第三話 由良の門を


 この屋敷で暮らすようになり早いものでもう一ヶ月が過ぎる。
 ひらひらと雪が舞う度、今でも少し心が跳ねる。私の故郷はここよりも南に位置しており、真冬でも滅多に雪が降らない地域だった。深く息を吸い込むと、朝日に清められた風と仄かな井草の香りが胸に広がる。季節は晩冬の頃。障子を透かして零れる天日までも、透徹した空の青に染まっているように見えた。

 褥を片付け、鏡台の前で髪を梳かす。母が嫁入りに持たせてくれた欅の座鏡の他に、衣装箪笥や螺鈿の箏。色々と揃えてきたものが置いてあるが、それでも殺風景だと感じるほどにこの部屋は広々としていた。身の置き所が無いとも言える。まだ此処では私は異物なのだ、この空間に受け入れられていない。
 足りないものがあればと渡された千両箱は、一切手を付けずに長持ちの奥に仕舞ってある。今日は町へ出るついでに、文机を買いに行こうか。頻繁に書きものをする訳ではないが、何も無いと流石に不便だ。それに、少しは部屋も華やぐかもしれない。

 衣紋掛けに掛けておいた藤紫の小袖を手早く着付ける。身支度を整えて部屋の襖を開けると、ちょうど朝の修行から帰ってきていたイズナが廊下の奥で手を振っていた。朗らかな笑みに思わず笑い返す。歩み寄ってきた彼の額には、珠のような汗が滲んでいる。

「おはよう、セキナ。今日もいい天気だね」
「おはようございます。修行に行かれていたのですよね」
「うん、今帰ってきたところ。兄さんはもう少し残るそうだよ」
「分かりましたわ。すぐに朝餉をご用意いたしますから、少し待っていてくださいね」
「今日も楽しみだな。じゃあ、俺は汗を流してくるから」

 私の頭を撫でながらそう答えると、イズナは湯殿の方へと向かった。長い間妹のように扱われていたからか、イズナは今になっても時折子ども扱いをする。この歳にもなって、という気持ちもあったが、義弟とはいえ彼の方が年上なのだから仕方が無いのかもしれない。弟妹が欲しかったといつか言っていた。
 それに、別段嫌でもないのだから。よそ者として腫れ物のように扱われるよりも遥かに気が楽だった。

 来た当初は、兄弟と同じ時間に起きようと努めたのだが、ものの数日でその必要は無いのだと諭された。彼らは毎朝日が昇る前に起き、辰の刻を少し過ぎるまで修行をしている。朝まだきに起きたところで、二人が朝餉を食べるのは修行が終わってからなのである。七つ半に用意し終えた朝餉は、食べる頃にはとっくに冷めてしまっていた。
 帰ってきてから作ってくれた方が嬉しい、と素直に言ってくれたのは私の料理をとても喜んでくれたイズナの方だった。

「おかえりなさいませ、朝餉の準備は整っております」
「ご苦労。イズナは湯殿か」
「はい、先程汗を流しに行かれましたから……。そろそろ上がられる頃かと」

 玄米飯に味噌汁、焼き物と和え物を膳に並べ、香の物を添える。支度が済んだ頃に戻ってきたマダラは、言葉少なに返事を返すと座布団の上に腰を落ち着けた。もう一ヶ月が過ぎるのだが、この許婚と日に言葉を交わすことは数えるほどしかない。はじめの内はそれでも話し掛けようと試みたものの、あまりの素っ気無さにこの頃は断念してしまっている。喧しくして機嫌を損ねるよりは、空気のようにあるかないかで過ごす方がよいのだろう。
 けれど、二人きりだとそれでも少し落ち着かない。イズナは、まだだろうか。

「お待たせ、今上がったよ」

 からり、と障子が開く。湯殿から戻ってきたイズナは、部屋に入るなり膳の前へと腰を落ち着けた。ほのかに柚子の湯気が香る。淹れたての緑茶を渡すと、イズナは頬を綻ばせた。

