第九話 忘れじの


 私の手を、大きな掌がしっかりと握ってくれている。もう境界は曖昧だ。暫く重ね合っているものだから、くすぐったい程に体温が蕩けあっている。
 何とはなしに、少しだけ力を込めてみた。骨ばった、のびやかな指先。色付くようにひっそりと輪郭が明瞭になっていく。

「どうした?」
「いいえ」
「そんなに固くなるな、俺が付いてるだろう」

 不満なのか、と若干不機嫌そうな口振りに首を振る。被っている綿帽子が緩く揺れた。揺蕩う白い影。綿帽子から覗く世間は、いつもよりも狭く見える。薄絹の影に遮られて、前を見据えているのに目隠しをされている気分がした。
 隣にいるマダラの顔を、ゆっくりと振り仰ぐ。平生の忍装束とは違い、羽織り袴の正装で自分を見下ろす許婚は、息を呑むほど誇り高い。生来の顔の造りからして眉目秀麗なのであるから余計なのだが、気圧されてしまいそうな堂々たる艶に満ちている。

「綺麗……」
「ん?」
「綺麗です、マダラ様」

 思わずそう呟くと、マダラは怪訝そうに眉を顰めた。

「男に言う台詞か? それに、俺が言うべき言葉を取るな」
「けれど、本当なんですもの」
「随分と男振りのいい嫁だ」

 呆れたようにマダラは応えると、その指先で綿帽子を持ち上げる。突として近づく端正な顔に思わず目を瞑った。

「紅が口についてしまいますわ」
「生意気な小娘によると、俺は男のくせに綺麗らしいからな。似合いだろう」
「あらあら」

 混ぜ返す軽やかな口調に、ゆるく頬が綻んだ。緊張している私を気遣ってくれているのだとは、容易に気が付く事。
 何故だか、一層胸が詰まった。嗚咽が零れそうになってしまう。纏う花嫁衣裳の所為でもあるのだろうか、平素より感傷的になっているようだ。

「セキナ」

 顔を上げろ、と囁かれ、何時の間にか伏せてしまっていた面を上げる。夜五つ。日も暮れかけ、ほの暗い視界に揺らめく彼の瞳は、狂おしい程に優しくそして深い。吸い込まれそうな黒々とした双眸に、ただ私の顔だけが映りこんでいる。
 茫然と――、見蕩れた。余りに現実味に乏しかった所為である。

 しゃなり、と。見入られた私の鼓膜を羽音のような金属のささめきが擽る。我に返ってマダラの手元に目を遣ると、淡く煌めく彫金細工の簪が握られていた。

「それは?」
「特別に誂えた物だ、セキナによく似合うと思ってな」

 こういった婚礼の場面では、櫛を贈るのが一般的だろう。私もそう了解していたが、マダラによるとうちは一族では家紋を施した簪を贈るのが通例らしい。それも、普通の簪ではなく、金属製で足の部分が仕込み刀になった暗器を、である。物騒な話だが、忍という立場上護身の意味を持っている、と聞けば得心がいく。万一敵に捕らわれたりなどあれば、これで自決せよ、とも意味が込められているのだとか。
 とはいえ、簪はもう何本も贈ってもらっている。だのに、わざわざ手配してくれたのか、と思うといささか申し訳ない。

「そんな、気を遣ってくださらなくても」
「そう言うな。うちはの頭領ともあろう者が、妻に簪一つ贈ってやれん、じゃあ示しがつかないだろ」
「もう過ぎるほど頂いておりますわ」

 マダラの指先が頬に触れ、結い上げた髪にその簪が挿し込まれる。しゃん、と透き通った音が響く。銀細工の花飾りの先に、糸のように細い鎖で繋がれた紅い珊瑚玉が揺れている。二本のそれが触れるたび、さらさらと音が零れるのだ。然りとて、不快になるような音ではない。恥らう様に優しげで慎み深い。よく耳を澄まさないと気が付かないような、とてもささやかな囁きに似ていた。

