第十二話 あひ見ての


 死んだ弟なら、何と言うのだろう。最近そう考える事が増えた。
 意識して思い起こすのではない。ふと気を抜いた時、例えば一人で書簡を眺めている時や一族の会合が終わり静けさが戻った時。そんな時に、囁きかけられたかのように思い付く。
 イズナだったら、どうしていただろう、と。
 弟は兄の自分より、ずっと器用で要領が良かった。場に一番似合う適切な状況を作り出し、齟齬をきっちりと埋めるに相応しい言葉をその唇はいつも選んでいた。思慮深く、それでいて意志の強い言葉だった。決して不快なものではない。事実、一族で諍いがあれば、常にイズナが上手く執り成してくれていた。胸に馴染む体温を持った言葉を選べるのは、生まれながらの才だったのかもしれない。単純に聡明だったともいえるが、イズナの生来の性格がその言葉を作っていたのだろう、と今になっては思う。
 誰よりも、優しい子だった。時には、それが酷く羨ましかった。


「今日は随分と遅くなりましたね」
「嗚呼……。話が進まんから、余計にそう感じるな」

 そう応えて首を回す。肩が重い。思った以上に疲れているのは、予定より会合が長引いてしまった所為だろう。隣を歩いている補佐であるヒカクの顔にも、疲労の色が濃く滲んでいる。

「それよりも、頭領。大丈夫なんですか?」
「何がだ?」
「奥方様ですよ。私と悠長に帰ってる暇があれば、さっさと帰ってあげた方がよろしいのでは?」

 辺りはもう静まり返り、刻限は真夜九ツをとうに越えている。夏の夜は蜜のように濃密な闇が澱む。そんな中、屋敷にはセキナ一人きりである。彼女は忍でもなく非力な女、無用心といえば無用心だろう。ヒカクが言うのも尤もな話だ。
 だが、恐らくこの男が言っている真意はそうではない。甲斐性無しだ、そういった類の話である。

「流石に寝てるだろ、こんな時間だ」
「そうですか? あの方なら、ちゃんと待ってくださってそうですけどね」
「知らん、それなら早く寝ろと叱るだけだ」
「……何です、珍しく喧嘩でもされたんですか。いやに冷めている」
「そんなもんするかよ。一々下らん勘繰りすんじゃねえ」

 そう言いながら顔を背けた。思わず眉に力が篭ったが、すぐさま真顔へと戻す。ヒカクは相変わらず無駄話ばかりを続けている。

「まあ、お二人なら心配要らないでしょうけどね。頭領がセキナ様を愛寵されるのも分かりますよ、何時お会いしても本当にお美しい。気立ても素晴らしいですし」
「……ヒカク、お前さっきから何言ってる?」
「嗚呼、変な気は起こしてませんよ。お慕いはしていますけど」
「洒落にもならん」

 イズナ亡き今、うちは一族で一番セキナと親しくしているのは他でもないヒカク自身なのである。それ故、聞いていて余り気持ちのいいものでもなかった。心中が出ていたのか、ヒカクが僅かに背筋を伸ばす。その顔からは、先程までの気軽さは抜けていた。

「これは口出しする事でもないのでしょうが……。ですが、流石にどうかと思いますよ」
「何だ?」
「この間久しぶりにセキナ様をお見かけしましたが、随分と窶れていらっしゃるようでしたから」
「…………」

 吐き捨てそうになった言葉を噛み潰すように呑み込んだ。喉の辺りが重く強張る。
 ――誰の所為だ、そう続けたかったのだろうか。いや、違う。誰の所為でも無いのだ。ヒカクにそう浴びせるのは只の腹いせに過ぎない。あれは、いずれ言わなければならない事なのだ。そうだ。どうにか、どうにかしなければならないのに。
 ――嗚呼、目が痛む。
 頭を振る。それ以上何も考える事が億劫な位には心身ともに疲れてた。

「あの事を仰ったんですか?」
「……いや」
「そう、ですか。要らぬ世話かもしれませんが、そろそろ」
「分かってる、それ以上は何も言うな」

 ヒカクが何事か言いたげに眉根を寄せる。だが、それも丁度屋敷の前に着いた頃だったので。何の形も結ばずに、ただ夜に吸い込まれる。最早、互いにそれ以上は言わなかった。門の前で別れ、うちはを背負った背中が闇に消えていく様をしばし見送る。ようやく堪えていた溜め息を吐き出した。
 ずくり、と眼球が疼いている。知らぬ内に、また疲労が溜まっていたのだろうか。堪らずに片手で目蓋を覆う。
 何もかもに疲れていた。徒な話し合い、乖離した一族の意思と捨てられない覚悟、埋まらぬ齟齬。何もかもが形を結ばないままに消える。何かが、明確に欠けているのだ。あの頃には確かに在った、最も美しい均整はもう其処には無い。欠けたもの。それは、己の言葉が足りない所為だろう。

