第十五話 瀬をはやみ


 母の、声がする。降り積もる記憶の水底に沈んだ声が私を呼んでいる。儚げな、懐かしい響き。優しい記憶がそっと鼓膜を撫でていて、私は何故か泣きたくなった。
 ――母上、母上。
 羊水に揺蕩っているかの様にあわあわと微睡んでいる。心地良い。ほどけるような白い木漏れ日。木々を優しく撫でていく、まどかな風のせせらぎ。淡い眠りが目蓋を擽っている。また、母の膝でうたた寝をしてしまったのだろうか。
 目蓋を開けると、覗き込んでいる二つの瞳と目があった。

「かあ様、」

 思わず零れた掠れた声。澄み切った瞳孔が大きく見開かれる。驚いた様な、表情。
 嗚呼――、綺麗な、目。

「気が付かれたのね」
「え、……?」

 ――ここは、何処だろう。
 ぐるりと眼球を巡らせる。室内は見慣れない。
 ――今は、何時だろう。
 僅かに目を細めた。部屋の中は眩しい陽射しで満ちている。
 ――この人は、誰だろう。

 目に映る全てに見覚えのない筈だが、不思議と心細さは感じなかった。受け入れているのだ。蝋人形のようなその女を、私は古くからの知り合いの様に見つめている。
 綺麗な人だ、とぬかるんだ頭でそう思う。隙の無い、無駄を払い落とした美しさだった。緻密に創り上げられた目鼻立ち。切れ長の艶やかな双眸は、ひたと私を見つめていた。濁りのない透明な眼差し。薄らいだ視界でも眸の形がくっきりと見て取れる。
 身を起こしたと同時に、ゆっくりと言葉が零れ出た。

「あなたは、」
「私は千手咲耶。千手一族の長、柱間の妹です」
「千手の……、っあの」
「無理しないで、事情は聞いています」

 重い頭を奮い立て、見慣れない室内を再び見回した。乾いた柱、日に焼けた畳。質素な造りの座敷には、夏の影が落ちていた。良い部屋だ。心地よい静かさに満ちていて、丁寧に作られた空間は居心地が良い。張り詰めていた糸が解れ、強張っていた瞳孔がやわらぐのを感じた。
 ふと、うちはの屋敷を思い出す。私が住んでいたあの部屋も、ひっそりと緩やかに時を重ねたであろう静かな息遣いの部屋だった。何故だろう、よく似ている。酷く儚げな懐かしさを感じたのは、その所為だったのだろう。
 もう届かない、すぐ近くにあるのに触れられない、そんな狂おしさ。揺らぐ陽炎のような、愛おしさ。今になって郷愁が競り上がり、思わず私はちいさく咳をする。ほんのりと色付くように、目蓋の奥が熱くなった。

 ――あの日、私はうちはの屋敷を出たのだ。あの雨の日、長かった梅雨の最果てに。
 行き先など、何処にも無かった。
 何処に行けばいいのか。何処に行きたいのか。どうやって生きればいいか。
 何処へでも何処までも歩いていけるけれど、歩み方を忘れてしまっていた。何の為に生きればいいのか、それが分からなかった。

 思えば。行き先の無かった私が、千手柱間に会いたいと願ったのはどうしてだっただろう。途方に暮れていた私の足は、何故か千手一族が住まうという里へと向かっていた。
 うちはと千手はそれ程離れた場所に住んでいる訳でもないため、忍ではない者の足でも二日もあれば辿り着く。それでも、間には川もあり山を越えなければならない悪路である。幼子にも劣るような体力の女には、無謀な賭けに等しかった。それに加え、仮にも私は敵将の妻であった身だ。捕らえられ、殺されていたかもしれないのに。覚束ない足で向かおうと思った真意は、一体何だったのだろう。
 ――屋敷を出てから泊まった宿で、幾度もその名を聞いたからか。
 ――あのマダラに愛憎とも感じさせる執念を抱かせたその人を、一目見てみたかったのか。
 ――平和を創り上げると嘯く顔に、凝る呪詛でも吐きに来たか。恨みの一つを申しに来たか。
 どれもそうだと言えばそうであったし、違うと言えば違っていた。自棄だったのだと、そう考えればそれまでだ。明確な理由など、それもまた何処かで捨ててきてしまったのかもしれない。