「綺麗だ、とても」

 その言葉に、何故か胸が切なくなる程哀しくなった。返す言葉が喉元につかえ、思わず私は目を伏せる。
 無性に心細かった。抱き縋り、その胸に顔を埋めてしまいたい。睦事の時の様に甘えてしまいたい。――しようと願えば、容易に出来た事だろう。私とマダラは、今日というこの日に晴れて妹背になるのだから。
 それでも、何故か身体は凍り付いた様に動かなかった。ただ、曖昧に微笑みを浮かべ、上の空で礼を返す。

 その時、イズナの声が聞こえた。振り返る、綿帽子の影が揺らぐ。マダラと同じように正装した義弟が、襖を開けてその顔を覗かせた。

「兄さん、そろそろ」
「嗚呼分かっている。イズナ、セキナの介添えを頼むぞ」
「任せて。さあ、早く」

 マダラとイズナが二言三言交し合う。マダラが去った後は、イズナが何やかやと世話を焼いてくれていた。春の宵は深まり、夜は静々と更けていく。
 今頃では、マダラは一族の者達の前で何事かを話しているのだろう。耳を澄ます。勿論声など聞こえは聞こえはしまいが、代わりに先程挿された簪が揺れる音が鼓膜を震わせた。しゃらしゃら、と。忍故に耳聡いイズナは、その音に気が付いたのだろうか。簪を見咎め、良く似合っていると褒めてくれる。何だか無性に可笑しくなって、ほんの少しだけ笑ってしまった。

「どうしたの、セキナ?」
「いえ、何でもありませんわ」
「そう? うん、そろそろ行こうか。立てる?」
「はい」

 イズナに手を引かれ、祝言の座が設けられている部屋へと向かう。見慣れている筈の屋敷で、何度も通っている筈の廊下は、何故か見覚えのない程変わって見えた。研ぎ忘れた鏡に映る鏡像のように、輪郭が暈けて見える。
 ――世間が、区切られているからなのだろうか。茫洋とそんなことばかりを考えている脳髄に反して、するすると身体は滑り、視界は移ろう。ようよう屋敷の中でも一番大きな座敷の前に着き、イズナが襖へと手を掛けた。
 からり、と厳かに襖が開く。振り返る幾多の顔。昂揚した場の熱気。揺らぐざわめき。俯いていた眼差しを上げると、上座に座るマダラと目が合った。刹那、胸が張り裂けそうな程に鼓動が高鳴る。握るイズナの手に、少しだけ力を加えてしまった。イズナが振り返る。――大丈夫だよ、唇だけでそう紡ぐと誘うように手が引かれた。

「今日からは、うちはセキナだ」

 床の間に掛けられた高砂の尉と姥の掛け軸。鶴亀の置物を飾った島台。静々と歩み、マダラの隣へと座った。うちはの頭領の、伴侶となる座だ。瞬きの間。どっと場が沸いた。
 ――美男美女の似合いだ、と。器量骨柄並々ならぬ、我が頭領様に相応しい。比翼連理の縁にて結ばれし良縁だ。めでたや目出度や。
 誰かが言う、誰かが騒ぐ。囃す声、――罵声か嘲りか。いや、あれは祝いの歓声だったのだろう。世間の狭まった私には、どの顔も同じに見えた。薄絹越しの声達は、どれも同じに聞こえた。

 祝詞を上げる仰々しい声。盃事。騒ぎ立てる有象無象。酒気。熱気。賑々しき無礼講。産めよ殖やせよ、誰かが嘲る。煽る声。
 酒宴は恙無く続いていた。隣に座っていたマダラは、一族の者に乞われ今は遠くで誰かと膝を突き合わせて呑んでいる。細々と世話を焼いてくれていたイズナも、何処かで杯を干しているのだろう。私ばかりが馬鹿のように独りで座り、何をするでもなく押し黙っている。
 居た堪れなかった。婿のいない花嫁姿など、滑稽より他無いだろう。
 流石に何事か手伝った方がいいのか、と視線を座敷に巡らせる。知らぬ顔ばかりに、嘯く言葉。心細い。しゃらり、と。顔を動かす度に簪の囁きが鼓膜を擽った。

