一 或る女の述懐

顔の、左半分が疼いている。
そうっと指先で頬の輪郭をなぞれば、尋常な皮膚のそれではない感触。少しでも動かせば引き攣るように強張りが奔る。眉を顰めた。いつまで経っても、この感覚には未だ慣れなかった。四六時中纏わり付いているというのに、如何にもいけない。据わりが悪いのだ。
首を僅かに逸らし、座敷の片隅に置かれた鏡を見遣る。研ぎ忘れて曇ってしまった鏡面には、右半分の横顔がけぶるように浮かんでいる。そっと顔を傾ければ、虚空を睨む濁った目玉と目が合った。

――どうすれば、よかったと。

自然そんな恨み言が湧き上る。此方から結婚してくれなどと頭を下げた訳ではなかった。確かに見苦しくはあったと思う。戦乱は収まり、世の中は平穏になったが故に年増を過ぎた自分は殊更目立っていただろう。この時代、結婚せずに一生を終える女人はまだまだ少ない。
世間が物騒である頃は、まだそれでも良かった。私も前線で戦う一人、長引く一族の抗争に生涯を掛けているのだという大義名分があったからだ。女で戦場に立つ者が多い訳ではないが、ほぼ総力戦の泥沼ではどんな戦力でも貴重となる。それに、私には実力もあったのだから。この顔を曝け出しても疼きはしなかったし、寧ろ戦場に出る女として少々箔も付くだろうとも思えた。

それが、今ではどうだろう。うちはと協定を結び、一族を越えて里という中で生きていくようになった昨今、女子どもが戦場へ赴く機会も少なくなった。平和な、良き時代である。そうなれば、どんな女でも、為す事といえば次代を健やかに育み、家を守ることに重きを置かれる。独り身でいる風当たりは一層強くなっていた。
――だからといって、誰かと添い遂げたいなどとも夢にも思っていなかったのだ。結婚に興味は無かった。故に、一度も頭を下げたことも無かったのだし、まして思ってもいなかったのだが。何を今更、そんな気持ちしか抱かなかった。それなのに、

なんて図々しい、あの面体で――。
あの方も奇特な方だ、何を好き好んであのような輩を娶るものか――。
ああ見えて兄上に似て慈悲深い方なのだ。あの女、そこに付け込んでまで婿が欲しかったか――。
嗚呼浅ましい、浅ましい――。

くすくすと、けらけらと。誰も彼もが嘲った。鼓膜に凍り付つくは蔑む罵声。引き攣る頬を強く押せば、皹が入るような脆い感覚。
――何も知らない癖に。私はあのままで良かったのだ。ただ独りきりで、感情の起伏も少なく揺蕩うように平らかに生きていければそれで良かった。それを望んでいた。だが、それすらも否定されたのならば。一体、如何すればよかったというのだろう。

「露木、入るぞ」

良く通る声が障子越しに響き、ふと我に帰る。ほぼ無意識に印を結び、瞬きの間に術を掛け終えていた。はい、と返事をする前に雨に浸った青褪めた夜気が頬を撫でる。視界の端に白い踝が映った。

「こんな夜更けまで、術の開発でも?」
「嗚呼、夜の方が静かで捗る」
「あまり根を詰めてはいけませんよ、扉間様」

布団の上に腰を下ろした夫にそう告げる。応、と応える扉間は音を拾ったから反応しただけで、恐らく言葉の意味は解してないだろう。ぼうと遠くを眺めるような儚い色を瞳に滲ませ、僅かに目を細めている。少し、疲れているようだ。ゆっくりと息を吐くその顔の輪郭を視線でなぞった。
色の白い顔だ。滑らかに緻密に、薄く透けているような細やかな白磁の肌である。それは網膜に刺さるような痛々しいまでの吹雪の白。この人は、幼い頃と変わりないままだ。昔から彼はそうだった、女の様に色が白くて――。
いや寧ろ、その濁りない白は。死人のような。
横顔を向けていたその胡粉の面が不意に此方を向いたものだから、思わず息を詰まらせた。

「なんだ、何を惚けている」
「いえ、何も」

そろりと下ろした目蓋を透かすような視線を感じる。扉間の、沈黙した視線が頬を這っている。粟立つ様に背筋が凍てついた。冷えた掌で心の臓を鷲掴みにされる感覚。咄嗟に爪を立てそうになった指を必死に堪えた。伏し目がちに扉間の目を見返し、愛想無く言葉を紡ぐ。