 頭を振る。重く沈んだ思考を掬い上げ、女の方へと向き直った。彼女は続ける。

「兄に話があるとの事でしたね、あなたが目覚めたらすぐに伝えろと言われているの。少し、待っていて」
「……あの、」
「何かしら」
「お心遣い本当に痛み入ります。着物も布団も、ご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません」

 溜息を細く吐き出す。咽喉の奥が引き攣るように疼いていた。目蓋の裏が少し眩々した。ふと顔を上げれば、咲耶と名乗ったその人は変わらずにただ静かに私を見詰めている。
 ――この人が、この人こそが
 千手の嫡女。マダラの伴侶となるに相応しい人。
 私が愛していた全てが、この人のものになるのだろう。当て所も無く思い描いていた全てが、他でもないこの人の手中に納まるのだ。
 優しい声、強いかいな、あたたかな指先。透き通った時間と、ひそやかな体温。決して抱くことの出来なかった子も、積み重ねていく日々も。
 マダラの妻という、その全てが。私が立っていた居場所が。

 マダラは、彼女を愛するだろうか。私ではなく、この女を愛するのだろうか。

「……よかった」
「なに?」
「咲耶様が、思っていた通りの御方でしたから」

 唐突に呟いた言葉に、面食らった彼女は瞬きを繰り返す。私は軽く目を伏せ、組んだ指をただ見つめていた。

「マダラ様と、きっと誰よりもお似合いになられるわ」

 不思議なほどに、憎いとも何とも思わなかった。寧ろ、心の何処かで安堵さえしていた。こんなに美しく、そして強い女性なら、マダラはきっと彼女を愛するだろう。私と築く事のできなかった未来を、二人で培っていってくれるだろう。きっと、幸せになってくれるだろう。
 それでいい。私が望むのは、それだけだ。

 瞠目した咲耶が顔を背ける。何か言いたげに唇を薄く開きながらも、彼女は何も答えなかった。きり、と衣を握り締める指先の震え。何かに耐えるようなその素振りに、己が吐いた言葉を履き違えられたかと今更のように後悔した。慌てて視線を彷徨わせる。

「……、」
「申し訳ありません。その、出過ぎた事を」
「それは私の台詞よ」
「え?」

 思わず顔を上げて見返せば、肌理の細やかな薄い目蓋は僅かに痙攣していた。

「セキナ殿以上に愛される事なんて、きっと来ないわ」
「それは、」
「うちはマダラは、あなたを心底愛しているもの」

 形の良い唇の端は密やかに綻んでいる。とても、哀しげに。何故か私にはそう思えた。
 静けさの均衡を崩してしまう事を恐れる様に、ひそやかに笑う人だった。
 余りに静かな笑みに居た堪れなくなり、私は思わず目を逸らす。口を噤み、僅かに俯いた。

 兄に伝えてくる、そう言って咲耶が腰を上げ、奥の襖を開け何処かへ去っていく。取り残された私は、ゆっくりと記憶を辿るように、自分の指先をそっとなぞった。この手は、まだ彼の熱を覚えているだろうか。彼の心臓を、確かに覚えているのだろうか。
 嗚呼あの人は、最後にどんな顔をしていたっけ。

「愛されて、いたのかしら」

 噛みしめる様に呟き、俯き気味に目を伏せる。そんな当たり前の事が、酷く特別で馴染みの無い響きに聞こえた。異国の子守唄の様だった。
 泣きたくなる程に愛おしい。何時迄も舌の上でひっそりと温めていたくなるような言葉だ。すうっと優しく胸に馴染み、繊細な砂糖菓子のように甘く溶けていく。頼りなく儚いその半透明な感覚に、私は思わず声を詰まらせた。
 ――私は、愛されていた。誰よりも愛されていたのだ。どうして、今まで分からなかったのだろう。マダラの事を愛してた。そして同時に、誰よりも愛されていたのに。
 こうなってしまった事を後悔はしていない。自分で選んだ顛末だ。間違っていたとは思っていない、それでは己が立ち行かぬ。覚悟もしていた。彼の為にはこれで良かったのだと思っている。