「わあ今日も美味しそうだな」
「イズナ、早く食えよ。今日はお前が見回りだろ」
「分かってるよ。じゃあ、いただきます」
「はい、どうぞ召し上がれ」

 箸をつけずに腕組みをしていたマダラが急かすと、イズナは軽やかに笑いながら手を合わせた。それに合わせ、マダラも箸を取る。噂に聞いていた兄弟仲の良さは本当のようで、何気ないところからもそれは伺えた。本当に、正反対のような二人なのだけど。正反対だからいいのだろうか。
 私が食事をするのは二人が終わってからなので、自分で淹れた緑茶を啜りながらそんなことを思う。イズナが買ってきたかぶせ茶なのだが、これがまた美味しい。

「そういえば、セキナ、今日は町に出るって言ってなかった?」
「ええ、大した用ではないのですが」
「どうしたの?」
「文机を買いに行こうと思っていて。無いと少し不便ですから」
「そうか、確かになかったね」

 納得したように頷くと、味噌汁の椀を置き一息ついた。香の物以外の器は既に空になっている。食べながら話しているのだが、無作法に見えないのがイズナの器用なところだ。

「お二人とも、何かご入用のものがあれば仰ってくださいね」
「……いや」
「うん、俺も大丈夫。それで、大体の目星はついてるの?」
「いいえ、特には。まだ街に不慣れなものですから、お店を探すのも楽しいかと思っておりますの」
「そっか。なら、兄さんが付き合ってあげれば?」

 さらりと言ってのけた言葉に、指先を暖めていた湯呑みを取り落としそうになった。苦い緑茶が喉元までせり上がり、思わず軽く咳き込む。心配そうに背中を摩ってくれたイズナはやはり優しいが、噎せた原因はこの人なのだ。

「セキナ、大丈夫?」
「ええ……すみません、なんでもありませんわ」
「そうか、それはよかった」

 いや、そうじゃない。ちっともよくない。
 ちらりとマダラの顔を伺うと、弟の言い出したことに驚いたのか、珍しく動揺の色を滲ませていた。恐らく、私も同じような顔色をしているだろう。見なくてもわかる。

「イズナ、さっきのことだが」
「今日は特に用事が無いんじゃなかった? セキナと一緒に行ってあげなよ」
「でも、そんな……。折角のお休みですのに」
「だけど、文机なんて重いじゃないか」

 そう言われて少し言葉に詰まった。考えてみれば、実家で買い物する時は決まって従者を連れていっていたのだ。当然だが、此処にはそんな人はいない。担ぐなり何なりすれば持って帰れないこともないだろうが、正直あまり自信が無かった。どうしよう、後で届けてもらうことにしようか。
 言い淀んでいると、マダラが深い溜め息を吐き出した。思わず肩が跳ねる。機嫌を損ねてしまったのだろうか。確かに、今日ぐらいは彼もゆっくり休みたいだろう。

「あの、……」
「馴染みの木工に腕の良い者がいる。そいつに頼めばいいだろ」
「え?」

 眉根に皺を刻みながらそう告げるマダラは、どこか忌々しげにイズナの方を睨んでいた。当のイズナは、少し困ったように苦笑を浮かべている。狼狽えていると、強い双眸は此方を横目で睨み付けた。目障りだと言われているように感じ、身を竦める。

「よろしいの、ですか?」
「……祝いがまだだったからな、ちょうどいいだろ」
「確かに、このところ忙しくて何もできてなかったな。セキナ、折角だから行っておいでよ」

 こともなげに微笑むイズナを見返す。マダラは明らかに不機嫌そうな様子なのだが、彼が考えもなしにこんなことを言い出すとは思えなかった。断る理由もない手前、これ以上意地を張れば角が立つ。その真意は汲めなかったが、折角の申し出を無下にすることもないだろう。

