五 或る男の証言
――忘れ形見に、とんだものを託されてしまった。件の手紙を読み終え、ぼんやりと息を吐く。長いようで、短い文だった。そこに彼女の生き辛い一生が書かれてある。
哀れかと問われれば、あの女は哀れだろう。なりたくもないのに病気に罹り、その傷を笑われ蔑まれ、ついに心を病んでしまった。理不尽である。可哀想だ。
だが、悲劇かと問われれば自分にはよく分からない。そう、分からないというのが本音だった。
女は、露木は不幸だったのだろうか。
恐らく、有り触れたすれ違いだったのだろう。露木の人柄全てを知っていたわけではないが、正しく生きようともがき苦しんでいる人だった。
自分と同じだ。正しいと思う道を正しいと思いきれない。迷いがある。これでよかったのだろうか、自分は間違っているのではないだろうか。誰に問い掛けるでもなく、模糊とした疑念に責め苛まれる不安定を抱えている。
そこが、決定的に彼女の夫と合わなかったのだろう。あの男は正しい男だ。自分が正しいと信じた道を、迷いなく突き進む男だ。真実それが正しいのか誤っているのかではない、己が正しいと思うことを異常なまでに貫ける。そんな人間はあまりいない。
自分と愛する男の齟齬に悩まされ、魘され、怯え、疲れ果ててしまったのだろう。彼女は生きることに疲れてしまった。珍しくもなんともない、聞き飽きたようなすれ違いだ。
磨耗した。傷付いた。そして、罅割れて壊れてしまったのだ。
ただ生き辛い人だった、それだけの事だろう。
やおら立ち上がり、押し入れの隅に仕舞い込んでいた行李を引きずり出す。雑駁としたガラクタが中に溢れている。未練がましい性分があるものだから、なかなか捨て切れずに残してしまった物たちだ。
子どもの頃に読んだ本、弟が描いてくれた絵。色褪せたようで瑞々しい記憶達が次から次へと出てくるが、探すものはまだ見つからない。
――違っただろうか。確か此処へ入れた筈なのだが。
「嗚呼、これか」
視界に移った艶やかな色を認め、そっと取り出した。鮮やかで、活き活きとした猩々緋。魔を除ける赤物。遠い昔に縁日で買った赤みみずくの張り子である。十数年来の埃を丁寧に拭い、暮れかけた冬の陽にかざした。
疱瘡は神が齎す病という。古くから、疱瘡は疱瘡神という悪神が齎すものだと考えられてきた。その疱瘡神は犬や赤いものを苦手とする言い伝えがあり、それに因んで赤物と呼ばれる疱瘡除けの縁起物が作られたのだ。この張り子もそれの一種である。
彼女は悪いものに当たってしまっただけだったのだ。何も悪くない、誰の所為でもない。ただ、通り悪魔が憑いてしまっただけだった。
弱く哀れでいじましい、可哀想な人の子だ。
懐に張り子を入れ、家の戸締りをして外に出る。元はといえば、今日は露木の弔問に行く予定だったのだ。少し遅くなってしまった。厳格なあの男がどういう顔をするか考えれば気が進まないが、そんな餓鬼のような理由で避ける訳にもいくまい。
このままでは据わりが悪い。ほとんど手を煩わせなかった、よく出来た補佐の最後の始末である。信頼もしていたし、それなりに信頼されてもいたのだろうが、今まで頼み事一つされた覚えがなかった。あれは優秀で、よく自分を支えてくれた。このくらいは片を付けてやらないと割に合わないだろう。同病相憐れむ、よく言ったものだ。
うちはの区域を抜け、しばらく歩いた先に目的の屋敷がある。玄関先には、忌中と書かれた半紙が貼られている。下げられた提灯。樒の葉。千手露木の、また千手扉間の家である。
しんとしている。他の弔客がいるかと思っていたのだが、今は途絶えているようだ。ひそやかに静まり返り、静寂が深く凝っている。一度息を吐き、戸を叩いた。
「マダラか」
「弔問に来た、――この度は誠にご愁傷様」
