二 或る女の表白
青褪めた天蓋が途方も無く高い。冬の空らしい透徹した帳には、雲一つ浮かんでいなかった。見事なまでの快晴である。ここの所しばらくは厚い雲ばかりの曇天であったから、久方振りの青に眩暈がしそうだった。触れれば指先から滴り落ちてきそうなほどの、瑞々しく密度の濃い蒼である。取り立てて明瞭で清々しいものを好む訳ではないが、心の臓まで染み入るような厳冬の青は殊更美しいと感じてしまう。同じ蒼穹でも盛夏の空は明る過ぎていけない。春は霞みがかって呆けてしまっている事が多く、秋は余りに清らげであり鮮やかだ。冬の蒼が湿気や温度なども削ぎ落として純粋であり、最も潔い。冴え冴えと澄み切った空気が立ち込めている。縹渺たる高天ヶ原。
晴れ渡った空の所為か、今日は久々に具合も良い。曇天であれば古傷も疼くが、ここの所は酷かった。二日前に夫が任務先に行く頃は風邪を拗らせてしまい、病床からその背中を見送った程だった。それから徐々に顔の火照りも冷えてゆき、今朝はもう随分と良いようだ。
「奥様、お出かけですか」
「ええ少し外へ。昼前にはきっと戻るわ」
氷梅が描かれた深縹の着物を着付け、ねじり梅が染め抜かれた銀鼠の羽織を纏っている。誰とも会う約束はしてはいないが、久々の外は自然気分が高まるものだ。年甲斐もなく浮かれても罰は当たるまい。
そろそろ蝋梅が見頃を迎えている頃だろう。そう思い至り、里の外れにある火の国一の名所と謳われる古寺へと足を向けた。あの近くにある茶屋で一服でもして、帰りに季節の印香でも見て帰ろう。嗚呼それはいい、きっとそうしよう。
この季節には珍しく空風も和んでいる。麗らかと呼ぶにはまだまだ気が早かろうが、朗らかで良き日だ。道行く知った顔に会釈をするにも、作り笑みではなく自ずから頬が綻ぶ。夫の教え子に軽く頭を下げたところで、行き会った知人の中でも殊更親しい顔と目が合った。
「あらお久しぶりです、どなたかと思えば」
「露木か。また床に臥せってたと聞いてたが随分良さそうだな」
「ただの風邪でしたので、お陰様で。マダラさんもお元気そうですね」
目元に暗い影を落とす、険のある顔をした男。うちはの頭領、うちはマダラだ。気難しげで神経質な印象を受けるが、腹を割れば割合気さくな人柄の青年である。無造作に伸ばした蓬髪の所為か、はたまた顔の造作が整った方であるから無表情だと冷たく見える所為なのか、見目で多少損をしている人だと会う度に思う。
幼子にも優しく、情が深いと知ったのは同じ里に住むようになっての事だ。元来は千手とうちは、戦を繰り返す仇敵同士であった身であるが、今では気の置けない関係だと、少なくとも私はそう考えている。会えば暫しの間立ち止まり、世間話はする間柄である。
「着飾って珍しいな、何処かへ出掛けるのか」
「これといった用事は無いのですが、天気も良いので蝋梅でも。マダラさんは?」
「似たようなものだ。非番で暇だから散歩にでも行くつもりだった」
「奇遇ですね。折角ですし、ご一緒させて頂いても」
「俺は構わんが……」
僅かに眉を顰めたマダラが渋い顔を作る。恐らくは夫の事だろう。マダラが何事かを言い掛ける前に途切れた言葉を繋いだ。
「ただの花見でしょう。そんな些事で勘繰るほど、夫も貴方を警戒してはいませんよ」
「いや、そうじゃねーだろ。任務中に嫁が他の男と花見だと知ってみろ、小言の一つや二つで済むのか?」
「あの扉間様ですよ、それこそ考え過ぎでしょう」
「まあ、お前等が気にしないなら別にいいけどな」
夫が、と気遣ってくれているが、事務処理の合間に甘味を食べに行くことや、仕事終わりに呑みに行くことなど昔はよくあったのだ。先の冬に身体を壊し、家庭に入ってからは久しいが。それでも、今更といえば今更だろう。そのような事を言って、頬を刺す北風に目を細めながら私は笑う。対するマダラも、懐かしいな、などと呟いている。遠い彼方を望むような、懐かしげな虚しい色を瞳に滲ませていた。