 不意に。風に、当たりたくなった。

 すでに千秋楽を迎えつつある宴の席を抜け出し、開け放たれた襖から夜気を吸う。耳に残っていた高砂の謡が、ようやく解けていった。咎められるかとも思ったが、既に彼等は花嫁などには気にも留めていなかったのだろう。誰にも声を掛けられることも無く、難なく抜け出せた。

「御方様、如何されました」
「ごめんなさい、もう着替えてしまいたいので手伝ってくださるかしら」
「もう着替えられるのですか、勿体無い」
「少し、疲れてしまって」

 適当に下女の言葉をかわし、愛想笑いだけで遣り過ごす。馴染みの者ではなく、婚儀の手伝いで入れただけの娘達だから、面識は殆ど無い。やはりどの顔も同じに見える。
 くらり、と眩暈がした。杯を交わした所為だろう、慣れぬ酒に頭が重かった。ずきずきと頭の芯が疼いている。早く、部屋で休んでしまいたい。控えていた下女達に花嫁衣裳の片づけを任せ、湯殿で湯を浴びる。早々に寝間着に着替え、自室で休むことにした。
 ――マダラの寝室には初夜らしく二対の布団が並べられてでもいるのだろうが。今更だ、それに今日は酷く疲れている。

「御衣裳の片付けが済みました」
「ご苦労様です、今日はもう休んで頂いて結構ですよ」
「承知致しました。嗚呼そうでした、先程マダラ様がお探しでしたよ」
「そう、ですか……。また後で伺いますわ。今日は遅くまでありがとうございました。夜も更けていますから、どうかお気をつけて」

 告げに来た下女に微笑みかけ、早々に追い返す。襖が閉まれば、辺りは静寂に満ちた。まだ宴は続いているのだろうが、この部屋からは離れているから声も聞こえない。静かなものである。春の宵に溶けたささめきも、夜が飲み込んでしまったのだろうか。本当に、静かな夜だった。

 開け放った障子からは庭が見える。今夜は満月らしく、亥の刻も廻ろうという時刻であっても外は明るかった。庭の桜がよく見える。障子にもたれる様に身体を預け、しばし朧に浮かぶ桜達を眺めていた。
 見渡す限りの桜雲である。風も無いのに花弁は散り、はらりはらりと地に落ちる。一片ふたひら。耳を澄ませば、淡い花片が大地にその身を横たえる音が聞こえた気がした。
 ほの暗い薄紅色は墨色の空に蕩け、茫と夜風を染めている。桜色の風は、やわらかに甘い。薄絹のような微風が頬を撫でる。幽かな花の芳香が鼻を擽った。少し、くすぐったい。くう、と。指の皮膚が引き攣り、力が篭る。

「天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう」

 思わず笑った。しゃらり、と。簪のささめきが、やけに大きく聞こえた。湯浴みで髪は下ろしてしまったから、もう簪は挿していない。なんとはなしに、ただ弄んでいたのだ。
 改めて見てみれば、菊や桜などではなく、飾り気の無い六片の花が施された変わった意匠である。見覚えはあるが、何の花かは思い出せない。マダラの好きな花なのだろうか、などと思う。
 簪は金と銀が折り重なる様に細工されており、光の加減によって繊細にその色を変えた。――善き品だ、さぞかし値の張るものだろう。月影に翳す様に頭上に掲げ、目を細める。さらさらと零れる澄んだ音。

「セキナ、ここにいたのか」

 探したぞ、という声と共に腕を引かれ胸板へと押し付けられる。しゃらん、と簪が啼く。マダラ様、と咎めるよう紡いだ声は半端に途切れ、前触れもなく深く口付けされた。舌を絡め取られ、息が切れるまで幾度と吸われる。立ち昇るように香る酒気に眉を寄せた。

「酔っていらっしゃいますね」
「ヒカク達がしつこくてな……」

 珍しく酔いが廻っているらしいマダラは、首筋に顔を埋めそんなことを嘯いている。

「いけませんわ、他の方の所為になさっては」
「俺の所為ではないだろう、これでも早目に抜けたほうだ」
「そんなに酔ってらっしゃるのに、よく言います」
「酔ってはいない。それに……、本当はもっと早くにお前を可愛がってやりたかったんだがな」
「もう、っん……」