「わざわざどうも。……貴様がしおらしい態度をすると、妙な心地がするな」
「餓鬼か、こういう場面だと当たり前だろう」
「そうだな。まあいい、上がってくれ」
奥へと促す声に黙って敷居を跨ぐ。樒の臭い。森閑とした空気に強い香が澱んでいる。室内はやけに暗い。灯りの一つでも付ければよいものを、つい先程まで出掛けてでもいたのだろうか。
ひたひたと廊下を歩く音。前を歩く男は何も言わない。突き当たりに位置する座敷を開けられ、中へと入った。
――妙だな。
部屋に通された瞬間、かすかな違和感を感じた。中央に蒲団がのべてあり、誰かが横たわっている。仄暗い室内では、真っ白な床は浮き上がるように茫漠と滲む。顔布が掛けられているのだから正しく露木の遺体なのだろう。
きっと安らかに寝ている。だが、何故か酷く不安な心地になった。何かが足りない。欠けている。
――枕飾りも屏風も、何も無いからか。蝋燭も線香も。守刀も置かれていない。遺体が安置されているというのに、死者を弔うようなものが何一つ置かれていないのだ。顔布が無ければ、そこに寝ているのが骸である事すら分かりにくいだろう。ふと横になって、それをただ眺めているかのような。落ち着かない。嫌だ。
これでは、悪いものが来てしまう。
酷く、散漫な気持ちになる。
扉間が枕元に座ったので、少し離れたところに腰を下ろした。腹から下あたりの蒲団だけが覗いていた。頭は見えない。どうしたものか、と考え込んでいると、男が背を向けたまま話し始める。
「顔、見ていくか」
「……いいのか」
「嗚呼」
事もなげに扉間が言う。驚いた。正直なところ、座敷に上げられることすらないだろうと思っていた程だ。まして――。いや、それより
――逆さ事すらしていないのか。
そんな事ばかりが妙に気になる。あの扉間が、自分を家にあげるという以上に気になることなどそうないのだが。散漫である。そぞろな意識で蒲団を凝視している。床の間の花瓶や、そこに活けられた白椿。反対になっていない蒲団。そんなものばかりが気に掛かる。視界の端にいた扉間が退けるように脇へと動く。視線を上げた。
白い顔の、半分が見えた。
夜が迫っている。部屋の四隅に凝っていた宵闇がじわりと浸食してくる。嗚呼暗い。天井などもう見えないではないか。薄暗い部屋の中で、死人の肌ばかりが白い。前へ出た。隠れていた面が露わになる。
「これは……」
「顔を見たのは初めてか?」
ただ頷いた。右半分は傷一つなく綺麗な顔だ。俺がよく知る、露木の顔である。儚げで粒子の細かい皮膚は吹けば消えてしまいそうなほど半透明に白い。
その、もう左半分が。
酷く、傷んでいる。瘤のように盛り上がった肉が裂け、痘痕になり切っていない瘡蓋が膿んでいる。赤黒く濁った肌。まるで割れた柘榴のようだ。思わず目を背けたくなる。あまりに、むごい。痛々しい。疱瘡の痕ではない。この傷は、――
「醜いだろうな」
「いや、」
「別に気にするな、
あまりに平坦な口調でそう言うので、いささか瞠目して扉間の顔を見遣った。澄ましている。平生から何を考えているのか読めない男だが、甚だ落ち着き払っていた。そうも思うが、その顔は良く見えない。陰鬱な闇が広がり、もう輪郭がぼうと暈けてしまっている。顔の分からない男は変わらず平らな口調で、何気なく話を続けた。
「それで? 何か用があったのではないのか」
「あ、嗚呼……。これだ、露木から遺書を預かっている」
「ほう」
懐から文を出すのと同時に、先ほど入れた張り子が床へ転がった。乾いた音を立て、すっかり暗い畳に落ちる。伸ばした指の先で白い手がさっと攫った。興味深そうに扉間が眺めている。
「疱瘡除けの赤物か、意外と世話焼きだな」
「何がおかしい」
