本編後


 荒涼とした白い大地を歩いている。見渡す限り、真っ白な花が咲き乱れていた。――夕顔、薔薇、アネモネ、菊、百合、ダリア。どれも白い花ばかりだ。その上に雪が降り積もり、余計に白々と見えたのだろう。余りに曇りの無い純白に、網膜が擽られているような心地になる。
 空は星ひとつ無く、濃淡の無い黒一色が永遠に続いている。白と黒。モノクロームに区切られた無色彩の世界だった。それでも暗くはないのは、月が出ている所為だろう。黒々とした空に、ぽっかりと丸い月だけが浮かんでいる。

 多分、誰かを探している。しかし、それが誰の輪郭かは一向に思い浮かばなかった。あまりに長く探し続けて、もう忘れてしまったのか。途方も無く長い間探し続けているようでもあったし、ほんの瞬きの間だったようにも思える。時の感覚さえも目に映る世界のように捉えどころが無く、酷く茫洋としていた。
 その誰かはこの先で、自分を待っているのだろう。何処かは知れない。それでも、歩いていればきっと会えるのだろう、という確信めいた予感はあった。

「……箏か」

 不意に顔を上げた。遠くから、囁くような箏の音が流れてくる。何処か懐かしいようでいて、切ない程に愛おしい音だ。空耳かと思った。余りにひそやかな夜に慣れてしまっていた所為であろう。周りに人影は無く、のっぺりとした黒白がただ続くばかりである。その鮮やかな音色は、明らかにこの平坦な世界からは浮いていた。
 白い花影に紛れて、いずこから零れてくるのか。ゆく道先に誰か爪弾く者がいるのだろう。多分、自分が探す人のいる方向から流れてくる。先を見据え、もう一度歩みを進めた。

 暫く歩み続けているうちに、止んでいた雪が降り始めた。無機質な白の欠片が花々をゆっくりと塗りつぶしていく。――クレマチス、カサブランカ、月下美人、ダチュラ。皆、見えなくなってしまった。後には、ただ抑揚の無いモノクロームが只管続いている。奥行きに乏しい景色が、パノラマでも見ているような錯覚を駆り立てた。
 変化無くなめらかに続く黒白に、相変わらず箏の音だけが鮮明に響いている。


 ふと、途方もない昔にも同じ音を聞いていた事を思い出す。遠い日の自分は、箏を爪弾く女の背ばかりを眺めている。淡い陽光に満ちていた。結い上げた髪から覗く耳朶が、日の光に透けて芙蓉の花びらのようだった。
 女はずっと箏を弾いている。余りに集中して弾いてばかりいるものだから、気を惹きたくて悪戯にその細い身体を抱き竦めた。恥らう言の葉。か細い肩から焚き染めた香とやわらかな陽の光が香る。甘い香りが心地良い。桜貝の耳朶に唇を寄せれば、彼女は困ったように笑い声を立てる。箏よりも澄んだ声である。屈託無く微笑むと、大人びたその顔は驚く程幼い。いとけない幼子の様な笑みだ。目蓋には一片の憂いさえない。

 箏の音は絶え間無く続いている。途切れる事は決してない。厳格に定められているかのように、そこには僅かの揺らぎもなかった。緩やかに、音が脳髄を震動させている。

 ――あの曲は、何といっただろう。


 只管に歩き続けていた。誰かを探している筈なのだが、その誰かはまだ遠くにいるようだ。歩んできた来し方を振り返れば、濃淡の無い白が続くばかりである。果ての無い白い大地には、己が歩んできた足跡だけがくっきりと描かれていた。
 その人は、何時になれば会えるのだろう。そう思う間にも、変わらずに箏の弦は震えている。ひたひたと鼓膜に沁み入る音。探している筈の誰かが爪弾いているのだろうか。

 不意に目眩がした。ぱちり、と瞬きを繰り返えせば、黒白の中で匂い立つような艶やかな薄紫が揺らめいた。はじめは眩んだ目の錯覚かと思ったが、よくよく目を凝らせば確かにある。
 降り積もる白にも染まらず、先には藤が咲いていた。精巧な押絵を覗き込んでいるかのような、夢のような眺めである。もう一度目を凝らした。みっしりと花を付ける藤棚の下で、誰かが背を向けて座っている。数歩近づけば、雪に溶けていた朧げなその輪郭がぴったりと定まっていく。ささやかな、押し込めたように小さな背中だ。一人の女が背を向けて座している。そして、どうやら彼女が件の琴を爪弾いているようだ。

 細いうなじは、指先で溶けてしまいそうな程に白い。降り積もる白雪でさえくすんで見える、それ自体がやわらかな光を包んでいるような真白である。弦を飛び交う細い指は、たおやかな蝶に見えた。ひらりひらり、と小さな桜の花弁ような爪が踊っている。
 きっと美しい女なのだろう。そう思わせる優艶な後姿であるが、その顔は知れない。女はずっと箏を弾いている。指先で崩れてしまいそうな儚い肩を、自分はただじっと眺めている。

