最終話 あらざらむ
梔子の花が、何処かで咲いている。
その女を想起するのは決まって梔子の香が薫る頃であったし、いつの頃からか記憶自体に甘き香が染み付いていた。ただ、別段彼女があの白い花を好いていた訳ではない。梔子の花と彼女を重ねていた事も否めないが、多分、最期の日に梔子が咲いていた所為だろう。折々の季節を共に過ごしたのだから在り得ない筈だが、思い出の中ではいつも梔子の花が当たり前のように咲いている。
逆さなのかもしれない。女を思い起こせば、梔子が薫る。かそけき記憶を思い起こす度に、その噎せ返るような空薫が香った。眩眩と酔うような心地である。
幾度季節が巡ろうとも、決して色褪せる事はなき想い人。焼き付いたように在りし日々が思い出されるのは、梔子の香りを寄す処としていたからなのだろう。
静かに、そして確かに、薄絹のような声が胸の底から呼びかけていた。薄く目蓋を持ち上げる。白い花影に紛れて、彼女が笑っている気がした。
「―― 」
目醒めると、やはり辺りは薄暗い。目蓋に浮かんでいた透き通るような花影は消え失せ、ただ冷たい石壁が続くばかりである。
実に幾星霜を経た事だろうか。夢では飽きる程に見ている筈の姿を見たのは、考えてみれば随分と前である。
ここは奈落の底だ。花などは咲いている筈もない。
座台から立ち上がり、外へと通じる縦穴へと歩を進めた。手持ち無沙汰に寝転がっていた柱間の人造体が、意外そうに振り返る。
「あれ、マダラ外に出るの?」
「嗚呼」
「へえ珍しいね、気を付けて」
その声を背中で聞きながら、闇が淀んだ地の底を後にする。地上に出て、久方ぶりに天を仰いだ。地下で過ごしていると気が付かなかったが、今は梅雨のようだった。夜気を濡らす霧雨が、しめやかに頬を包み込む。しっとりと噎せ返るように芳醇な雨期の香りは、いつだって変わりがない。
――嗚呼、あの日も梅雨だった。
皮肉なものだ、と何とはなしに目を細めた。もう何十年も前の話であるのに我ながら執念深い。無駄に歳は重ねたが、忘れる事など終ぞ無かった。色褪せ、擦り切れようものなのに。過去ばかりが鮮やかに、みずみずしいまでに生きている。
当て所もなく進みながら、両の足はある一点に導かれているように迷いがなかった。老いた今では、ただ歩いているだけでも身に堪える。
そこまでして向かおうとするのは、誰かに名前を呼ばれた気がしたからなのだろう。まどろみの淵で控えめに囁かれるように、夢の狭間で躊躇いがちに呼び止められるかのように。予感にも似た感覚を、不意に覚えた所為だった。
辿り着いた果ては、己が死んだ場所。終末の谷、轟々と流れ落ちる滝の音が絶えず響く僻地である。懐かしい、そんな甘やかな感慨は浮かばないが、何処か乾いた焦燥に駆られる。柱間との因縁に終止符を打って以後、この地を訪れた事はなかった。ただ、風の噂で己の墓が立てられているらしい事は聞き及んでいた。
ぬかるんだ大地を踏み、見上げるばかりの石像を越えていく。若き日を象ったその像の麓近くには、傾きかけた墓石が立っている。――うちはマダラ。刻まれた名は他でも無い自分の事だ。今更ながら、思わず口の端が歪むのを感じた。墓など、この俺には凡そ似つかわしくも無い。
それでも、思う事はあるのだ。もし、あの日妻と別れていなければ。あのまま木の葉の里で共に暮らし、子を設け、一族を繋いでいけたのならば。共に老い、同じ墓に入れる事もあったのではないか、と。
古い藺草の香りが満ちる夏の日に、白い陽光の中で眠るように息絶える。きっと、悲しい程に幸せな日々だ。そんな見果てぬ夢を描く事も、確かにあったのだ。
肺を浸す様に広がる、梔子の香りが狂おしい。脳髄の奥を優しく蕩かすような、まろみのある甘い香りである。墓石の傍らに梔子の花が咲いているのだ。真っ白な花びらが零れ落ち、やわらかく地を染めていた。その墓石が手入れされていないのは明らかな荒れ様だが、梔子の花だけが場違いに美しい。
目を細めた。その梔子の木陰に一人の老婆が横たわっていた。ただ倒れ込んでいるというよりかは、半ば墓石を抱くようにして伏している。淡い夢を見ながら、安らかに眠っているようにも見えた。その姿は、息を吹きかければ消えてしまいそうなほど小さくささやかだった。
歩み寄り、その隣へと腰を下ろす。はらり、と側に咲いていた梔子の花が散り落ちた。まばらになった白髪から抜け落ちたのか、老婆の横には簪が一本転がっていた。使い込まれた、古ぼけた簪だ。今となっては、その細工も分からない。在りし日の意匠は霞み、所々が欠けている事からも、過ぎ去った年月を想像させるに難くはなかった。
よく見れば、老婆の手は不自然に曲がっていた。簪は頭に飾られていたのではなく、抱きしめる様に握り締められていたのだろう。余程大切にしていたようだ。そっと元の様に簪を戻してやれば、その錆び付いた二本の鎖が思いがけず涼やかな音を響かせた。見る影は無くとも、未だ輝きは失っていなかった。
女は優しげな目で手中の簪を眺めている。時折その指先を恐る恐る銀の花弁に沿わせる事もあっただろう。しゃらり、と澄んだ囁きが零れている。恐らくは、そうやって簪を抱きながら墓石に寄り添うように横たわり、そして、――
死んだのだろう。
その女は、最早生きてはいなかった。身体は腐り落ち、風雨に晒された白々とした骨が所々露呈している。破れた皮膚には肥えた蛆がのたくっていた。死後しばらくは経っているだろう。誰にも看取られる事もなく、たった独りで息絶えたのだ。眠りの澱みに沈むように、ひっそりと死んでいったのだろう。それは唐突な途切れではなく、残酷なほど緩やかな死だ。じわりじわりと血液が冷えていく、指先が熟れていく。忍び寄る冷ややかな感覚に包まれながら、たった一人で死んでいったのだ。
苦しかっただろう。哀しかっただろう。
たった一人きりで、こんな地で死んでいって。
それなのに、
「嗚呼――」
それでも、その顔は、
酷く幸せそうに微笑んでいた。
陽だまりの中でまどろみ、そのまま目を閉じてしまったかのような。
そっと目蓋に触れればむずがって睫毛を震わせる、あどけない幼子のようだった。
静かで穏やかな死に顔だった。
「――セキナ」
何十年振りかに、愛おしいその名を呼んだ。だが、誰も答えなかったので、
ただ透き通るような梔子の花が、揺れるばかりだった。
――完――
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