「では、お言葉に甘えさせて頂きますね」
「……巳の刻には出立する。早々に支度をしておけよ」
「はい、よろしくお願いいたします」

 そっと微笑みかけるも、マダラは一瞥しただけで黙って立ち去った。残された私とイズナは顔を見合わせる。怒ってらっしゃいましたわ、と呟くと何故かイズナは呆れたように笑っていた。含みのある笑みに少し憮然とする。
 ――それよりも、どうして急にあんなことを言ったのか、きちんと問い質さなければ。そう口を開きかけた時、慌てて彼も立ち上がった。警備に遅れるといけないから、とのこと。用意していた竹包みのおむすびを渡し、渋々と見送った。
 釈然としない。なんだかイズナに上手く乗せられた気がする。

 静かになった居間に再び腰を落ち着け、冷めてしまったお茶を飲み干す。早々に支度を終えろ、とのことだったが、多少の雑事が残っているだけでゆっくりと朝餉を済ませても時間は十分にある。
 折角だから、嫁入りに仕立ててもらった白綸子の掻取を着付けて、象牙の玉簪でも挿してみようか。白雪を意識して白でまとめてみるのも、きっと楽しいに違いない。

「帯、何にしようかしら……」

 少し楽しみにしていても、罰は当たらないだろう。


 屋敷から程近くに、南賀ノ里という集落がある。門前町として栄えた割合繁華な人里である。そこにはもう何度も足を運んではいたが、マダラと共に行くのは初めての事だった。それ以前に、マダラと二人きりで出かけること自体が初めてなのだ。
 普段はそれほど気にならないのだが、並んで歩くと彼が存外背の高いことに気付く。イズナと並んでも彼の方が背が高いぐらいだから、私と比べると頭一つ分くらいは違うのかもしれない。
 背高さは足の長さにも比例しているのか、マダラは歩くのが速かった。さっさと大股で闊歩するマダラに遅れないように着いていくだけでも骨が折れる。
 途中、不意に立ち止まった彼は、振り返り何事か言いたげに此方を見つめた。気付かれぬよう息を整える。何も言わないマダラを不思議に思い、小首を傾げ見返した。矢張り、その双眸は高い位置で閃いている。

「どうかなされました?」
「……いや、何でもない。気にするな」

 それだけ言うと、またマダラは歩き始めた。遅れるわけにもいかないので、慌てて後に続く。カラコロと響く下駄の音を追いながら半歩後ろを歩いていたのだが、先程よりも息が上がっていないことに気が付いた。気を遣わせてしまったのだろうか。イズナの言う通り、確かに面倒見のいい人ではあるのだろう。伊達に頭領を務めている訳ではないのだろうし。少し逡巡しながらそんなことを考える。
 ただ、取るに足らぬ相手にも心を砕くというのには、少し意外な面を垣間見た気がした。

 何か言おうと舌の上で言葉を転がしている内に、程なくして賑やかな通りに着いた。南賀ノ里の大路である。小さな里ではあるのだが、此処はいつも活気に満ちており、行き交う人が絶えることはない。初めて通った時に、その人の多さに驚いたものだ。擦れ違う人々を何気なく眺めていると、呆れたようにマダラが溜め息を吐いた。

「……少しは落ち着いたらどうだ」
「も、申し訳ありませんっ!」

 跳ねるように駆けて行く子供達を追っていた目を慌てて伏せ、身体を強張らせる。いくらまだ慣れぬとはいえ情けない。まるで童子みたいにはしゃいで。
 そのまま少し俯き加減でいると、頭上から押し殺したような笑い声が漏れてきた。信じられない気持ちで顔を上げる。ぱちりと視線が重なりあった。
 ――あっ、と少し息を飲む。二、三度まばたきを繰り返した。見間違えたのかと思う程、穏やかな目だったから。何だか無性に目のやり場に困ってしまって、項垂れるように顔を伏せた。
 少しだけ、顔が熱い。考えてみれば、マダラが笑ったところなど、長い付き合いの中で初めての事だったのだ。剣呑な眦は緩み、ほどけた顔は夢のように幼い。先程の気遣いといい、今日の彼は機嫌でもいいのだろうか。朝は随分と不機嫌そうだったのだが。

