四 或る女の独白

かつて部下であった女から、一通の封書が届いた。
私的な手紙など受け取ることは久しくなかったものだから、妙に物珍しく思ってしばらく指先で弄んでいた。素っ気のない、簡素な手紙である。私的な、とは表現したが、女が男に宛てるにしては何とも無味乾燥で味気無い。なんともあの女らしい、そう思う。当たり前だが艶書の類ではないだろう。
――そんなことを言えば、冗談でもあの女は怒るだろうな。
先日会った女の生真面目な顔が浮かび、思わず真一文字が吊り上がる。慎ましい和紙の表面に記された文字も、見慣れた女の筆跡によるものだ。触れれば崩れてしまいそうな、張り詰めた緊張を保つ細い文字。かさかさと乾いた表面に、罅割れるように記された淡墨は酷く様になる。
指の腹でなぞるように文字を撫でる。まさしく、彼女のものだ。
数日前に急死した千手露木からの遺書である。

自殺だったと聞いている。
それを聞いた時、俺はあまり驚かなかった。全く、と言っていいかもしれない。仮にも里内有数の実力者とされる男の、その妻の自死である。世間はさざめくように鳴動し、彼女の訃報は瞬く間に人々の口の端に上った。
旦那と不仲だったらしい、遂に不義理を責められたのだとか。あれは悪女だ。うちはの頭領――言うまでもなく己の事だが――と密通していて、それを悔いての自殺だそうだ。――くだらない。
好き勝手に囁かれる戯言たちを、何を言うでもなくただ聞いていた。空言だ。不快だと喧伝するほどに大層なものでもない。彼女が、露木が聞けば、きっとまた崩れるように笑うのだろうな、そう思っていた。

生きているのか死んでいるのか分からない女、それが生前の露木に対する印象である。彼女はこの世の淵に立っている。彼岸と此岸の淡い境界。竦む足元は今にも砕けそうに、細かい亀裂ばかりが無数に走っている。
いつも何かに責められているような、酷く生き辛そうに笑う女だった。どうしようもなく罪を悔い、許しを請うているような、そんな目をしていた。

多分、俺と彼女はよく似ている。何よりも自分が憎く、決して己を許せない。人が思い描く全うな幸せというものを眼前に差し出されると、忌避し、恐れて厭うてしまう。恐ろしい。嫌である。自責。纏わり付く罪悪感。身に巣食う罅割れに吸い込まれてしまいそうになる。
同じく死に場所を探しているのだと、その横顔を見て思っていた。

じきに死ぬのが分かっていたような、そんな儚い女だ。死んだ事には今更驚かない。それでも彼女は、あの瞬間まで確かに生きていた。いつものように酷く悲しげに笑いながら。生きていたのに、自ら死を選んだのだ。毒を飲んで死んだのか、首を括ったか、喉を衝いたか。
最後にその背を押したのは。迎え水を呼んだのは、一体何だったのだろう。

目を落とす。
掌中には件の女が書き残した手紙がある。
かさり、と紙を繰る。取り留めなく綴られた拙い文。不安定な内容に反して、繊細な均衡を保つ文字が美しく並んでいる。ゆっくりと、その独白を辿った。


『前略
唐突にこのような悪文を送りつける無礼をどうかお許しください。貴方なら、上司と部下のよしみ、同病相憐れむだと笑ってくださると信じています。

さて、誰にも話せなかった私の罪を、聞いてくださいますでしょうか。いえ、知ってください。知って頂くべきなのです。他でもない貴方には、この卑しい罪を告解させて頂きたいのです。
長くなりますが、どうぞ愚かな懺悔に最後までお付き合いください。

私は夫の事が好きでした。先日貴方にお会いした際、私があの人を嫌っていると思っていたのだと、そう仰いましたね。あの時は申し上げませんでしたが、私はずっと夫のことを愛していたのです。好きで好きで、堪らなく愛していました。
人とは不思議なもので、好きと思えばその感情がむくむくと途方もなく、際限なく広がっていき身を食い尽くしてしまいます。嗚呼好きだなあ、好ましいなあと、それだけで満足できれば良いのですが、それほど器用に賢くできていないのでしょう。私もご多分に漏れず、そうでした。
ただ、一つ断らせて頂きますが、貴方に語ったことは嘘偽りない本心です。愛しいと思っていましたが、添い遂げて夫婦になりたいなどとは決して願ったことはなかったのです。それだけは、どうぞ信じてください。
仮に、無意識の内にそういった邪念を抱いていたとしましょう。けれど、一度もあの人に伝えたことはありませんでしたし、それが私の誇りでもありました。