 好き勝手に首筋やら耳朶やらを食んでいるマダラの言葉は、紛うこと無き酔漢のそれである。絡み酒なのか。まだ羽織り袴を着たままなのに、このままではいけない。湯浴みもまだなのだろう。軽く頭を叩き、肩を押し返した。

「お水を取って参りますわ、離してくださいまし」
「いい、傍にいろ」
「――そんな、子どもみたいなこと仰らないで」

 思わず語気に力が入り、はっと口を噤む。マダラが顔を上げた。胸がざわつく。強張る肩。その黒々とした瞳に覗き込まれる前に、思わず顔を背けてしまう。

「セキナ」
「……ごめんなさい、少し疲れているようです。今日はもう休みますわ」
「セキナ、こっちを向け」
「あっ……! お願い、離してっ」

 顎を捕らえられ、いささか乱暴に向き合わされる。射抜くようなマダラの眼光。それでも目を合わせる事を躊躇してしまう。――嗚呼見ないで。お願い、見ないで。

「癇に障る顔だ」

手荒く押し倒され、藻掻く四肢を縫い付けられる。握っていた簪が指から離れ、音を立てて転がった。がちゃん、心臓を打つ音。マダラが眉根を寄せる。
 酷く歪んだ顔をしているのだとは分かっていた。込み上げる嗚咽を押し殺し、それでも平静を保とうと堪えた顔はきっと醜い。
 泣き面などは晴れの日に相応しからぬ。咲かぬ花などここにはいらぬ。弱き嫁など、うちはにいらぬ。笑わなければ、と心の内では分かっていても頬は引き攣り、唇は震えた。涙の薄膜で視界が揺らぐ。

「醜いぞ、そんな無理に作った顔」
「っ、……」
「お前らしくも無い、どうしたんだ?」
「マダラ、様」

 語調は厳しいが、その声は酷く優しい。頬に触れる指先は壊れ物を包む様。はらり、と零れた雫を啜るようにその唇が啄ばんだ。息苦しいほど胸が詰まる。抱き縋りたい、その胸に甘えてしまいたい。切ない程に、愛おしいのに。
 ――それでも、やはり。脳裏で囁きかける不安に怖気づいてしまう。首を振り、ただ震える手を大きな彼の手に重ね合わせる。マダラは何も言わなかった。その唇は私が何事かを語るのを待っているようだった。

「本当に、私でよかったのですか」
「婚礼の事か?」
「はい」

 艶やかな双眸に覗き込まれ、押し殺していた感情が解けていく。いつもそうなのだ、彼の前では決して平静を保てない。心が乱される。湧き出るように次から次へと、言葉だけが溢れ出した。

「私には、もう何もありません。あなたに差し上げられるものなんて、何も無いんですもの。この先、マダラ様に縋ってしか生きていけない。きっと重荷にしかならないわ。だから……。本当に、これでよかったのかしら、って」
「馬鹿か」
「ですが、……痛、っ」

 弾くように額を小突かれ、思わず目を瞑る。さらり、と柔らかな髪が頬を擽った。秘めやかな熱が目蓋に触れる。

「何を不安がっているかと思えば……。下らねえ」
「いたっ、痛いですっ!」
「何だ、随分と威勢がいいな」

 優しく唇を落とされたかと思えば、強く頬を摘まれ涙が重なる。当のマダラは、餅でも捏ねているかのように私の頬を引っ張っている。挙句、――不細工だな、と酷く心外なことを言ってのけた。誰の所為だ。むっ、と睨み付ければ、マダラは悪びれもせず目を細める。頬は以前弄ばれたままである。

「俺がどう思っているか、今からでも分からせてやってもいいが」
「い、いえ……。それは、結構です」
「まあ、冗談はさておき」

 巫山戯ていたらしい態度を改め、そっと身体を抱き起こされる。丁寧に髪を梳かれ、愛おしむように口付けを施された。戯れとは異なる深く静謐な眼差し。春の宵は閑寂にして、淡いうたかたのように儚い。夢心地の世界の中で、その瞳だけが揺るぎなく確かな光を湛えているのだ。
 その灯りに見入られる。ただ只管に、響く彼の声だけに耳を傾けた。