「どうかしたか?」
「いいえ、何でもございません……」

 似たようなやり取りをさっきしたな、と心のうちで無意味に呟く。生憎と逆様だ、先ほどは私が似たようなことを言っていた。落ち着かない。彼とこうやって過ごしていると、なんだか妙な心地がする。

 往来をゆっくりと歩くマダラは、沢山の人が行きかう中でも特に目立っているようだった。無論うちは一族の頭領という立場もあるのだろうが、大半は女性達からの熱っぽい視線が占める。そっと、その横顔を盗み見た。涼やかな目元に、艶気のある整った顔立ち。見目の整った一族だと聞くうちはにあっても、彼はきっと目立つだろう。実弟であるイズナも女人のように綺麗な顔をしているが、自信に満ちたマダラはまた風格が異なる。自ずから目を惹かれ、然るべくして見惚れてしまう。
 確かに、羨望の的としては十分である。注がれる視線に混ざっている嫉妬の念に居心地の悪さ感じながら、少し距離を開けるように歩を進めた。

「件の職人だが、この里の外れに住んでいてな。行った事はあるか?」
「いいえ、いつもは大通りで済ませてしまうものですから」
「そうか。まあ、悪い奴ではない。そんな畏まらなくったって平気だ」
「はあ……」

 慣れない内はあまり一人で遠くまで行かないように、とイズナに諫められていた。暇を見て何度か案内はしてくれていたのが、大体いつも繁華な大通りで用は済んでしまう。それ故に、今まで足を運んだことは無かったのだ。
 遠くに散らばる屋根が少し気になってはいたのだが、わざわざ手間を掛けさせることもない、と胸中は告げずにいた。果たして、どんな所でどんな人がいるのだろうか。

 すれ違う人々の影が疎らになり、目に沁みるような空の藍が濃くなった里の外れ。耳をくすぐる鳥達の澄んだ囀りを楽しんでいると、古い草庵の前でマダラが足を止めた。余り手入れの行き届いていない、萱葺きの粗末な小屋である。少し待っていろ、とマダラは制すると、色褪せた暖簾の向こうへと消えていった。それ程広そうには見えないのだが、幾つかに部屋が分かれているのだろうか。
 手持ち無沙汰なので、北風にそよそよと揺れる木々などを眺めている。朝方は雪がちらついていたほどなので、吐く息は勢い白い。奥の方で何事か話し合う声が漏れてきた。マダラなのだろうか。そう思い、そっと隙間から中を覗き込む。

「お嬢さん、そんなとこに突っ立ってねェで、さっさとお入りなせェ」

 声を掛けられると思ってもいなかったので、思わず大げさに肩を揺らしてしまった。カラカラと乾いた声で呵々大笑する五十絡みの男が、奥からこちらへと歩いてくる。背の低い男の後ろにマダラの影が見えたので、お邪魔いたします、と声を掛けて中へと入った。
 沢山の木材が所狭しと壁や床を覆っている。雑然として見えるが、手入れは行き届いているようだ。部屋の中は古い木の香りに満ちていて、どこか懐かしい心地がした。

 木匠らしいその男性に頭を下げると、感心したような声を出して顎をさすった。薄く皺が刻まれた目元が、糸のように細くなる。

「こりゃ、うちはでも見ねぇ位の別嬪さんだねェ。大将、一体どうなすった」
「うるせぇよ。そんなことより、セキナ、必要なのは文机だけでよかったのか」
「はい、他は間に合っておりますので」
「文机なら奥にいくつかありやすぜ。むさ苦しい所ですまねぇが、ついて来なせェ」

