第八話 世の中は


「まったく、本当に世話が焼けるよ」
「その、ごめんなさい……」
「まあセキナも大概不器用だけど、大体兄さんが愚図々々といつ迄も……。さっさと覚悟を決めたらよかったのに、気揉みさせられる身にもなってほしい位だ」
「えっ、イズナさん知ってらっしゃったんですか?」
「兄さんがセキナに惚れてた事? 知ってたというか、普通分かるよ」

 少し呆れたように溜め息をつき、イズナが答える。そして、思わず振り返ってしまった私の額を軽く小突いた。前を向いて、と諫める言葉に大人しく鏡台へと向き直り、丁寧につげ櫛を操る義弟の手元を眺める。
 教えられた訳でもないのに綺麗に髪を結い上げていくイズナは、矢張り相当器用である。ただ、世話焼き故に口煩いのが玉に瑕だ。小姑というのは口喧しいと相場が決まっているが、小舅にもそれは当て嵌まるのだろうか。

 内心無礼なことを考えている私を他所に、鬢付け油で髷を整えながら、出来栄えに満足しているのかイズナは幾度か頷いた。ただ、相変わらずその口は絶えず不満を零しているままである。なまじ面倒見がいいものだから、随分と苛立っていたのだろう。他人事ではないとはいえ、思わず苦笑してしまう。

「でも本当にさ、気でも狂ってるのかと思うよね。許婚が家にいて、女遊びなんかする? 前にそう言ったんだよ、そしたらセキナが同じ屋根の下にいて襲わない自信がないからとか。何言ってんだって本気で思ったな」
「え、ええ……?」
「……ごめん、忘れて。流石に下品だった」

 捲し立てる剣幕に気圧されてると、イズナは息を吐く。

「でも、イズナさん。そんなに仰るなら、一言教えてくださればよかったのに」
「俺が? 冗談じゃないよ、そんなの薄ら寒くて流石に嫌だ」
「そうですけれど、……」
「まあ、行動はどうあれ、セキナの事情とかを考えて言い辛かった兄さんの気持ちも分かるんだけどね。――だからこそ、自分で言ってほしかったんだよ」

 一拍の静寂。揺るるかに、その目が細められる。そこでやっと、イズナは優しく微笑んだ。

「セキナ、今幸せ?」

 幼子を見守るようなこの上なく穏やかな目が、滑らかな鏡面に揺れていた。滲むように胸の内に温もりが広がる。少しだけ、面映い。知らぬ間に、鏡面の中の己の顔ははにかむ様に綻んでいた。

「はい、お陰様で」
「そうか、それを聞けて安心したよ」
「そう、ですよね。ごめんなさい、ご心配をお掛けしてしまって」
「いいよ、兄さんもセキナも、俺にとって大切な人だから。二人が幸せになってくれたら、俺も嬉しい」

 その言葉は限りなく優しく、飽く迄慈しみに満ちていた。とくり、と。胸が騒ぐ。ほんの少しだけ、胸の内に細波のようなざわめきが走った気がした。思わず振り返る。虚像ではない彼の顔を仰ぎ見た。

「セキナ、どうしたの?」
「……いえ、何でもありませんわ」
「そう? あっ、仕上げだからちゃんと前向いててよ」

 ――何故だろう、その目が見果てぬ夢を望むように遠くを見ているように思えたのは。その瞳が、余りにも澄み切っていたからなのだろうか。
 一抹の懸念が過ぎったが、すぐさまそれを掻き消した。多分、ただの見間違いなのだろう。そう片付けて、肩の力を抜く。イズナが常と変わらぬ笑顔を浮かべていたから。何となく、触れてはいけない気がしたからだ。
 丁度その時、からりと襖が開く音が響いた。

「まだか? いい加減、飯が冷める」
「マダラ様っ」
「あ、兄さん。ちょうどいい所に」

 よし、終わったよ、と。マダラの声に腰を上げかけたと同時に、イズナが肩に手を置いた。妙な按配で体勢が崩れ、半端な位置にあった腰をそのまま落としてしまう。つられて鏡を見遣ると、思わず感嘆の息が漏れた。

「まあ、本当にイズナさんは器用でいらっしゃいますわ。すごく綺麗に……。本当に、ありがとうございます」
「いいって、この位どうってことないよ。暇があったらまた結ってあげるから」

