第四話 なげきつつ
私がそのことに気付いたのは、小さな子どもの頃だった。時折酷く、足元が儚くなる。視界が回り灯籠の影絵のように揺らいで見えて、深海にいるような心地になる。ひどく、寂しくなる。
家の者に吐露することもできなかったから、そんなときはいつも独りで箏を弾いていた。ただ指先に神経を集中させて響く音だけに心を通わせていると、自分が透明になったように心が軽くなった。
そうしてやっと、息が出来る。箏の音を響かせている時にだけ、私は弱い膜のような結界で呼吸することが出来るのだ。脆く儚い、薄絹のように弱い殻の胎内で。
「上手だね」
「……イズナさん?」
「ごめん、箏の音が聞こえたものだから」
入るよ、と一声掛けるとイズナは襖を閉めた。咄嗟に襟元を調える。もう子の刻を過ぎてはいたが、中々寝付けないでいたせいで、湯浴みをとうに済ませてからも寝衣には着替えてはいない。義弟とはいえ、だらしのない寝間着姿を見られなくて良かったと思う。爪弾いていた手を止めて、ゆっくりと向き直った。
「ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」
「いや、偶々厠に行っただけだよ。セキナは、眠れないの?」
「はい、何だか目が冴えてしまって」
蝋燭の明かりに照らされたイズナの顔は、囁くように淡く優しい。やわらかく微笑んでいる彼にそっと笑い返すと、少し目を見開いてから噴出すように笑った。思わず狼狽えてしまう。突然どうしたのだろう。
「イ、イズナさん? どうなされました?」
「ごめんごめん。だって、あんまりにも警戒心が無いからさ」
「はあ……」
「こんな夜更けに仮にも男と二人きりなんだから、少しは気をつけないと」
「あら、私は仮にも義姉ですよ。それに……、イズナお兄様はそんなことをする方ではありませんもの」
「参ったな、一応俺も男なんだけど」
控え目に笑って答えると、イズナは大袈裟に肩を竦める。少しだけ、肩の力が抜けた気がした。聞き様によっては不謹慎な発言に思えるかもしれないが、彼なりの冗談なのだとは容易に想像が付いた。
イズナはそうした人なのだ。彼は、いつも優しい。兄を慕い、一族を思い、それでいて私を守ってもくれる。――その優しさが、返ってその生き様を辛くしているかもしれないのに。それが分かっていて、私は彼に甘えてばかりだ。
そっと息を吐く。イズナはゆっくりと目を閉じ、俯いていた。
「曲の続き、聞かせてほしいな」
溜め息のように静かな声だった。頷いて指を動かすと、震えた弦の声が響く。透き通った音色はどこまでも細くたなびき、深い夜の底に吸い込まれていった。雪の降り敷く夜は、森閑として物音ひとつ響かない。夜のしじまに、ただ箏の啼く音だけが蕩けていく。
今宵は夜が深い。密度の濃いみっしりとした闇が、衣から露出した肌に纏わり付くようだ。どろりとした夜が、澱のように凝っている。
ほんの一瞬のようで、それでいて永遠に近いような時間が流れた。一曲を引き終えただけなのだから真実そう時間は経っていなかったが、最後の余韻が消えた後には気だるい倦怠感が身体を包んでいた。
ゆっくりと息を零す。呼吸さえも躊躇っていたかのように見えたイズナが、丁寧に瞬きを繰り返した。ほう、と感嘆の吐息。形の良い唇は優しい笑みを湛えている。
「とても綺麗で、悲しい曲だね」
「……これは、鉄輪という曲なんです」
「鉄輪?」
「鬼になってしまった女の人の話です。恐ろしいけれど、とても悲しくて切ないお話」
「あれか、聞いたことがある」
そう呟くイズナは少し戸惑っているようだった。その唇は、何かを伝えることを躊躇している。一瞬の静寂が落ちた。私は象牙で覆われた指先ばかりを眺めていた。白くまろやかな箏の爪は、深い霧が澱んだように行灯の光を虚ろに反射している。ほんの少し、目を細めた。
「一つ、聞きたいことがあるんだ」
「なんでしょう?」
「兄さんの事、セキナはどう思う。……いや、違うな。兄さんと結婚すること、かな」
顔を俯かせたまま、どこか言い辛そうにそう問い掛けるイズナを見つめ返す。
答えるべき言葉はすぐにでも出てくる筈だった。うちはに嫁ぐと決められた幼き日より、用意されていた唯一つだけの教え。マダラに嫁ぐのではない、うちはに嫁ぐのだと。私という個が嫁ぐのではなく、ただ磐永がうちはに嫁ぐのみ。
そこには上澄みである誓いだけが存在していて、他は無用で捨て去るもの。何でもない、至極簡単なことである。
「勿論、一生尽くさせて頂きたいと……」
――何もかも、覚悟してきた筈だった。呪縛のように刷り込まれた言葉が、喉の奥でつかえてしまう。かたかた、と肩が震えた。急に息を吐き出す拍子が速くなる。胸の奥が焼け付くように苦しくなった。思わず口元が歪み、頬が痙攣した。それを隠すためにただ俯く。
鼓膜の奥で、誰かがしきりに囁いている。――嗚呼、聞きたくない。そんなこと、聞きたくない。
――どうして、あんな女が……。
――たかが家から売られたの女郎の分際で。
――弱き血などはうちはにいらぬ、早々に去ね。
――お家の為、これが貴方の務めなのですよ。磐永家の繁栄こそが貴方の幸せになるのです、分かっていますね。
後にも先にも引けぬ底無しの澱み。一族には決して歓迎されてないのだと思い知らされたのは、此処に来てすぐの頃だった。私の家系は、元来ただの没落貴族。数多の忍に於いても最強の一族として武勇を馳せていたうちはにとって、非力な小娘が頭領に嫁ぐなど血が穢れるだけのことだった。