「覚えてるだろう、お前が生きる意味を失ったと泣き縋った時の事を」
「は、い」
「俺は二度も同じ事を言わんぞ。セキナ、よく聞いておけ」

 一呼吸の間。夜のささめきすら聴こえない。目に映るのも、耳を擽るのも、肌が感じるのも、ただ鮮やかなる彼一人。マダラだけが、全てだった。

「お前は俺の為に生きろ。――その目も、声も、髪も、何もかも俺の物だ」
「っ、」
「お前の命は、決して誰にも渡すつもりは無い。勿論、セキナお前自身にもだ。勝手に死ぬ事も許さん。生涯、俺だけの為に生きると誓え」
「……随分と、横暴ですこと」
「相変わらず口が減らねえな」

 鼻先で笑い飛ばされ、弄ぶように髪が梳かれる。しゃん、と細い銀の漣が耳元で囀った。少し面を傾ける。いい加減に転がっていた簪を拾い上げたマダラが、耳に掛けるように挿したのだ。

「とはいえ、少しは信用しろよ」
「疑っている訳ではありませんわ。ただ、少し不安になってしまって」
「お前は心配が過ぎる。俺が見初めたのだから、堂々と踊ってみせろ。大体、女共が口喧しく水を指すなら、すぐに言えと言ってるだろ」
「いえ、それはもう大丈夫なのですが……」

 マダラが言うのは、彼との婚礼を良しと思っていなかった一族の女達の事である。確かに以前は派手に詰られもしたが、マダラが直接釘を刺したあの一件以来、表立っては何も言われてはいない。依然歓迎されてはいないのだろうが、いくらマダラを思うが故とはいえ、言い付けに背く事自体が頭領その人に楯突く事になるのだからそんな愚かな真似はせぬのだろう。
 ――今日だって、そうだったのだ。誰にも咎められてはいない、責められてはいない。ただ、私が弱かっただけ。己の内に不安が凝れば、祝いの言の葉は呪詛になり、言祝ぎは呪言に聴こえてしまう。不安なのだ、とただそれだけを伝えてしまえばすんだのに。

 そっとマダラの胸に頭を委ね、甘えるようにその背中へと手を回す。――あたたかい。この温もりさえあれば、私はきっと生きていける。この為だけに、生きていける。そう強く思った。

「不安だったんです」
「嗚呼」
「きっと……、とても幸せ、だから。幸せ過ぎて、不安になってしまったんですわ」

 ぽつりぽつりと呟けば、マダラは苦笑気味に溜め息を吐く。髪を梳いていた指はいつの間にか宥めるように私の頭を撫でていた。

「まったく、面倒な女だな」
「……ごめんなさい」
「お前でなければ、とうに捨て置いていた」

 そう呟くマダラの声は、飽く迄優しさに満ちており限りない慈しみが込められている。深く息を吸い込んだ。そっと簪に触れ、抱き締めるように胸元に押さえつける。しゃらり、と戦慄くような銀のひひらき。
 涙の匂いがした。しっとりと冷ややかな金属は、膚を透かし深奥まで浸る温度を持っている。頬を伝う泪の温度と、それが似ていた。
 溜め息を吐いた。肺が水浸しになってしまったかのように息苦しい。

「愛しています、マダラ様」

 誰よりも、ただそれだけを呟く事が精一杯だった。声を遮るように、唇に熱が触れる。――愛している、とマダラの溜め息。幾度も唇を濡らす体温に、狂おしく胸が疼いた。溜まらなくなって、回した腕に力を込めた。指先からゆるやかに熱が伝わる。身体の隅々まで、哀しい程のぬくもりが巡っていた。
 私はそっと溜め息を吐く。涙の様に湧き上がる途方も無い愛しさで、胸が張り裂けそうだった。
 ただ只管に、幸せだった。

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