 でも、それでも、
 どうして、幸せに成れなかったんだろう。
 ずっと一緒にいたかった。二人で生きていきたかった。
 本当は、もっと一緒にいたかった。
 愛していたい、だけだったのになあ。

「マダラ様……」

 嗚咽ばかりが喉を塞ぎ、せつなく息苦しかった。体温の様にあたたかく、しっとりと潤った嗚咽だった。糸が切れたように泣き崩れ、震える手に顔を埋める。
 何もかもを失った私には、ただ慟哭する事しか許されてはいなかった。両の腕でできる小さな暗闇だけが私の居場所。この頼りない闇の中で泣き続けることしか許されていないのだと信じていた。
 私は、一人きり。本当に何もかもを失ってしまった。慰めてくれる彼はもういない。泣き崩れたところで、抱き留め頬を温めてくれる人はもういないのだ。

 零れ落ちる涙と共に、次から次へと思い出ばかりが蘇った。思い起こすなと念じる度、艶やかな彼の瞳や瑞々しい熱ばかりが思い浮かんだ。本当は忘れてしまいたい愛おしい記憶達を幾度も呼び起こし、その度に私は泣いた。それらを洗い流す為に、ただ只管に慟哭していた。
 体温のようにあたたかな涙の匂いと、乾き切った藺草の懐かしい香り。残酷な程やさしい香り達が、いつまでも胸を満たしていた。



 平和というのは妥協の擦り合わせで、瑕疵の無い完全な形などは無いのだろう。幼い頃に描いていた見果てぬ夢は、未だ捨て切れずに抱えてはいる。それでも、この歳になれば大抵の事は悟るのだ。
 誰かの犠牲の上に平和は成り立つ。ある者の願いが叶う頃には、他の誰かが涙を流している。現実は冷ややかに残酷だ。何処かに皹が、歪みが生じてしまう。

 諾々と思考に沈んでいると、苛立たしげに吐き捨てられた言葉で我に返った。

「それにしても、どういう積りだ。あの磐永セキナに会おうなどと」
「そう目くじらを立ててくれるな、扉間よ」

 弟の眉間には深い皺が刻まれてしまっている。扉間は幼い頃から聡明で頭も切れる優秀な男だが、少々融通が効かないのが玉に瑕だ。思わず苦笑した。その頭の固さに小言を言われるのは、大体が己であるから余計にそう思うのだが。

「兄者は鷹揚に構え過ぎだ。万一マダラの差し金だったらどうする?」
「あの娘のチャクラはお前も見ただろう。あれはどう見ても普通の女子ぞ」
「そんな事は分かっている。だが、間者か美人局という場合もあるだろう」
「それは考え過ぎではないかの」

 そんな事は無いだろう。そう答えると扉間は未だ納得いかぬといった風情で顔を顰めていた。ただ、これは本心からそう思うのだ。扉間が分からないのも無理はない。会ったこともない俺がそう思えるのは、遠い昔にマダラから直接あの娘の事を聞いていたからだ。
 マダラは、心の底から磐永セキナを愛している。
 聞いていた通りに綺麗な娘だった。頬のまろみは失われ、窶れ果て青褪めていても尚、その澄み切った美しさは損なわれていない。マダラが惚れたのももっともらしいと思わずにはいられなかった。
 もう遠い日に仕舞い込まれた記憶しかないが、彼女の事を語るマダラは崇拝の念さえ滲ませていた。己の知るマダラは、うちは一族でも殊更愛情深い男である。そんな男が娶った愛妻を美人局になどさせるだろうか。とても考えられぬ事である。
 ――いや、だからこそ。
 そこまで考え、抑えていた罪悪感がまた燻るのを感じた。

「それに、あの一件で磐永の娘は我等を恨んでいるだろう」
「休戦協定の事か……」

 焦げ付いた罪悪感の正体を口にする。休戦協定、条件として出した千手とうちはの婚姻。俺が率いる千手とマダラ率いるうちはの抗争は何年にも渡り続いてはいたが、こちらの陣営が有利なのは火を見るよりも明らかであった。マダラの弟、うちはイズナが戦死して以後それは顕著である。
 双方が疲弊する争いは本意でなかったので休戦自体は以前から持ち掛けてはいたが、我々が優勢という背景から一つ条件を出していたのだ。実妹の輿入れ。元は扉間の進言である。うちはの動向を近い目で監視し、鎖を付ける。合理的だ、確かに理にかなっている。