 死んだ弟なら、あの時何と言ったのだろうか。


「お帰りなさいまし、マダラ様」

 玄関を開ければ、燭台にはまだ火が灯っていた。出迎えた妻の姿を認め、僅かに目に見開いた。

「セキナ、起きていたのか」
「ええ、偶には夜更かしもいいかと思って。折角ですから、起きていましたの」
「……こんな時間まで待ってたのか? 帰りが遅くなるから、先に休んでいろと言っただろうが」
「いいえっ、その……。本当に、ただ目が冴えてしまっただけですから」

 思わず眉を顰めて咎めると、慌ててセキナは首を振る。話し振りは落ち着いたそれであるが、仕草や声の調子は年若い。彼女とは五つ違いだから、今年で二十一歳になるのだろうか。
 まだ娘らしさが抜けない年頃でもあっていい筈だが、セキナは随分と大人びて見える。しとやかな物腰や顔立ちもあるのだろうが、要はその生い立ち故だろう。苦労してきた、とはまた違う。生まれた頃から嫁ぐ事が決められていた彼女は、生まれ落ちたその日から母と成るべく躾られてきた。名門旧家の顔に相応しい、瑕の無い花嫁として。自らを律し、甘える事を教えられずに育ったのだ。
 その所為か、彼女は時に痛々しいほど物分りが良い。老成している、と言ってもいい程だ。

 先程の語調が強かった為か、依然セキナは肩を強張らせていた。思わず目を伏せる。大方、己の所為で俺が苛立っているのだと思いこんでいるのだろう。健気なその様子に、叱る気などまるで失せてしまった。

「……悪い、少し疲れてるみたいだ」
「お気持ちは分かりますわ、今は大変な時期ですもの。マダラ様は一族の事に専念なさってくださいね」

 そう言ってセキナは、夢見るように淡く微笑む。吹けば消えてしまいそうな、半透明な笑み。ほんのりと照らす薄明かりに彩られた彼女の目元には、寂しげな移ろいが影を落としていた。
 ヒカクの言った言葉が脳裏に浮かんだ。――また少し、窶れたのだろうか。

 政略結婚とはいえ恋女房、少し歳が離れていることもあり愛おしくて仕方無いという欲目もあるが、平素のセキナは我が妻ながら息を呑むほど美しく見える。ヒカクが言っていたのも、強ち世辞でもないのだろう。うちはも顔の整った者が多いと評せられるが、セキナのような雲の上人の美しさは忍のそれと一線を画している。まさしく天人のようだ。嫁いだ頃は一族の者も歓迎してなかったようだが、最近ではセキナに横恋慕しているような輩も少なからずいるのだと聞く。頭領の妻に何を懸想しているのやら、怒りを通り越して呆れすら感じるが。
 だが、いくらセキナでも、時折十人並みに見えることがある。そんな時、彼女は大体疲れている。一人きりで寂しがっていたり、悲しんでいる時だ。ただ、その時は余計に気丈に振舞うものだから心の内は吐き出さない。落ち着いて見える顔立ちの所為もあるのだろうが、そんな時のセキナは酷く窶れて見える。
 彼女の窶れた面を見る度、胸を焦がすような責任を感じるのだ。彼女は他人に甘える事に慣れていない。それが分かっているのに甘やかしてやれないのは、己の不甲斐なさ故だからである。
 そして今、セキナは疲れているようだ。

「汗も掻かれておいででしょう、湯浴みになさいますか?」
「それでもいいが、用意は出来てるのか?」
「お戻りがいつになられるか分からなかったので、お湯がそのままですの。今張り直しいたしますから、お夜食を召し上がって待っていてくださいね」
「いやいい、そのくらい自分でやる。お前は先に休んでろ」

 口早にそう告げると、セキナの顔も見ずに湯殿へ向かった。自然、足は速くなる。湯殿がある離れへと辿り着き、ようやく息を吐いた。
 一刻も早く彼女の傍から離れたかった。振り返らなくても、その瞳が何か問いたげに揺れているだろう事など分かり切っていたからだ。長く艶やかな睫毛が影を落とし、伏せた目元につつましく彩を添えている。打ちひしがれたような、狂おしいほど哀しげな表情である。途方も無い痛みに耐えている、ひそやかで透明な表情。
 この頃は、セキナのそんな顔ばかりを見る。先程の笑みも随分と無理をしたものだとはすぐに分かった。――本当は、分かっていたのだ。