 やはり、思ったより中は広かったようだ。連れられて入った奥の部屋も小綺麗に片付けられている。どうやら、此処は出来上がった木工品が置かれる場所らしい。重厚な造りの家具に紛れ、緻密な細工の施された木箱や簪も並べられていた。少し身を屈め、近くにあった簪を覗き込んだ。

「まあ可愛らしい、素晴らしい細工ですわ」
「そりゃあ彫りの練習で作った駄作でさァ。手前の本職は家具だかンな」
「こんなもんも作ってるのか……。腕の方は相変わらずのようだな」
「これしかねぇんだから、仕方ないさなァ」

 掠れた声でそう笑うと、部屋の隅を指差した。艶やかに磨き上げられた文机が五つばかり並んでいる。近くに寄って見つめると、滑らかな表面に自分の顔が映っていた。艶々と瑞々しい水面のようだ。大きさに差こそないが、施された彫りや材質によって随分と違いがある。どれも本当に綺麗なものばかりだった。

「ここにあるのはこれで全部ですがね。気に入ったのがねぇなら、なんなら一から作りやすぜ」
「いいえ、とんでもないですわ。ただ、どれも素敵ですから迷ってしまって」
「そうさなァ、予算はどのくれェで?」

 そう問われて言葉に詰まった。自分で出すのなら話は早いが、今回はマダラが持つという。簡単に話に乗ってしまったが、考えてみれば難儀なことだった。
 見たところ右端に置いてあるものが一番好みなのだが、多分あの細工だとかなり高いのではないか。流石に値段も弁えずに強請る程、神経が図太くは無い。この際、一番安いのでいいのだけど。

 言葉を濁しながらマダラの方を振り返ると、腕組みを解いて袂に仕舞っていたらしい巾着を投げてよこした。両手で受け取ったのが、予想していたより遥かに重量があり思わずよろけてしまう。両の掌に収まる巾着はずっしりと重い。一体、幾ら入っているのだろう。

「金はそこから出す。それで、一番仕上げがいいのはどれだ?」
「ンなら、紫檀だなァ。ほら、その一番端の。値は張るが、売るのが惜しいぐれェの一品だぜ」
「なるほど、確かにいい出来だな。セキナ、あれでいいだろう」
「ま、待ってくださいっ……! 頻繁に使うものでもありませんし、あんなに立派なものを買って頂かなくても」

 慌てて止めると、マダラはほんの少しだけ眉を顰めた。

「なんだ、気に入らなかったのか?」
「いえ、そういう訳では……」
「なンでェ、素直じゃねぇお嬢さんだなァ。大将が言ってくれてんだ、折角だから甘えなせェ」

 胡乱な声が唇から零れそうになって目を泳がせた。有無を言わせぬマダラの視線が痛い。
 礼も過ぎれば無礼になる。頑なに厚意を拒み相手を立てぬのも、礼儀を欠くというものか。……今日はこんなことが多い日のようだ。

「では、お言葉に甘えさせて頂きます」

 深々と頭を下げると、マダラは頷いた。私の手から巾着を取り上げ、木匠と何事かを話し始める。金額の算段を耳に入れるのも無粋かと思い、少し離れて先ほどの簪たちを眺めることにした。
 今まで鼈甲や象牙の簪ばかりに触れることが多かったので、木の簪は少し新鮮だ。豪奢ではないが佇まいがよく、洗練されて美しい。小袖や袿などより、うちは伝統の藍染め装束によく似合うことだろう。
 いつの間にか傍へ来ていたマダラが、眺めていた簪をのぞき込む。長い蓬髪が肩口に触れた。

「その簪、欲しいのか」
「いえ、少し珍しかったもので。うちはの御装束によく似合われそうですわね」
「……おい、ついでにこれもくれ。代金は一緒でいい」
「あのっお待ち下さい、そんなつもりでは。折角ですから自分で買わせて頂きます、母からの餞別も持ってきておりますから」