「――おい、聞こえてんのか?」

 不機嫌そうな声に肩が跳ねる。イズナと揃って振り向くと、戸口に立ったままだったマダラは、いささか苛立たしげに腕を組みこちらを睨め付けていた。イズナが肩を竦める。慌てて立ち上がり、傍へ寄った。
 ――と、先程までは納まっていた腰の倦怠感が蘇り、足が縺れてしまう。躓き、身体がよろめきかける。

「きゃ、」
「危なっかしいな」
「ごめん、なさい……」

 咄嗟に受け止めてくれたマダラをそのまま見上げた。触れてしまいそうな距離だ。間近にある端正な顔に、思わず顔を赤らめてしまう、――場合ではない。

「あっ、イズナさん! その、これはですねっ……!」
「……あー、いいよいいよ。邪魔者はもう任務に行くからそのままどうぞ」
「いえ、ですから! マダラ様も、いい加減離してくださいましっ」
「何だ、随分な言い方だな」
「マダラ様!」

 人の悪い笑みを浮かべ、肩を抱くマダラを押し返す。義弟の生温い視線が痛い。今更な気もしなくはないが、矢張り素面だと恥ずかしい。――今朝も、そうだったのだ。


 私が目覚めたのは、日が昇り巳の刻を回った頃だった。平生より随分と遅い目覚めに頭が重く、それでも慌てて飛び起きたのだ。朝餉も何も用意していない。急いで内所に向かおうと身を起こした時、改めて我が身の状況を思い知らされた。
 まず、服を着ていない。それに此処は自室ではなく、見覚えのない部屋。確かマダラの部屋だ。極め付けは、同じ褥で寄り添うように横たわっている一糸纏わぬ男の姿である。

 幼くさえ見えるその寝顔を認めた時、昨晩の情景がまざまざと思い浮かび、思わず声にならない悲鳴を上げた。

「……セキナ、」
「ま、マダラ様っ! あ、あの、御召し物をっ、――!」
「五月蠅い」

 掠れた声で一蹴すると、腕が引かれ、なし崩しにその胸に押さえ付けられた。直に触れる素肌に頭が眩む。寝起きが悪いのか、マダラは酷く不機嫌そうである。

「は、離してくださいっ。もう日も高うございます」
「どうせ今日は非番だ。お前ももう少し休め」
「そんな訳にはいきませんわ。イズナさんも、きっともう起きて……ひっ、ぁっ!?」

 突として、生温かい舌が首筋を這い、思わず声を上げてしまう。咄嗟に目を瞑り、身を捩った。首筋に顔を埋めたマダラを押し返すように藻掻くと、今度は妖しげな手付きで身体の輪郭をなぞり出す。ぞっとした。何を考えてるんだこの男は。

「やだっ、やめて、くださいっ……」
「嫌? 昨晩はあれ程善がってたのに、どの口が言う?」
「っ、あ……、だ、だめですっ! 離してっ」
「強情だな」

 腕を突っ張り抵抗するも、歴然とした力の差の前にいとも容易く絡め取られる。抱きかかえられていた筈が、いつの間にか組み敷かれていた。嗜虐的な目付きで見つめるマダラは、何故か酷く愉しげである。
 強い眩暈がした。密着した太腿に火照った何かが当たっているのは気のせいではない。先程までは寝起きで不機嫌そうにしていたのに。この差はなんだ。

「いやぁ、っ!」
「何だ、誘っているようにしか見えねぇよ」
「ち、違っ……! やめ、んぁっ!」

 はしたなく上がってしまう声に頭の芯が熱くなる。抵抗しようにも、慣れぬ行為に疲れ切っていたのか未だに身体が重かった。胸を好き勝手に弄んでいた掌が、するするとよからぬ場所へと下がっていく。酷く熱を帯びたマダラの眼差し。射竦める様なその視線に、ぞくぞくと背筋が粟立った。――快楽などでは断じてない、これは純粋な恐怖である。誰が何と言おうと身の危険に対する恐怖なのである。