 思えば、いつの頃からなのだろうか。最近では擦れ違い、気が付けばお互いの態度が強張っていた。喧嘩などとはまた違う、ほんの些細な日常の傷である。セキナが悪い訳では無い、単に己の所為なのだ。昔からそうだ、いつだって意地を張り虚勢を保つ。煮え切らない態度をとっている事も自覚していたし、彼女を悲しませているのだとも分かっていた。酷く不安にさせているのだろう。
 それでも、昔のように思うまま抱き締める事さえ最早出来ない。体ばかりを重ねたところで、ただ虚しさが募るだけだ。
 愛していない訳ではない、寧ろ逆なのだ。本当は堪らなく愛おしい。今となっては、たった一人の家族なのだから。
 ただ、彼女にどう話せばいいのか、その一点がずっと枷になっている。ただ先送りにしていても仕様が無い。いい加減、打ち明けなければならないのだが、

「イズナなら、何と言うんだろうな」

 思わずそう呟いて、馬鹿馬鹿しさに頭を振った。それでも、この綻びを丁寧に繕うことの出来る言葉が。死んだ弟の言葉が、酷く羨ましかった。


 湯殿で湯を浴び、ようやく寝間着に着替えて自室へ戻る。時は丑の刻も過ぎた深更。辺りはもう静まり返っている。襖を開ければ、何処からか流れてくる梔子の匂いが鼻腔を擽った。並んで床を延べてある片方に、背を向けるようにセキナはもう横になっていた。すうすう、と幼い寝息が聞こえている。起こさぬように顔を覗き込めば、あどけない寝顔だ。
 嗚呼よかった、よく眠っているな。
 額の辺りに傷がある。打ち所が悪くて、気を失ってしまったんだろう。その頭を幾度か撫でると、むずかるように目蓋が震える。慌てて手を引いた。
 嗚呼ごめんよ、起こしてしまう前にもう先に行くから。
 本当はそんな気なんて無かったんだ。
 ごめんよごめんよ。

 向こうの襖が細く開いていた。寝室には灯り窓すらないのだからやけに暗い。その襖を開けた先もまた座敷である。矢張りここも薄暗い。先程よりも梔子の匂いが濃くなった以外は、中央に褥が敷いてある事にも変わりは無い。また誰かが横になっている。穏やかに眠りについていると、その顔はまるで人形のようだ。ゆっくりと胸が上下しているのを認め、そっと息を吐く。
 五年振りか、随分と綺麗になったのだな。
 もう額に傷さえない。
 でも、寝顔はちっとも変わらないな。可愛らしい寝顔だ。起こしてはいけないな、きっとまた哀しい顔をしてしまうから。
 そろそろ、先に行かなくては。

 次の間も座敷である。同じように誰かが寝ていた。変わるのは段々と深くなる梔子の匂ばかりである。褥の横に腰を下ろせば、傷だらけの顔に胸が騒いだ。
 可哀想に痛かっただろう。
 もう大丈夫だ。ゆっくり眠るといい。今は何もかも忘れて、ただ休んで居ればいいんだ。
 起こさぬように、そっとその髪を梳いてやる。さらさらと零れ落ちる絹糸のような髪。恍惚と目を細める。
 眦からは、一筋の涙が静かに零れていた。
 いつまでも傍にいたいと思うが、肝心の寝床が無い。まだ自分が眠るのは先のようだ。早く、行かなくては。きっと待っている。

 次々と襖を開けていく。段々と梔子が噎せ返るように強くなっていく。何度目か分からないほど襖を開けた先の座敷には、褥の代わりに螺鈿の箏や花嫁衣裳が置かれていた。散乱する梔子の花。夜気に染み込んだ芳香。匂いはここから漏れていたのか。床に落としていた視線を上げる。次の襖は開いている。目を細めると、二対の布団が敷いてあるのが見えた。褥は空だ。誰かが背を向けて枕元に座っている。敷居を跨ぎ、足を踏み入れた。
 嗚呼、ずっと待っていたのか。
 遅くなったな。
 もう俺も休むから。
 ずうっと、寂しかったんだな。

 しっとりと梔子が強く燻る。長い髪が緩やかに揺れる。転がった銀簪。ひび割れて、先が黒く汚れている。錆び付いた血の跡。ずくり、と心臓が揺り動く。女がこちらを振り向いた。