祝言を上げるまでは婚姻の事は口外法度とされてはいたが、人の口に戸は立てられぬもの。外から来た異端の噂は、清水に滲む墨のようにすぐに広まった。町へ出る度、ひそひそと囁く謗りや妬みが胸を破った。
それでも、前を見据えて生きよう、と。家から売られた身ならば、せめて高く買ってもらおう。そう心に決めていた。自分で立つことしか叶わないから、ただ泣き崩れてその足場を壊す真似はしないのだと。
結局、続く言葉は出てこない。目を伏せていたイズナが、唇を噛み締める。伏せた目元に、艶やかに長い睫毛が影を描いている。
――不意に。固く拳を結んでいたその手で、手首を捕まれた。思いがけず息を呑む。真っ直ぐに私を覗き込む、深く透き通ったふたつの眼。あっと声を上げる間も無く、その胸板に押し付けられた。あたたかな吐息が首筋を撫でる。生々しい程の、いきている温度。
思わず身を捩ると、肩を抱く手に痛いほどの力が篭った。
「イ、ズナさん!? は、離してくださいっ!」
「セキナ……」
苦しげに呟くイズナの声に、胸が押し潰されそうだった。やわらかな、熱だ。抱き寄せて包み込んでくれている体温が、狂おしいまでに優しい。
――後にも先にも引けぬ泥沼ならば、いっそ一思いに沈んでしまうのが賢いのだろうか。イズナの優しさに溺れてしまうのは容易いが、沈んだ先にあるものはきっと闇しかない。イズナを巻き込む訳にはいかないのだ。落ちていくのは、私一人で構わないから。
「お願いです、離し、てっ」
「……辛い時くらい泣いてもいいんだ。セキナがいつも無理をしてるのはわかってるから」
「イズナ、さん……」
肩を押し返していた両手を包まれ、冷えた指先が温められる。悲しげに歪めた彼の顔が、許婚の顔と重なって見えた。嗚呼、どうして。イズナが彼と入れ替わってくれたのなら、何もかもが上手くいくのに。そう思う私はきっと下衆に違いない。
じんわりと涙が滲む。揺らぐ視界が零れぬように、せめて唇を強く噛み締めた。――泣いてはいけないのに。泣いてしまっては、何もかもが崩れてしまう。居場所が無くなってしまう。笑顔を装い生きる事しか教えられては来なかったのだ。
「ごめんなさい、わたしっ……」
「兄さんとの事は、俺も何とかする。大丈夫、大丈夫だから」
あやす様に背中をさするイズナの手を、酷く遠いところで感じていた。身体が重い。揺蕩っているように感覚が曖昧だ。これが全て夢ならいいのに、ゆるりと微睡んだ頭でそう思う。堪らなくなって、私は固く目蓋を閉ざした。
マダラにとって、私はどんな存在なのだろう。例え視線が交じり合ったところで、あの人は私を見てはいないのだ。彼の目はいつも遠くを見つめている。その紅い目が見据えるのは、只管にうちはの行く末なのだろう。
マダラが毎夜ごとに女を連れ込むようになったのは、ここ最近の事だった。所詮は政略結婚、必要とされていないのだとはわかっていた。何の力も持たぬ女と子を成した所で、邪魔になるだけのこと。愛されるとは、思ってはいなかった。
ただそれでも、例え望まぬ結婚を強いられたのだとしても。その宿命を嘆くよりも、伴侶となる人を好いて共に生きたい。他でもない許婚であるマダラその人を、誰よりも愛し愛されて生きたい。その努力をしたい、そう思っていた。
けれど、私一人が覚悟や決心をしたところで。これでは、何の覚悟なのか、何の決心なのか。何が為に生き、何が為に生かされているのか。私の事など眼中にもないように他所の女を抱く許婚の姿を見ていると、急に分からなくなってしまったのだ。
家からは見放され、嫁いだ一族に受け入れられず、許婚には疎ましがられる私は、これから一体どうやって生きていけばいいというのか。居場所など、どこにもない。行くも帰るも出来ぬ、無明の地獄。
「セキナ、―――」
顔を上げる。イズナが何かを言っている。海鳴りのように寄せる耳鳴りが邪魔をして、何を言っているかは聞き取れなかった。
――ならば、この声は誰かなのか。誰かが私を呼んでいる。胸の内から聞こえるのは、染み付いた枯れた声。これは――。
これは、母の声だ。母上が、怒っていらっしゃる。
ひくり、と心臓が引き攣った。
「ゆるし、っ……」
「――――」
「ゆるして、ください」
嗚呼、これでは母に叱られてしまう。お家のために生きることこそが、与えられたたった一つの定め。その契りも守れぬならば、私の生まれてきた意味が全て亡くなってしまう。嗚呼御免なさい御免なさい。母上、――母様母様かあさま
「――わたしを、ゆるしてください」
薄絹の結界はとうに砕けていた。揺らぐ蝋燭の灯火は心許無く、ともすれば闇に飲み込まれてしまいそうだった。
遠い夜の向こうでは、許婚が今夜も誰かを抱いている。私は義弟の腕の中で涙を流している。頭がおかしくなってしまいそうだ。夢ならば醒めてほしい、全てが嘘であってほしい。これは、誰が望んだ最果てなのか。滑稽にも程がある、と他人事のようにそう思った。
眼差すのは誰なのか、誰が為の御伽なのか。嘲笑さえも出てこない。声が、張り裂けてしまいそうなのに。
何時の間にか、外では雪が降っている。降り止まぬ白雪がいつまでも暗い夜に溶けていた。
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