「お前と出向くのも久々だな、一年振りくらいか」
「私が補佐を止めた頃から一向に機会がありませんでしたからね。懐かしいものです」
「家刀自はどうだ、性に合わなさそうだが」
「全くですよ。出来れば昔のように戦に出たいくらいで」
「流石は千手のくの一頭か、勇ましい限りだ」
マダラといると、よく昔の事を思い起こす。敵将であった彼とこうして他愛の無い話をする昼下がりなど想像もしなかった頃の、血生臭い日々のことだ。里の多くの者はもう深く静かな胸の底へと仕舞い込んで、意図して思い出そうとしない。実際、今とは比べ物にならないほどに劣悪で凄惨な時代だった。
ただ、私は何故かあの頃を愛しく思ってしまう。人を殺すのが好きだという嗜好は決して持ち合わせてはいないが、自分の立ち居地が明確であるから生き易かった。戦に行けば、皆平等だった。死は狂おしく優しいまでに等しく訪れる。ただ、眼前の生き死に集中する。それ以外を考える余裕などまるで無かった。
「貴方と居ると、よく昔の事を思い出します。あの頃が懐かしい」
「嗚呼、千手と懐かしむなんて日が来るとは思わなかったがな」
「……以前から聞いてみたかったのですが、マダラさんはどちらだったのです?」
「何がだ」
「こんな日々を、望んでらっしゃったのか」
くるりと目を向いたマダラが、暫し口を噤む。気が付けば、いつの間にか目指す地には至っていた。近くに緋毛氈が敷かれた長椅子があったので、端のほうに腰を掛ける。マダラも隣に座った。蝋梅は今を盛りと見頃を迎えていたが、愛でる人影は他にないようだ。低く張りのある声がひっそりと静寂に解けていく。
「望んでいたし、同時に恐れてたんだろうな。どちらも本心だ」
「貴方にも怖いものがあるんですね」
「当たり前だろ、俺はこう見えて結構繊細なんだ」
少し戯けてマダラが呟く。知らなかった。意外だと返せば、ほのかな笑みを口の端に滲ませた。
「餓鬼の頃からの夢だったんだ、平和な集落を作るってのは。こんな風に、何の憂いも無く蝋梅を愛でられるような、馬鹿みたいに平和な日々が送れるようにな」
彼につられ、咲き誇る蝋梅に目をやった。透き通る黄金色が空の色を仄かに透かし、青褪めた鈍い光沢を放っている。触れれば崩れてしまいそうな蝋細工のように繊細で、黄金の粒のよう燦々と美しい。
綺麗な花だと思う。ただ、確かに戦を行っていた頃にこの可憐さに目を留めただろうか。蝋梅はどの春も同じ様に花を付け、ひそやかに咲き、そして散っていたのだろうが。そんな事を気にする余裕などまるで無かった。
「それでも、そんな日々に自分が馴染めるのか自信が無かった。結局今だって見様見真似だ」
「それは、責められるものでもないと思いますよ。戦場に慣れた者ならきっと誰もが同じ思いを抱えていたはずです」
「まあ、それはそうだろうな。そうだな……」
恐ろしいんだ、と吐息に紛れるように静かに呟く。するりと僅かに顔を上げ、マダラは空を仰いだ。
「怖いんだ、心の底で過去を望んでいることが。誰も彼もが口を揃えて昔より今の方がずっと良いという。確かにそうだろう、子どもは戦場に行かずとも良くなったし、生活も安定した。
だがな、俺は昔の方が生き易かったんだ。皆が生きるのに必死だったから、周りに構う暇などなかっただろう。今は無駄に平和なものだから、自分ではない異端が目につく。見られてばかりだと生き辛いんだ、俺みたいな外れ者には風当たりが強いからな」
滔々と湧き出る泉のように、理に導かれる安らかさを感じさせるほど滑らかに、マダラはそう吐き出した。諦観とも自嘲とも取れぬ乾いた色を目に潜ませ、細く息を吐く。その内に抱えている凝りは、手触りさえ分かるほど身に覚えがあった。