 振り向いた、その顔が、――


「――マダラ様、マダラ様っ」

 呼ぶ声に目を覚ます。聞き慣れた声だ。
 肩の力は抜けたが、息が荒い。背筋が不快なのは、酷く汗を掻いたからか。

「顔が、」

 何事かを言いかけて、止めた。――顔、それが何だというのだろう。喉の奥に声が凝っている。既に起きていたらしいセキナは、寄り添うようにこちらを見つめていた。瞳が揺れている。不安げな表情だ。
 怖い夢でも、見たのだろうか。

「どうした」
「随分と魘されてらっしゃいましたわ、大丈夫ですか?」
「嗚呼、いや……」

 彼女の心配そうな言葉に、己の方が何かしらの夢を見ていたのだと自覚した。魘されていたのか。昔の夢を見ていた気がするし、違う気もした。
 浅く息を整える。目覚めてから、急激に夢の情景は滲んでしまっていた。もう殆ど覚えていない。気味の悪い後味の悪さが胸に凝っていたが、思い出せないのだから落とし所が無かった。釈然としないが、夢とはそういったものである。

「大丈夫だ」
「でも、まだお顔の色が悪うございますわ。お水を持って参りますわね」
「……悪いな」

 手の甲で額の汗を拭いながら、深く息を零す。セキナが足早に内所へと駆けていく。足音が遠ざかる。締め切った障子からは、か細い朝日が零れていた。今は何時なのだろう。いつ眠ったのかも定かでないが、床には就いていたのか。未だ重い頭を振った。眠っていた筈だが、疲れはまだ凝っている。

 程なくして戻ってきたセキナから水を受け取り、一口でそれを飲み干した。渇いた喉にひややかな温度が心地よい。濡れ手拭も持ってきていたらしく、彼女は甲斐甲斐しく額やら首筋やらを拭ってくれている。単に夢見が悪かっただけだというのに。流石に決まりが悪かったので手で制すれば、セキナが手を止める。見上げている額には、熟れる様に汗が滲んでいた。汗ばんだ白い首筋が視界に映り、俺は何故か目を逸らした。
 ――見ては、いけない気がした。瞳孔が強張っている。咄嗟に意味の無い事が口を衝く。

「今、何時だ?」
「え、ええ……。辰の刻に入った頃でしょうか」
「そうか」

 外が薄暗いものだから、まだ卯の刻を過ぎたばかりかと思っていた。よくよく考えてみれば、確かに鳥のさえずりが姦しいほどに聞こえている。ただ曇り空なだけなのだろう。立ち上がって障子を開け放てば、陰鬱な雲に天蓋は覆われている。頬を撫でる生温い風が、雨が近い事を知らせていた。

「今日も、また雨が降りそうな御天気ですね」
「梅雨が明けるにはまだ早いからな」
「もう半夏至も過ぎましたけれど、流石に気が滅入ってしまいますわ」

 そうだな、と上の空で言葉を返した。――普通だ。余りにも、普通だ。何事も無いかのように妻は笑っている。狂おしい程に愛おしい笑みだ。ありふれた、余りにありふれた光景である。
 実際、何も起こってはいないのだ。恙無く日常は流れ、平穏は均衡を保ちながらも崩れる事はない。それで、いいのかもしれない。微温湯のような日常に浸かり、日々に埋没していく。
 それも、ある意味では幸せなのだろう。――だが、

「マダラ様、今日も会合がございますの?」
「いや、特には無いが」
「いつぶりでしょうか、この所ずっとお忙しくされていましたから」

 自分も彼女も、恐らく気が付いている。日常が揺らぎつつある事に。均衡は酷く危うく、一度指先で触れてしまえば呆気無く崩れ去るだろう。それが、酷く怖ろしい。これ以上失いたくは無い。掛け替えの無い何かが指の隙間から零れ落ちていくのは、もう沢山だった。
 ならばいっそ。この手で壊した方が楽になれるのでは。そう思う気持ちも無くはない。

「マダラ様?」
「……何だ」

 問い掛けたセキナの声に我に返る。先程までの考えは慌てて掻き消した。遠慮がちにセキナが続ける。

「いえ、何だか怖いお顔をされていらしたので。きっと、お疲れですのね」
「嗚呼……。こうも話し合いが長引くと、流石にな」
「お話は、もう纏まりましたの?」
「いや、一向に進まん。誰も彼もが、口を開けば休戦とそればかり……」
「そう、ですか」
「今更千手と手を組むなど、上手くいく筈もないだろ。それに、あんな事を――」