「考え事とは余裕だな」
「やっ、マダ、ら様、待って……、っ!」

 身体に熱が篭る。けしからぬ空気に絆されそうになった頃。――唐突に、襖が開いた。

「いい加減起きたら? もう昼前なんだけど、――」

「え、イズ、な……さん……? えっ!?や、やだっ、見ないでっ!!」
「イズナ、お前……」
「あのねぇ、兄さん。しつこい男は嫌われるんだよ、知ってた?」

 イズナはそう応えると、私の上に覆い被さっていたマダラを投げ飛ばす勢いで引き離し、そのまま引き摺る様に連れて行った。何事かマダラが喚いていたが、全裸では常の威風などあったものではない。形無しだ。
 その内、彼等の声も聞こえなくなった。後には、寝乱れたまま取り残された私。呆気に取られ、しばし呆然としていた。

 ふと我に返り、昼餉を作らなければと思い立つ。余りに現実的過ぎて、少し笑ってしまった。頭は醒めていた。余りに驚いたものだから、マダラの戯れで火照っていた身体の熱はもう引いている。着物を引き寄せながら、のろのろと体を起こした。
 先までは気が付かなかったが、酷く腰が重い。疼く腰の痛みに、否応無く昨夜の事を思い起こされてしまう。――セキナ、と。愛しげに幾度も紡がれた名前。熱い声が浮かんでは消えた。先程は拒んでしまったが、勿論マダラへの気持ちは変わっていない。矢張り、――好き、なのだ。今まで忍んでいた筈の己の思いを、切ないほどに思い知らされた。結ばれ得ぬ、と捨て置いてきた想いだったのに。

 そこまで考え、恥ずかしいやら何やらで茹る様に顔が熱くなった。慌てて頭を降り、甘ったるい想像を振り払う。身支度を整え、ようやく気怠い腰を上げた。

「セキナ、今入っても大丈夫かな?」
「え、ええ。どうぞ」

 板張りが軋む音と共に、イズナが顔を覗かせる。先程の事もあり、余りの気恥ずかしさに思わず俯いてしまった。何だか、居た堪れない。彼は苦笑しながら肩を竦めた。

「さっきはごめん、流石に余計なお世話だったかな?」
「いえ、こちらこそ見苦しい姿をお見せ致しました……。申し訳ありません」
「謝ることないよ、兄さんのせいだし。そうだった、昼餉は兄さんに頼んでおいたから、セキナは汗を流しておいで」
「そんなっ、いけませんわ。マダラ様もお疲れでしょう?」
「寝起きであれだけ盛ってたから大丈夫だよ。兄さん、ああ見えて俺より料理上手いし。セキナに無理させたのはあの人なんだから、偶にはそれ位してやらないと」
「ですが、」
「ほらほら、湯が冷めない内に。上がったら髪を結ってあげるから」

 あれよあれよと言い包められ、湯殿へと促される。何となく釈然としなかったが、先程の兄弟の遣り取りからイズナに逆らうべきではないと学んだのだ。
 それに、許婚とはいえ初夜の後。イズナが過剰に気を使うことも無く接してくれたのは、とても有り難かった。しかし、考えてみれば、夫婦ならば何ら可笑しな事ではない。今までが歪過ぎたのだろう。マダラの許嫁なのだ、と酷く今更なことを改めて噛み締めた。嬉しいような、くすぐったいような胸の疼き。自分でも呆れてしまうほど、なんだか浮ついてしまっている。

 ――かと言って、あんな風に明るい内から迫られるのは甚だ不本意なのだが。


 その一連の出来事が、今より丁度一刻前。目覚めた頃に昇っていた日はもう真上に輝き、昼時に差し掛かっている。さっさと先に向かってしまったイズナに取り残された私達は、結局並んで歩いている。会話は途切れていた。矢張り、まだ少し面映い。決して嫌な訳では、無いのだけれど。

「……」

 ふと視線を動かし、澄ました面持ちの許婚を見遣る。当たり前だが、もうマダラは服を着ている。先の威厳の無い姿とは打って変わった、平生の余裕に満ちた立ち姿である。

「どうした?」
「あ、いいえ……」

 視線に気付いたのか、眼差しを此方に向ける。慌てて私は目を逸らした。――その顔と向き合うのは、未だに慣れない。見慣れているはずなのに、思わず見蕩れてしまうのだ。

「身体の方は大丈夫か?」
「ええ、お気遣い頂きありがとうございます」
「そうか、……先は悪かったな。無理をさせたこと位は承知してたんだが」

 また意地の悪い事を言われるかと思ったのだが、マダラのその言葉に虚を突かれた。きまりの悪そうに呟かれた言葉に、偽りはないのだろう。そう感じ取れば、知らぬ間に胸が高鳴る。鼓動がうるさい。――嗚呼やはり、