 突然のマダラの申し出に慌てて首を振る。しばしの攻防が続いた。本当にどうしたのだろう、今日のマダラは。イズナが得意だと話していた瞳の幻術とやらにでも掛かってしまったのだろうか。当惑していると、マダラが呆れたように眉を寄せる。少し困ったような、見た事も無いような穏やかな表情だった。

「俺が買いたいだけだ」
「……ありがとうございます。嬉しいです、大切にいたしますね」

 吐き出すように呟かれ、ついに観念して頭を下げた。顔が上げられない。荷物を受け取りに、マダラがさっさと離れていったのが救いだった。その背から顔を逸らすように俯き、掌で口元を覆う。眩む熱。指先までくらりと熱い。
 ふと気付けば、頬が少し緩んでいる。さっきは渋ってしまったけれど、内心では素直に嬉しい。今日は夢でも見ているのだろうか。そんな事より、帰ってからきちんと礼を言わなければ。

「世話になったな、また用があれば頼む」
「おうよ、気ィ付けてお帰ンなせェ」

 先に庵を出て、暖簾の前で待っていると程なくして木匠と共にマダラが出てきた。文机をそのまま担いで持って帰るのかと問うと、口寄せした鷹に先に持って帰らせるのだと言う。この庵から屋敷までは、歩いて半刻ほど。重くなどはないのだろうが、形からして持ちにくいのだろう。
 大人でも乗れそうな程に巨大な鷹の背に文机を括り付けているのを隣で眺めていると、木匠がしみじみと呟いた。

「しっかし、そうしてっとホントに美男美女で似合いだが……。大将、その人ァこれなのかい?」
「いや、こいつは俺の遠縁だ。今は訳あって引き取っている」
「そうかい、手前はてっきり別嬪の奥方でも見せびらかしに来やがったかと思ってたがね。大将も色男だからそう言われれば似てなくもねェな。ったく、頭領様よ。アンタもそろそろ身ィ固めろよ」
「人のこと言えるのかよ」
「違いねェな。……ん?お嬢、顔色がわりぃがどうなすった?」

 覗き込む鳶色の瞳に、はっと我に返る。駄目だ。今はそんな事を考えている場合ではないのだ。

「いえ、何でもありませんわ。今日はありがとうございました、大切に使わせて頂きますね」

 言葉はするすると流れ出た。愛想笑いには慣れている。ただ、早口に吐き出した声が震えてはいないだろうか。それだけが気掛かりだった。


 半歩遅れて歩いていると、その横顔は髪に紛れて伺えない。ゆっくりと息を吸った。如月の凛とした風が沁み入るようだ。吐き出した息は霧のように白い。
 あの、とその背中を呼び止める。身を切るような北風に、喉の奥で凝っていた言の葉が蕩けるように零れ落ちた。

「先程は、ありがとうございました」
「嗚呼」

 どこかで鳥が鳴いている。里外れの静寂は、耳に痛いほど深く感じた。庵を出てもう暫く歩いているけれど、翳ってきた灰色の空が濃くなるばかりで周りには誰もいない。

「さっきの事だが」
「はい」
「祝言を挙げるまでは、一族でも一部の者以外には俺達の事は伏せてある。それは心積もりしておけ」
「承知いたしました」

 彼の事だから、何か考えがあっての事なのだろう。言われなくともそんなことは分かっていた。言われたことを逆らわずに聞き、ただ黙って従うことが、私に課せられたたった一つの役目なのだと。閉じた唇の奥で、何度もそう繰り返す。
 親が決めた呪いのような約束事が、うちはを一心に背負うマダラに例えどう思われていようが、私には与り知らぬことなのだ。

 ただ、どうして、と。公言することもできぬような許嫁なのか、と押し殺したその一言だけは、澱のようにどこまでも沈んでいった。

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