「違っていると、生き辛いものですね」
「露木もそうか」
「ええ、無頼を気取っていても所詮は里という狭き箱の内。如何にか取り繕い、生きていくしか無いとは分かっていますが」
心の淀みに反して、空は果てしなく青い。冷たく透明な鏡のような天は瞳さえも澄んでいくようだ。茫洋とそんな事を思い、僅かに目を見開く。この左目が澄む事を望んでいるようで、我ながら浅ましい。
美しいものは尊いが、私にとっては酷く恐ろしい。正統なるものも真っ当なものも、美しいものも酷く怖いのだ。陽の下に胸を張り、何の陰りも無く生きる眩しきものを仰ぐ度、泥濘んだ地を這う我が身との差に目を焼かれる。
狂人だ、私を評する誰もがそう囃す。狂っている、そうなのだろう。親兄弟を殺した仇と腹を割り、平和よりも戦乱の世を懐かしむ。女が望む尋常な幸せというものを酷く厭うのだから。
結婚など、したくはなかった。するつもりも無かった。例え狂人だと謗られようと、戦の頃ならばそれでも身一つ生きていく術があったのだ。この時代、確かに嫁に行かず行き遅れたまま一生を終える者などいないに等しい。それでも、何故それを望むだけで罵られねばならぬのか。何某かを傷付け、糾弾される行為をした訳でもないだろう。
――あの人の人生を崩し、壊してしまう積りなど一つもなかったのに。
「お前の場合は違うだのというより、単に扉間を嫌ってるんだと思っていたが」
「いえ、嫌ってなどいませんよ。好き嫌いなどそんな事ではなく、ただ私は独り身でいたかっただけなのかもしれません」
「分からないでもないな」
己が真っ当な生き方を出来ぬと分かっていたからこそ。誰も巻き込みたくはなかったのだ。一人きりで罰を抱えていこうと決めていた。今更幸せを享受できる資格も無い。あの人の枷になりたくなどなかった。
考え出すと、此処は地獄だ。平和という永遠の無間地獄。皆が正しく生きている、真っ当に生きている。それを思い知ると自分が罅割れ、壊れてしまう。醜い執着を抱えて、捨てきれずに生きている浅ましい自分を知るのが怖い。もう何も見たくない。
――やはり、あの時死ぬべきだったのだろうか。生き恥を晒して生きているから、だから。そんな答えの無い問いばかりを唇の奥の仄暗い暗闇に隠している。
「貴方と同じように、私も今の平和が怖い。真っ当に人を愛せない者には、混沌とした時代の方が気が楽だったのでしょうね」
「それも、今となっては仕方無し、か」
「……御結婚なさるようですが」
「知っていたのか」
――確か。マダラには、想い人が居たはずだ。決して結ばれえぬ、そう自嘲しながらも、乾いた言葉の奥底に深くひそやかな恋慕を抱かせた人が。それでも、何事も無いかのように彼は言う。儘為らない世だと分かっているからこその、諦めであり祈りだった。
そろそろ行くか、そう告げられ腰を上げる。大きく息を吸い込めば、ひんやりとした北の風が仄かに甘い。話し込んでいた所為で、肝心の蝋梅を愛でるのを疎かにしていた。そう苦笑すれば、マダラも決まり悪そうに肩を竦めた。
「お互い、生き辛いものだな」
「ええ、まったくです」
枝葉を彩る透き通る蝋梅の花弁は、狂おしく美しい。伸ばした指の先で音も無くひとひらの花弁が剥がれ落ちた。乾いた土の上に身を横たえた花弁を爪先で突く。咲き染むる蝋梅は美しいが、散って仕舞えば誰も見向きはしないだろう。確かに同じ蝋梅であるのに、その価値は甘き香りを漂わせ、美しく咲いている一瞬だけでしか認められない。朽ちた花弁達は愛でられるどころか醜く張り付く様に眉を顰められるのだ。
散り際さえも美しく、消えていければ幸福なのだろうか。それもまた残酷なのだと、抑揚無く思った。
「幸せなまま死ねたなら、それが一等幸福なのでしょうね」
全ては私が弱いからだと、分かりきった言葉を散り落ちた蝋梅と共に踏み潰した。