「セキナ?」
「……あっ、いえ。それよりも、こちらこそ申し訳ありません。昼餉の準備をお任せしてしまって」
「気にするな、割烹くらいは俺も慣れている」
「まあ、そうでしたの? 少し、意外です」

思わずそう応えると、マダラは口の端を緩めた。

「昔からイズナの面倒を見ていたからな。簡単なもんだが」
「そういえば、イズナさんもお上手だと仰っていましたわ。マダラ様の御料理、始めて頂きますもの。とても楽しみです」
「そんな大した物でもないぞ、……お前の口に合うかは分からん」
「あら、ご謙遜ですわ。ふふ、珍しいですね」
「うるさい、お前は一言余計だ」

 その一言に、こっそりと頬を緩ませる。拗ねた物言いが何処か可愛らしいなんて、それは私だけの秘密である。きっと、言えば当のマダラは怒ってしまうのだろうから。


 話している内に部屋に着き、いつものようにイズナの隣へと座る。――玄米飯に味噌汁、菜っ葉と油揚げの煮浸しに、あれは芹の胡麻和えだろうか。膳には、質素ながらも美味しそうな品が並んでいた。いい香りだ。朝餉を抜いてしまったものだから、気がつけば腹が減っている。とは言うものの、私が頂くのは二人が食べ終わってからなのだから、兎に角はお茶でもを飲んで誤魔化していよう。
 つらつらとそんな事を考えていると、不機嫌そうに腕組みをしたマダラが目に止まった。向かいに座る彼は、何故か明らかに不服そうである。どうしたのだろう、さっきまであれ程機嫌が良さそうだったのに。見咎めたイズナが肩を竦めた。

「どうしたの? そんなに睨んで」
「……別に、何でも無い」
「ん、嗚呼分かった。でも俺は嫌だよ、代わってほしいなら自分で言って」
「だから、何でもねぇって言ってるだろう」

 二人の遣り取りに小首を傾げる。目が合ったイズナは何故か苦笑を浮かべた。

「お二人とも、どうなされましたの? あっ、今お茶をお淹れいたしますね」
「セキナ」
「はい?」

 部屋には茶道具一式がなかったものだから、それを取りに行こうと腰を浮かしたところをマダラの声で呼び止められる。中腰で留まっていると、座れと促された。

「どうなさいました?」
「腹が減ってるだろう。先に食べるといい」
「あら、お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫ですわ。どうぞお二人とも召し上がっていて、」

 ぐぅ、という音が声を遮る。――言うまでもない、腹の虫の声である。思わず身体が固まった。一拍遅れて顔に熱が溜まっていく。耐え切れずに噴出したイズナが、盛大に肩を震わせた。

「あの、これはっ……! イ、イズナさん、そんなに笑わないでくださいましっ」
「ごめんごめん。笑ってない笑ってないよ、うん」
「どう見ても笑ってらっしゃるじゃありませんか! マダラ様も、ほらっ」
「……いや、気のせいだ」
「お二人とも、もうっ」
「分かったよ、ごめんって。でもほら、お腹空いてるんだからさ、折角だからセキナも一緒に食べよう?」

 その言葉に困ったように眉を下げる。再度イズナに言われてきた事ではあったのだが、今までは嫁入りという手前何となく気が引けていたのだ。それに、あの頃はまだマダラと食事をするなど居辛い他なかったのだ。今となっては勿論そうではあるまいが、やはり――。
 ぐずぐずと思いあぐねていると、当のマダラが溜め息を零した。

「前から気になってたんだが、気遣って下女のように働かなくていい。俺達はお前を家族として見ている。それに、伴侶を下働きのように使う趣味は無いからな」
「マダラ様、……」
「そういう事。兄さんもこう言ってるんだし、いいじゃないか」
「そう、ですね。ありがとうございます」

 御相伴に預からせて頂きます、そう付け加えながら席に着いた。味噌汁の香りが胃を擽る。誰かと一緒に食事を頂くなんて何年振りだろうか。なんだか、嬉しい。誰かが作り、誰かと頂く食膳というのは無性に美味しく感じるものだ。