「いいや」
先ほどまで表情が抜け落ちたのかと思うほど落ち着き払っていた声が、今は酷く楽しげに歪んでいる。笑っているようだ。
尋常ではない。流石にこの男にも、妻の自殺はこたえたのだろうか。迎え送る心構えも出来ず、ただ見ているだけが精いっぱいだったのだろう。悄然としているように見えなくもない。
そう思うと、どこか哀れに思えた。元より漫ろな意思は単純である。同調しやすい。――いや、あの遺書に共鳴したか。
だが、やはり。どこか据わりが悪い。
扉間は床に置いた封書は受け取らず、無意味に張り子ばかりを弄んでいる。目もくれていない。無駄なことを良しとしない男にあるまじき胡乱さである。居た堪れなくなって、急かすような声が口を衝いた。
「読まないのか」
「それは貴様宛の文だろう、俺が読むべきものではない」
「だからって、……細君の物だろう」
確かに名義は自分宛であるが、中身は夫に向けてである。読んでほしかったのだろう、知ってほしかったのだろう。だが、それを彼女は言えなかった。伝えられなかった。全てを曝け出せていたら、死ぬこともなかっただろうに。きっとそうだ。
あんなに擦り減って、あんなに罅割れて。
あんなにも、愛していたのに。
「妙に面倒見がいいが、どういう風の吹き回しだ。まさか噂が本当だったわけでもあるまい」
「ぬかせ、同類のよしみだ」
「なるほど……。同類、とはな。矢張り、うちはの者は殊更愛情深いな。一度懐に入れると捨て置けんか」
「どういう了見か知らんが、煙に巻いてばかりだな。……俺も、気が長い方ではない」
「さてな」
扉間が長く息を吐く。その顔はまるで見えない。いや、ずっと背を向けているのだ。白白とした髪さえ夜に紛れている。
自分の顔すら、重苦しい闇に蕩けてしまった。拡散する輪郭。曖昧になる自我。視野が狭窄する。茫漠と滲む死人の顔ばかりが浮かぶ。
自分はもうすっかり死んだ女に同調してしまっている。
「罪悪感だけだったのか」
「あれが言ったのか?」
「そこに書いてあった。露木は最期まで謝ってたぞ。申し訳ない申し訳ない、と。それを――」
「愚かよなあ」
「おいっ、」
心底、というように扉間が言うのでにわかに声を荒げた。変わらずに背中ばかりを向けている。そういえば、先程からずっと男は凝視している。見入っている。何を?
露木の、あの痛ましい顔だ。
思わず目を背けたくなるような傷痕を凝視しながら、扉間は続ける。
「それは、彼奴が吐いた嘘だ」
「嘘?」
「嘘という言い方が適当かは分からんがな。露木にとっての事実でも、真実とは異なる」
「……何が言いたい」
「聞きたいか?」
聞いたら、戻れないぞ。多分そう言った。
「この傷はな、俺が付けたのよ」
「――は?」
思わず息が早まる。荒く息をすると吐きそうな気に襲われた。部屋に充満した陰気が肺を満たしている。樒の臭いはしない。此処には置かれていないのだ。夜と、饐えた骸の臭いばかりがこの部屋には充満している。罅割れた意識から悪いものが侵食する。気味が悪い。良くない。
酷く、いやな気持ちになる。
「それは、露木が庇って怪我を負ったことを言ってるのか」
「いいや、違う」
そこでやっと、扉間が振り返った。
ぞわ、と怖気が走った。爛々と底光る目。濁った赤。平生では冷ややかな刃物を思わせるそれが、弓形に酷く歪んでいる。赤い。裂けるように口の端が釣り上がっていた。片手で掻き抱くように露木の頭から首へと手を回す。恍惚と、蕩然としてうっとりと頬をすり寄せる。そして、
まるで喰らうように口を開き、腐りかけた肉に口付けをした。ぐづり、と肉が崩れ、腐汁が青白い唇を染める。その汁をゆっくりと舐め上げた。
「この俺が、毒を盛った」
崩れるような顔で、その男は笑っていた。