と。だから、――」
「止めてください、――聞きたくないッ!」

 悲鳴のような叫びが喉を破る。耳を塞ぎ、身体を丸め蹲った。嫌だ嫌だ嫌だ、聞きたくなどない。どうせ虚言なのだろう。流し続けるその血涙も偽りに決まっている。惑わすな、これ以上揺らがせるな。――嫌嫌嫌嫌嫌。
 馬鹿だ、ヒカクは。如何しようもなく、彼は愚かだ。何故私のような矮小な存在に気を配る。こんな思いをする位なら死んだほうがよかったのに。何も知らずに、死ねばそれで済んだというのに。どうして、どうして。
 ――嗚呼だけど、愚かなのは私も同じなのだろう。何も、分かってはいなかった。大切なことも、必要なことも何一つ。マダラが何を考えていたのかも、何も知らなかった。何が彼を苦しめていたのかも。誰の所為で、夫が悩んでいたのかも。

 ざあざあと雨が降りしきっている。外は滝のような天水に霞み、薄暗く翳っていた。滲んだ汗が酷く不快だ。なまぬるい風が何処からか零れてくる。汗ばんだ膚とぬかるんだ空気が溶け合って、輪郭は酷く曖昧になっていた。
 これは、悪夢だ。終わらない夢の続きが私を包んでいる。どうしてどうして。こんな――。
 湧き上がる濁流に飲み込まれるように只管に慟哭した。幾度も幾度も拳を叩き付ける。身体が音を立てて崩れていった。血が滲じみ、骨が削られ、皮膚が崩れ落ちていく。心が軋んで泣き喚いていた。
 ヒカクに腕を掴まれる。突き飛ばすように振り解いた。それでも、――止めてください、と血を吐く声。

「どうか生きてください、……俺の命なんてどうでもいい。あなただけは、――」

 そう言い掛けた時、玄関先で物音が聞こえた。弾かれた様に顔を上げる。床を踏む音。近づく足音。ヒカクの顔が凍り付く。がらり、襖が開く。
 見上げた先には、夫が立っていた。

「――セキナ?」

 呆けた様な声だった。雨に濡れそぼったマダラは、滴る雫を拭いもせずにただ瞠目している。驚きを隠さないその顔は酷く心許ない。幾度か瞬きを繰り返した後、彼の眼差しがヒカクを捉えた。瞬きの凝視。おもむろにその艶やかな目が細められる。

「何をした……?」
「マダラ、様」
「何をした、ヒカク」

 マダラの眼が紅く染まる。血潮のような濃紅。万華鏡の瞳が鋭く眩む。

「セキナに何をしたッ!」

 鋭い咆哮を上げ、マダラがヒカクに掴みかかる。耳を塞ぎたくなる鈍い音。ぼたり、と血飛沫が畳に散る。ヒカクの腹を目一杯蹴り付けながら、マダラは完全に我を失っていた。瞳孔は弛緩し、底無しの奈落のように色が消えている。思わず悲鳴を上げた。

「マダラ様、お待ちください! どうか話を、――」
「黙れ、お前は下がっていろッ」

 その背に抱き縋る。怒鳴り声と共に振り払われ、強かに身体を打ち付けた。落ちた簪が啼き叫ぶ。口に広がる緋色の味。胸を満たす噎せ返る血の匂い。息苦しい。澱んだ空気すら入ってこない。
 マダラがヒカクの首を締め上げる。青褪めて色を失った面。細くなる息。死相。嗚呼駄目。彼は何も分かっていない。振り仰げば虚ろな瞳と目が合った。ごとり。心臓が跳ねる。これでいいのだ、とその目は言う。違う待って――。

「待ってください、お願い待ってっ!」

 駄目だ、今ヒカクを殺しては。マダラがヒカクを殺せば、今後確実に一族は割れる。頭領の参謀をも勤めるヒカクは一族の要、一族からの信頼も厚いのだ。可惜ら若き死が今後どう遺恨を残すか。そんなことは生々しいほど目に見えている。埋まらぬ溝。元々私は歓迎されていない余所者の身だ。そんな女の所為で一族にとって大切な者が喪われたとなれば、マダラへの風当たりは今後一層強くなるだろう。
 きっと、彼は孤立してしまう。築き上げた高き栄華が、罅割れて壊れてしまう。それは、それだけは――。
 そんな事は、させて成るものか。

「――やめて!!」

 信じられぬ程に甲高い叫声を上げ、必死にマダラに縋り付いた。振り返る。永久に続く無間地獄。絶望に彩られた瞳が見据える。

「――セキナ」
「っ、ヒカクさんの所為ではないのです……」

 流れ続ける涙でその瞳は酷く歪んで見えた。――泣いているようにも見えた。嗚呼ごめんなさいごめんなさい。こんな事ならあなたを愛さねば良かった。愛など、知らなければよかった。そうすれば、あなたに爪痕を付ける事もなかったのに。

 うちは一族など、本当はどうでもよかった。
 だが、マダラだけは。彼だけは。彼の栄華が、誉れが傷付けられるのは耐えられない。私が誰よりも愛したあの人に傷が付くのは、たまらなく嫌だった。
 これ以上、彼の大切なものを失わせたくはない。

「私が、――」

 嗚呼嗚呼、何にも要らないから。
 私には何も要らないから、どうか――。
 どうか、あなただけは、

「私が、誘ったのです」

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