 そういえば、遠い昔にもこうやって皆で囲んで食事をしていた事があったように思う。不意に、透明だった記憶が甦った。胸の奥に仕舞い込んで忘れてしまっていた過去だ。そうだ、母は料理の上手い人だった。幼い頃、父が生きていた昔の、穏やかで幸せだった頃は素朴な料理もよく作ってくれたものだ。とても、美味しかった。長じるにつれて、それも忘れていってしまっていたけれど。今は遠い、薄絹のような淡い過去。
 少し目を細めていると、優しげにイズナがこう言った。

「いいね、こういうの」
「ええ、何だか懐かしいです」
「……何だ、二人して。まるで砂利だな」
「そういう兄さんだって嬉しいくせに、顔が笑ってるよ」

 イズナにつられるように笑えば、マダラは呆れたように溜め息を吐く。

「お前も一々余計な事を……。そんなことより、さっさと食えよ。冷めるだろ」
「はいはい。いただきます」
「いただきます」

 丁寧に手を合わせ、箸を取る。イズナは微笑み、マダラは穏やかに目を細めている。私も思わず、頬を綻ばせた。



「ご馳走様でした、とても美味しかったですわ」
「そうか? 別段大したこともなかっただろ」
「いいえ、とんでもない。また是非頂きたいですもの」

 一折り食べ終わり、イズナが任務に出かけてからは、二人で茶を飲んでいる。言葉通りにマダラの料理はどれも美味しく、つい食べ過ぎてしまった所為もある。漫然と過ごす昼下がりが心地良い。
 ふと、障子の隙間から明るい外に目を細めた。日の光が満ち、目蓋の裏を擽られているかのようだ。まばたきを繰り返す。半端に開けた障子から流れてくるまどかな風は、すぐ傍に控えている春を予感させた。ひそやかだった。陽の光さえも微睡んでいるようなとても穏やかな日だ。

「外がどうかしたのか?」
「え、いえ……」

 茫洋と障子の外を眺めていると、そうマダラが問い掛ける。とっさに戻した視線を、もう一度外へと向けた。屋敷の庭には桜の木が何本も植えてある。卯月に入れば、きっと満開の桜で一面が染まるのだろう。

「春になるのが、楽しみだと思って」
「嗚呼、桜か。春だけは庭も華やぐからな」
「お庭には沢山植えてありますけれど、桜がお好きなのですか?」
「昔から植わってるだけだ。別に好きでも嫌いでもないな」

 マダラらしい答えだ、そう思って少し微笑む。ゆっくりと残っていたお茶を飲み干した。

「私は好きですわ、ようやく春になった心地がしますもの」
「そうだな、……」

ふわり、と吹き込んだ風が髪を攫う。マダラがほんの少し、目を細めた。

「――桜が咲けば、祝言を挙げるか」
「え?」

 思わず間の抜けた声を上げる。余りに自然で、余りに何気ない口調であったから。聞き間違いだと思ってしまった所為である。

「祝言、ですか」
「……何だ、今更嫌って言うんじゃないだろうな」
「そんな、違いますわ。ですが、随分と唐突で、少し驚いてしまって」

 余りの唐突さに些か狼狽えてしまう。流石に打付けではないか。言い出したマダラを見返すと、何故か目を逸らしていた。どうしたのだろう。

「切り出す時期を計ってただけだ、いずれ言おうと思っていた」
「あら、昼餉を頂いてすぐに仰います?」
「どうでもいいだろ。俺の気分だ」
「まあ」

 思わず笑ってしまう。彼の頬が、ほんの少し赤らんで見えたからだ。イズナの言っていた通り、マダラは相当に不器用なのだろう。それが、とても愛おしいと思う。一頻りくすくすと笑っていたら、終いには睨まれてしまった。それでも矢張り、頬は綻んだままでいて。嗚呼――、何だかとても浮ついている。
 今までは許婚という関係だけが浮き彫りに成っていて、それから先を思い描くことは出来なかった。想像が付かなかった所為もあるのだろう。諾々と伴侶になり、子を成し、生涯を終えるのだと漠然と感じていただけだ。指先でなぞるように、マダラの隣に立つ自分を思い描いてみた。私が、彼の妻になる。いつかは子を成し、一生を共にする。
 ――何処かで春告げ鳥が鳴いている。本当に、春はすぐそこなのだ。

「春になるのが、とても楽しみですわ」

 家族として生きる、とその明日を仰ぐように夢見ていた。

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