「女、そこで何をしている」
「ある人を、待っております」
「ずっとか」
「はい、ずっと」

 箏の音と心地良く結び合う、静かな声だった。答えながらも手を休めることはなく、演奏は切れ目無く滑らかに続いていた。一筋の光がすっと闇を潜り、遠い先まで真っ直ぐな直線を描くように、彼女の手には迷いがなかった。そこには丁寧さがあり、畏怖があり、祈りさえも感じられた。

「そんなに長い間、誰を待っているんだ」
「待つと誓った方をです。その方が来られるのを、ただ只管に待っているのです」
「ほう」

 嗚呼よく似ている、と溜息を吐いた。ゆっくりと歩み寄る。衣に焚かれた香だろうか、甘く脳髄が痺れるような香りが控えめに香る。女のうなじは愈々白い。

「待っているだけか」
「時代が、時代でしたから。殿方ならいざ知らず、女は不自由な身ですもの」
「そうか」

 そうだったかもしれない。だが、何故かその響きが遠く昔に感じられる。
 きっと、己が思うよりもずっと、長く時が過ぎていたのだろう。知らぬ間に永く生きてしまったのだ。

「共に来るか」
「……どちらまで」
「さあな。だが、俺も待つ人を探している」
「その方は、まだ来られないのですか」
「嗚呼、まだまだ先のようだ」

 振り返り、歩んだ来し方を目で辿る。雪が降っているのに足跡だけはまざまざと残っている。何処までも続く白に刻まれた道程は、無限に遠い彼方で闇に紛れてしまっていた。随分と遠くに来てしまっていたようだ。

 細い肩に手を掛け、手折るように押し倒す。何の抵抗もなく女は雪の上に倒れ込んだ。冷ややかな白に黒が散る。思った通り、いやそれ以上に見惚れるほど美しい女だった。何よりも目が瑞々しい。漆のように潤いのある瞳がじっと此方を見返している。女はぱちり、と瞬きを繰り返した。黒い虹彩は深く深く透き通り、天上の月を映している。その大きな瞳に映った月影が、ぼうっと崩れていった。丸い月が流れ出したと思ったら、女はもう一度ぱちりと瞬きをした。その艶やかな睫毛は生温い涙に湿っていた。

「女、何故泣く」
「悲しいからです」
「何を悲しむ」
「……どうして、」

 涙に潤む震えた声。さめざめと降りしきる篠突く雨。擦り切れる程なぞり書き、その度に慟哭した梅雨の記憶だ。千年の追憶が、今目の前にいる。

「私はずっと、あなたを待っていたのに」

 マダラ様、と女は言った。嗚呼、自分はこの女を知っている。
 ――知っている? 何を言っているのだ、下らない。知っているばかりか、きっと今の今まで探し続けていた。探して探して、こんな所まで来てしまったのだ。
 その名は、今となっては呼ぶ事さえ憚られた何よりも尊い言葉。口にすることさえ惜しくて、ずっと大事に大事に胸の奥にしまい込んでいた美しい名前だ。
 喉が鳴る。その言葉を捧げるように唇に乗せた。

「セキナ」

 そうだ、かの女はセキナだ。何故分からなかったのだろう。例え百年経とうとも、彼女だけは忘れようもないというのに。
 どうして忘れてしまっていたのだろう。

「セキナか、セキナなのか」
「はい、……はい」

 こんなに待っていたのに、彼女はずっと待ってくれていたのに。
 セキナの記憶が朽ち果ててしまうほど、もうそんなに経っていたのか。

「マダラ様、ずっとお待ちしておりました」
「嗚呼そうか……。そうか、ずっと待っていたのか」

 ――俺はただ、お前に会いたくて。その言葉さえも余りに時間が経ってしまっていたものだから、擦り切れたように途切れ途切れになっていた。
 会いたくて、それだけだった。
 どうして、今まで忘れてしまっていたのだろう。ただ、もう一度だけお前に会いたかったんだ。

「遅くなって、ごめんなあ」

 ぼろぼろと溢れ出す涙が頬を濡らした。依然、ひらひらと雪は降り続いている。ゆっくりと飲み込むように白は身体を覆い尽くしていく。それでも寒くはなく、寧ろ切なくなるほどにあたたかい。まるで陽だまりの中に身体を浸しているようだ。
 甘い彼女の香り、梔子の移り香だ。噎せ返るようなその香りに、肺いっぱいを花で満たされたような心地になる。
 うつらうつらと目を閉じれば、濃密な闇がいよいよ深くなる。間直に落ちていく。穏やかな夜色の抱擁に、すっかり弛緩してしまっている。一切の音が途絶えた、静寂の世界。鼓膜の奥では、彼女が在りし日に弾いていた箏がずっと絶えず流れている――。


 不意に目が覚めた。重い目蓋の隙間から、中空を覆い尽くす赤い月が見えた。背中が感じるのは荒廃した土塊。何もかも、終わったのだろう。身体が崩れていく疲労感に包まれながら、それでも酷く安らかであった。
 ふと耳を澄ませば、懐かしい箏の音が聞こえている。その遠い何処かで、白い花影に紛れて彼女が笑っている。嗚呼やっと、――。

 空には夢で見た月と同じ丸い月が、ぽっかりと浮かんでいる。いつの間にか百年が経っていたのだな、とその時初めて気が付いた。

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