 溜息を殺し、机に頬杖をつく。僅かに顔を傾ければ、机上に置かれた梔子が目に映った。今朝に妻が活けた物だが、時期も終わりに近い為か切って時間も経っていないのにもう面を項垂れてしまっている。物憂げに白い花弁を俯かせるそれを見ながら、ゆっくりと瞬きを繰り返した。

「とにかく、話を聞かん事には何も分からんぞ。先に咲耶が伝えに来たから、そろそろ来る頃合だ」

 そう呟いたと同時に、失礼、と聞き慣れた妹の声が廊下より響いた。扉間に目配せをすれば、渋々といった様子で立ち上がる。入れ替わりで入って来たのは件の女、セキナである。

「改めてまして、この度は伺候させて頂き光栄でございます。柱間様、先は見苦しい姿をお見せ致しました御無礼、謹んでお詫び申し上げます」

 芯の通った声で彼女が告げる。凛然とした透き通った光を瞳に湛えながらも、か細い体を目一杯縮めるようにして彼女は畏まっていた。不安げな表情を隠さない面は酷く儚い。隙なく作り込まれた顔立ち故にそれほど歳も離れていないようにも見えたが、改めて注視すれば未だあどけなさを残した娘である事に気が付く。それを認め、俺は何故か安心した気がした。強張っていた目蓋の凝りが緩んでいく。

「随分と顔色も良くなったようだ、目覚めてからは何か食べたか?」
「いえ……」
「おお、それはいかん。実は俺も昼がまだでな。どうだ、共に食わんか」
「御好意は有難く存じますが、それは――」
「心配せずとも毒などは入ってないぞ。きのこ雑炊だ、俺はこれが好きでなあ」

 呆気に取られているセキナを尻目に、手付かずだった昼飯を勧める。夏場に雑炊とは妙な取り合わせではあるが、暑いからこそ上手いのだ、というのは俺の主張だ。先ほど出されたばかりであるから味も落ちてはいないだろう。
 得心いかぬといった様に受け取りながらも、碗によそった雑炊を恐る恐る食べている。二、三度黙って食べた末、不意にぽつりと呟いた。

「美味しい…」
「だろう、ミトの作る雑炊は格別ぞ」
「はい、本当に。あの、よろしかったのですか。私が頂いてしまっても」
「いいぞいいぞ、気にするな」

 声を立てて笑い、彼女の言葉を吹き飛ばす。遠慮しながらも、腹の虫には勝てなかったのかセキナは素直に口へと運んでいる。少し心が解れたのか、張り詰めていた顔はいつの間にか和んでいた。そうしていると、本当にまだ歳若い。幼いと言っても良いほどだ。
 しばしの間、妙な共食を過ごす。食べ終えると俺は腕膳を脇に置き、姿勢を正した。

「して……。話とは、いかなる事ぞ?」
「それが、」

 膝の上で組み合わせた指に視線を落とし、セキナが困った様に眉を寄せる。――分からないんです、と小さな声が桜色の唇から零れ出た。その形の良い控え目な唇によく似合う、恥らう様にささやかな声だった。

「おかしな話でございますね。柱間様にお話があると言って、こうしてお時間を頂戴しておりますのに」

 そう告白する様は、本当に途方に暮れているようだった。心持ち顔を傾け視線を下げたまま、彼女は続ける。

「一目でもいいから、自分の目で確かめておきたかった。ただ、それだけなのだと思いますわ」

 面を上げる。いたわしい程に澄み切った眸が、自分を見据えていた。セキナは透き通る程に深く潤いのある目をしている。この世の一切の穢れとは無縁なのだと思わせる、とても美しい目だ。
 ――嗚呼、この眼差しにマダラは惚れたのか。
 今更のように葛藤が押し寄せる。両一族の繋がりを強固にするという意味では、婚姻は間違ってはいない。合理的で、理にかなってはいるだろう。
 ただ、それでも。千手とうちはの平和の為にこの娘を切り捨てたのもまた事実。綺麗事だけではすまされぬ、この娘は我々の所為で全てを失ったのだ。