 ――中略――

多分、魔が差したのです。あの人が誰かのものになるのは構わない。けれど、忘れられたくない、と。その人生に、ほんのちいさな爪痕だけでも残したいと、そう思ってしまったのです。
思ってしまえば、行動に移すことは必然でした。酷く単純な、容易いことで良いのです。あの人は貴方と同じで存外愛情深く、情に厚い人なのですから。自分のために誰かが犠牲になったら、それも殊更親しい者がその身を呈してなどすれば、あの人はきっと顔に出さなくても、嘆いてくれ、悲しんでくれます。そういった心根の優しい人なのです。
その心の片隅に、誰にも気付かれないほどささやかにそっと仕舞い込み、散っていった哀れな同胞がいたと時折思いを馳せてくれる。それだけを、私は望んでいました。

私はかねてから決めていたように、愛しい彼を庇って死のう、そう思っていました。戦乱の世ですから、機会はいくらでもあります。いくらあの人が強く素晴らしい才を持つ忍でも、戦さ場では何が起こるかなどは分かりませんでしょう。それは貴方もよくご存じの通りです。
今思えば、なんて浅はかな事をしてしまったのだろうと悔やまずにはいられません。けれど、私はそれを決行してしまったのです。彼に迫る刃を受けた時、嗚呼やっと彼に忘れられないでいられる。心の隅で生きていける、そう思いました。

ですが、私は死ねませんでした。今日まで生き恥を晒しておめおめと生き残ってしまったのです。嗚呼口惜しい。なんて愚かだったのでしょう。
私が死ねなかったばかりに、あの人は責任を感じて、素晴らしい縁談を断ってしまったのです。

なんて浅ましい、いやらしい罪だと思いませんか。
顔に傷を負い、腹まで達した毒のせいで子も産めなくなった醜い女を、自分の所為だと背負わせてしまったのです。私が邪な願いを抱いてしまったせいで、彼の一生を崩し壊してしまったのです。

 ――中略――

きっと、罰が当たったのでしょうね。私は程なく疱瘡を病み、顔が醜く崩れてしまいました。
その後も何度か戦には出ていましたから、もしかすると御存じだったでしょうか。蛆たかれころろきて、二目と見れぬ痘痕面。死者を喰らう黄泉醜女。そんな噂をよくされました。人とは、ただ顔が醜いというだけで、かくも残忍に同胞を蔑み痛めつけることが出来るのだと、私は少し感心したものです。
それとも、皆私の罪を知っていて、浅ましい女だと笑っていたのでしょうか。きっとそうなのでしょう。醜いのは、顔だけではありませんね。

それでも、醜く顔の崩れた、心根まで卑しい私を、あの人は捨てずに娶ってくれたのです。本当に、慈悲深い人だと思いませんか。私はそんな尊い人の消えない皹になってしまったのです。
嗚呼なんて残酷な、許されない罪を犯してしまったのでしょう。
高潔な貴方はどう思われるでしょうね。
笑ってくださいますか、唾棄してくださいますか。どうか、愚かな女と嘲笑い蔑んでください。それが私の餞となります。

 ――中略 段々と文字が震え、判読し辛くなってくる――

御免なさい御免なさい御免なさい生きていて御免なさい私の所為です御免なさい

 ――中略――

長々と大変失礼いたしました。最後まで付き合って下さり、本当にありがとうございます。私とよく似通った貴方なら、きっと分かってくれることでしょう。僭越ながら、そう信じています。

私は砕けて折れてしまったけれど、貴方は生き辛い世を歩んで行かれるのでしょうね。これからも、ずっと。お一人で。
どうかお体ご自愛下さい。お嫌いだった事務仕事はあまり根を詰め過ぎず、適度に休憩を取ってください。私の後任の者に、あまり厳しくしてあげないでくださいね。
貴方は顔が怖いから、よく誤解されるんです。優しくて面倒見もいいのに、損ですよ。

それではお先に、冥府の底でまたお会いいたしましょう。 草々』


遺書は、そこで終わっていた。