「……何か」
「相変わらず、お前は美しいな」

――ずぐり。
爛れた皮膚に針を刺すが如き痛みに、思わず眉根に皺が寄る。嗚呼まただ。目蓋が引き攣れる、据わりの悪い感覚がじわりと頬まで沁みてゆく。ずくずく、と。また古傷が呻いている。

私は顔の左半分が、目蓋から頬まで醜い痘痕で覆われている。数年前に疱瘡を患い、病み着いた折に負ったものだ。何日も病み付き、彼岸と此岸の岸を行きつ戻りつ彷徨っているうち、漸く目が覚めると相貌が変わってしまっていた。目を背けたくなるほど、私の顔は崩れていたのだ。
親兄弟はとうに他界していたのが、せめてもの救いだったかもしれない。とても、見せられたものではないのだ。命があるのだから感謝すべきだが、いっそあの時死ねばよかった、と。そう思わずにはいられない、幽鬼のように恐ろしげな酷い傷跡である。

普段は障りがある為、人前に出る折には変化で瑕疵を隠している。勿論、夫である扉間の前でも同様だ。独り身でいる時は素顔を曝け出してはいたが、流石に人の妻となっては示しが付かないからだった。思えば、扉間が最後に私の顔を見たのは去年の冬の事だろうか。
とはいえ、隠しているとはいえ当然夫は知っているのだ。この、二目と見れぬ崩れた醜い顔を。――不愉快だ。思わず鼻で笑った。当てつけのようにしか思えない。

「よくも年増の醜女にそんな事を。嫌味にしか聞こえませんよ」
「……自ら娶った嫁御に嫌味をかけるほど、俺も酔狂ではないわ」

顔を顰め、扉間がそう呟く。その声色からは、確かに本心は読め取れない。僅かに目を逸らし、私は抑揚無く呟いた。

「娶る時点で酔狂でしょうに」
「可愛げの無い奴よ。娘の頃はそうでもなかっただろう」
「忘れてしまいましたよ、そんな昔の事」

扉間に背を向け、そのまま蒲団へと身を委ねる。薄く柔らかな闇が次第にとろりと羊羹のように濃くなっていく。深い眠りの底に落ちていくようだ。濁りのない夜色が指先から忍び寄り、皮膚を伝い奥深くまで染めていった。扉間も特に何を言うでもなく、衣擦れと音と共に横になる気配。夫婦でありながら素っ気の無いものであるが、私達はいつもこうだ。ただ同じ屋敷に住み、同じ空気を喰らって生きている。睦み合う事などはありはしない。

当の彼が如何であるかは知らないが、私は扉間を嫌っている訳ではないのだ。感謝している。嫁の引き取り手が無い天涯孤独に手を差し伸べてくれたのは、他でもない扉間その人だけであったのだから。
族長の実弟であり文武ともに比類無いとも噂される彼には、相応しい女など数多居たはずだった。事実、扉間を慕う者は吐いて捨てるほどにいた。それをこんな女に手を出して、勿体無い事だと心底思う。嫌っているなどではなく、ただただ気の毒なのだ。
世継ぎを残す気も扉間には毛頭無かったのだろう。仲睦まじい義兄夫婦は子宝に恵まれたから、千手の血を残す役目は終わったと思っていたのかもしれない。それが故の諦観か、哀れみか蔑みか。存外彼も愛情深い質であるので、幼い頃からの馴染みを放っておかなかっただけだろうか。今となってもそれは分からずにいる。

だからか、扉間に見詰められる度に。私の半身は酷く痛む。此処にいてはならないのだと、己の犯した罪を恥じ入らずにはいられない。
私は、許されない事をした。浅ましい罪を、犯してしまった。
それなのに、彼は酷く、優しいから――。

「よく、眠れ」

朧げに籠もった静かな声を、夢現で聞いていた。扉間の手が私を優しくあやしている。頑是無い幼子を愛しむように、夜具越しに肩を叩いていた。底無し沼のように心地良く愛しげなその声に、軋むほど背筋が凍る。扉間はいつも優しい。それが私には酷くおそろしい。堪らなく、こわいのだ。

瑕一つない半分の澄まし顔の、かさついた目蓋がひくりと震えた。左の頬が、皹割れるように疼いていた。