「恨んで、いるだろう」

 気が付けば、我知らず呟いていた。不毛な問い掛けだ。答えなど、聞かずとも元より明らかな事。例え恨まれていようとも、俺はこの娘に何がしてやれるというのか。

「いいえ」

 意外な程明瞭な口調でセキナは言い切る。微塵も迷いを感じさせぬ言葉に、思わず瞠目して見返した。セキナは長い睫毛を伏せながら、一度困ったように微笑んだ。心持ち弛緩させた目蓋は夢見心地のようにも見える。青々と光る天蓋を見詰めるような、眩しげな遠い目をしていた。

「私は、石女なのです」

 一瞬の間が空く。セキナは目を伏せている。

「申し訳ありません、初対面の方にこんな話をしてしまって。驚かれましたよね」
「いや、そういう事ではない。俺の方こそ、その何ぞ……申し訳ない」

 言葉に窮している様を見かねてか、セキナが静かに首を振るう。同情を誘っている訳ではないのだ、と彼女は言う。

「私ではマダラ様の御子を身篭る事も、うちはの血を残す事も出来ませんでした。それに、産めたところで何の力も持たない血ですもの。ですから、妹君様がマダラ様とご一緒になられるのであれば、私は寧ろ安心しておりますの。女は嫉妬深い生き物ですから、俄かには信じて頂けないかもしれませんけれど。ですが、本当に夢のようなお話ですわ」
「そなたは、本当に――」

 本当に、それでいいのか。呻く様に呟いていた。セキナが目を細め、淡く微笑む。

「勿論でございます。離縁は自分で選んだことですもの、後悔などしておりません」
「……すまん、いやここは礼を言うべきか」
「それは違いますわ、柱間様」

 遮るように放たれた、凛然と芯の通った言葉。痛々しいほど背筋を伸ばし、彼女は前だけを見詰めている。

「思い違いなさらないで下さいまし、これは己の為なのです。私はうちはの為でも、まして千手の為にこの道を選んだ訳などではありません。自分自身が望んだから、マダラ様の栄華こそが私の夢であり幸せなのです。その為になら、私は何であろうと捧げてみせますわ」
「そうか、……そうであろうな。俺はそなたを見縊っていたようぞ。思っていたよりもずっと聡明で良い女だ」
「あら、流石にお上手ですこと」

 同情などは蔑みにもあたるのだろう。その告白を聞いた今、彼女の覚悟に敬意を覚えはすれ、哀れみを感じる事は最早憚られた。決して夢見がちな少女という訳ではない。セキナという娘は、生き辛い程に真直ぐで芯の強い女なのだ。

「しかし、これからそなたは如何する? 国に帰るのか」
「ええ、そう考えております」
「そうか……。磐永の生き残り、マダラの元妻としてこの先大変だろうが、どうか達者でな」
「お気遣い痛み入ります」

 短い邂逅ではあったが、自分は酷くセキナを気に入っている事に気が付いた。
 願はくは俺達が創る里に住んでくれるなら。そう思ったが、やはり酷な話だろう。誰もが望んでいても、決して叶わぬ事がある。それが故にこの世は生き辛いのだから。

「柱間様、ありがとうございました」
「いや、礼を言うのはこちらの方ぞ。そうだ、落ち着いたらどうか文をくれないか。そなたの手助けをしたい。千手としてではなく、俺個人として」
「……本当に、お優しい方なのですね。千手の方に会っておいて、本当に良かった。柱間様のお陰で、覚悟を決める事が出来ましたもの」
「覚悟?」