 言い掛けて思わず口を噤む。セキナが心持ち眉を下げてこちらを見詰めている。

「どうかなさいました?」
「いや、」
「私には、言えないことですのね」

 零れる様にセキナが呟く。哀しげな声。向き直り、彼女の顔を見据えた。泣いているような、潤いのある儚げな笑顔を浮かべている。潤んで赤みがかった、薄く開かれた唇。伏せられた長い睫毛。
 ゆらゆら、と。危うい調和が揺り動く。さざめく様に予感が走る。胸の奥底に爪を立て、細やかな傷が疼き出す。眼窩が騒いでいた。ゆっくりと、セキナが顔を上げた。

「休戦を、受けられてはいかがですか」

 祈るような、声だった。本心からの言葉なのだとは、すぐに分かった。早鐘のように心臓が脈を打つ。知らぬ間に顔が険しくなっていたからだろう、我に返ったようにセキナは首を振った。

「ごめんなさい、出過ぎた真似を。どうか忘れてください」
「何故そう思う?」

 言ってみろ、と低い声で促すと、セキナは戸惑うように目線を下げた。

「この所、マダラ様がご無理をなさっているようで……。それに、一族の皆さんが休戦を望まれているのなら、その意見を汲まれた方がよろしいのでは、と」
「それだけの理由か……? それだけで、お前はイズナの死を無駄にしようというのか」

 責める様な声だ。セキナが肩を強張らせる。

「そんな、積もりは……」
「無いとでも言う気か? 笑わせるな、結局は綺麗事だ。あいつ等千手はイズナの仇なんだぞ」
「そうですが、千手一族と手を組むことで平和が訪れるのなら……。私の勝手な想像ではございますが、マダラ様も心の底ではそれを望まれているのではありませんか」

 瞳孔が疼いている。この所ずっとだ。
 ――何故騒ぐ、何をそんなに慄くのだ。望んで差し出してくれたのでは無かったのか。
 やはり、俺を怨んでいたのだろうか。お前から何もかもを奪った兄を。きっと憎んでいたのだろう。
 嗚呼、嗚呼疼く瞳は弟が泣くからか。

 潤んだ眼が自分を見上げる。言い様も無く怒りが込み上げ、その顔を強く睨み付けた。小賢しい眼だ。意志の強い言葉が、今は酷く疎ましい。折れぬ態度が癇に障る。悟ったような顔をして、一体何が分かるというのだ。
 遠き日に友と誓った見果てぬ夢。柱間と語り合ったあの夢を、セキナが知る筈も無い。確かに心の奥底では今でも望んでいるだろう。憂い無く滑らかに続いていく日々をただ只管に欲していたのは、自分でも分かっていた。本当は、手を伸ばしてしまいたかった。
 ――だが、それではイズナの意思は。あの子が命を賭して譲ってくれたこの瞳はどうなる。あの子の思いは、願いは。
 夢など、とうに捨ててきた。いつまでも子供のままでいられる筈もない。

「これまでの憎しみはどうなる? 弟は何の為に犠牲になった、何の為に命を懸けたというんだ」
「ですが、イズナさんはいつもマダラ様の事を一番に思っておられました。きっと、その為に――」
「黙れ! 何も知らないお前如きに、何が分かるッ」

 怒鳴り声で一喝すると、怯むようにセキナは身を竦ませる。細い肩が痛々しい程に震えていた。一歩足を踏み出せば、その身は逃げるように後ずさる。怯えきった妻の姿に、一層頭に血が上る。窶れた面。鮮やかな畏怖に彩られた瞳。一族の者が向ける目と、その双眸が重なり合う。眩暈が襲った。ごぞり、と心臓が強く跳ねた。
 嗚呼、耳鳴りがうるさい。

 ――誠、マダラ様は鬼のようなお方よ
 ――実の弟の目を奪うなど正気の沙汰ではない
 ――戦に憑かれたうちはの死神か

 うるさい、うるさい五月蝿い五月蝿い。
 怖いか、恐ろしいか。この俺が厭わしいか。
 俺はただ、うちはを守りたいだけなのに。
 何故、何故分からない。お前までも、俺を裏切るのか。

「セキナ、お前も俺に逆らうのか」
「違いますっ、そうではありません。ただ……このまま戦を続けていても、きっとイズナさんは、」
「五月蝿い――」

 鋭い音が鼓膜を貫く。打ち付けた掌が、痺れる様に痙攣した。伏せられたセキナの顔。白々とした首筋に零れかかるおどろ髪。頬が紅く染まっていた。穿たれたこの眼球は、焼け付く様に酷く疼く。誰かが見ている。悲しげな、視線。
 ――視線? 顔を上げる。ひそやかな眼差しを頬で感じていた。向こうの襖が開いている。幽かに馨る梔子の残り香。薄く開いた彼岸に目を細めた。
 やはり見ていたのか。

 その、薄暗い襖の向こうで、死んだ弟が何も言わずに笑っていた。

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