 はらり、と白の花弁が音も無く散り落ちる。セキナは花が綻ぶように微笑んだ。

「今日限りで、磐永セキナは死にますわ」




 言うが早いか、挿していた簪を抜き、仕込み刃の仕掛けを解く。小刀を額に突き立て、力任せに斜めに裂いた。

「な、何をッ! 待っていろ、今止血を――」
「お待ちくださいッ」

 恫喝。右往左往していた影がぴたりと止まる。生温く紅きものが視界を染める。血潮。匂うように世間が赤く眩む。酷く――嗚呼、嗚呼。皮膚が焼け爛れているかの様に熱い。痛い、痛い痛い痛い。いたいよう。嗚呼嗚呼。
 気力だけで身体を支えた。握っていた簪を置き、掻き分ける様に指で傷口を抉った。皮膚が捲れる。血汐の臭い。赤い。激痛が走る。迸りそうな悲鳴を噛み殺し、ぬかるむ指で肉を剥ぐ。更に抉ろうとする手を誰かが掴んだ。

「何をする気ぞ、気は確かかッ」
「今――この場で、磐永セキナは――死にました。私は、――只の顔の崩れた、醜女ですわ」
「なっ、」
「この名で生きていたならば、――いずれマダラ様にも、あなた達千手の方にも迷惑をお掛けしてしまう日が来るやもしれません。――それならば、私は――磐永セキナとしての生を捨てる。あの方が愛してくださったセキナを殺したのです。それが、私にとっての覚悟――」
「なんという、事を……」

 柱間が絶句する。この傷は恐らく一生治らないだろう。醜い傷だ。この時代、顔の傷は女としての死を意味しているといっても過言ではない。間違っても今までのようには生きられぬだろう。地を這い、泥を啜るように生きていくしか最早あるまい。
それで良かった。だからこそ、私は顔を割った。磐永セキナを殺したのだ。『彼女』を愛するのは、あの人ただ一人だけでいい。セキナは、あの人の中で生き続ければいい。
 私はもう、名も無き只の女なのだ。

「マダラ様は、あなたを友だと仰っていました。ですから、どうかお願い致します。どうか――、マダラ様の行く末を」

 呻きを堪えながら続ければ、柱間は息を飲む。その声は当惑した様に揺らいでいる。

「何故、そこまで……。そこまでマダラを想っていながら、」
「――愛しているから、こそですわ」

 そう短く言い切る。赤き視界で目を凝らし、血で汚れてしまった簪を拭う。彼が背負っていたうちはの紋を、ただ愛しげに見詰めた。ふわり、と目蓋が弛緩する。
 涙を堪えれば堪えるほど、気持ちが清んでゆく心地がした。痛覚が麻痺してしまったのだろうか。不思議なほど落ち着いていた。ただ、視界だけは茫漠と紅が滲んでいる。
 嗚咽の代わりに、後から後から言葉ばかりが溢れ出た。それは、大粒の涙のようだった。慟哭を堪える気力はあっても、湧き上がる言葉を止める術を私は持っていなかった。己を殺した覚悟であり、私の全てでもあったのだから。
 誰に向けて言うでもなく、ただ声を続けた。

「マダラ様が、生きろと言ってくださったから――あの方が下さった命を、せめて笑って咲かせる事だけは出来るのです。もう泣いたりなど致しませんわ。どんなに辛くとも、私は笑って生きて参りましょう。……泣いては己が崩れてしまう、いつまでも嘆いたりなどするものですか」

 泣くものか。惑うものか。
 この命が尽きるまで、私は誰よりも強く歩んでいこう。

「生きて生きて、例え醜くとも生き延びてみせましょう。強く、生きてみせますわ。もう決して惑ったりは致しません。この手で、この足で、二度と倒れる事無く生きて参ります。そして、――」

 静かに目を閉じる。紅匂い立つ視界に変わり、目蓋にかげろうのは透き通るように淡き日々の事。二度と訪れる事は無いのだろうが、生涯手放すことはないだろう。あの愛おしい一日いちにちを。
 幸せだった、あなたが与えてくれた分だけ。あなたが愛してくれた分だけ。私には、過ぎるほど。

 あなただけを愛し、ただ一人生きてゆこう。あなたに愛された女として恥じないよう。今まで選べなかった生き方を、己で掴み取ってみせよう。
 死に様を、今度こそ選んでみよう。

 目を開く。屹然と、私は続けた。

「笑って死んでゆきましょう」

 ――いつか倒れるその日には、どうか彼の元へ帰れるように。
 当て所もなく踏み出した遥かな果てを、今はただ切に願う。

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