1. Amazing grace how sweet the sound
水中で朱が混じり赤く色付いていくように、ゆるやかに意識が覚醒する。
多分、私は目を覚ました。
「おはようございます」
「嗚呼」
短く返した白髪の男に笑いかける。睡魔に身を委ねて夢に浸っていた訳ではないので、この言葉が適当か分からない。――お久しぶり、多分そう時間は経っていない。――ごきげんよう、なんだか間抜けだ。それにそんな瀟洒な挨拶した事もない。だから、おはようございます。その言葉がきっと正解だったと思う。
「でも、眠ってた訳じゃないのに、なんだか変な感じですね」
「似たようなものではないのか」
ぼわぼわと淡い意識に耳慣れた声は心地良い。問い掛ける言葉に、まだ少し揺蕩っている頭からゆっくりと考えを手繰り寄せる。
「見てる側はそうかもしれませんけど、眠りって本当はひた向きだと思うんです。動いてる時より、身体の細胞達が一つの目的に向かって皆まっすぐ一生懸命な感じで。だから、それと一緒にするのもどうなのかなって思ってしまって」
「相変わらず妙な事を考える頭だ」
「こればっかりは治りませんでしたね」
私は肩を竦めてそう笑う。いつまでも横になっているのも失礼なので、起き上がって寝台に腰を掛け、瞬きを繰り返した。
唇、目蓋、指先、足。どれも何不自由無く動く。脳から送られたどんな些細な命令でも、真摯に耳を澄ませ、敬意を持って付き従っている従順さだ。いつぶりの感覚だろう、随分と具合がいい。
「身体の方はどうだ」
「何も問題は。前よりずっといいです」
「だろうな、多少動きやすいように調整しておいた」
「本当ですか、嬉しい」
ありがとうございます、と。私は思わず声を弾ませた。私を見る目が静かに細められる。一呼吸、沈黙が降りた。私より一回りも二回りもあるような、大きくあたたかな掌が頭を撫でる。昔から、変わらない。優しい手。ひっそりと込められた感情のような何かを勝手に思い描いてしまって、少し恥ずかしい。誤魔化すように私は微笑んだ。
「またお会い出来て嬉しいです、扉間先生」
「……馬鹿者が。その呼び方なんとかならんのか」
「だって、また子ども扱いされたでしょう」
「子供なのだから仕方無いだろう」
「そんな歳でもありませんって」
先生こと、直属の上司であり師であった二代目火影とは当たり前に歳が離れている。初めて彼に会った時の私はまだ十歳にもなっていなくて、確かに子どもという不安定で甘やかな言葉が似合う年頃だった。きっと先生の心の引き出しには、未だにあの頃の痩せっぽちな私が眠っていて、時折どうでもいいような、彼が言う妙な事を話すのだろう。
嗚呼、そう思うと少し悔しい。もっと大人に、もっと先生のような思慮深く聡明な大人というものになるべきだった。そんな機会はもう逃してしまったけれど。
生まれた頃から身体が弱かった私は、やっと大人という強固な枠に収まった途端に呆気なく死んでしまった。物心ついた時分から長くは生きられないと言われていた、終わりの見えた命だった。むしろここまで生き長らえられたのが奇跡なのだと思う。
充分過ぎるほど覚悟はしていたので、あまり生前に対する後悔は抱いていなかった。少し寂しいが、悲しいという程でもない。――もう終わってしまった、呆気無いな。結末の分かっている平凡な物語の頁を閉じた感覚に似ていた。
忍の家系に生まれた子は、大抵歩む道が決まっている。周りの子はみんな揃って忍を志し、日々修行に励んでいた。それが当たり前。その当たり前から切り取られてしまった私の存在は、いつもゆらゆらと頼りなく不確かだった。居場所が無い。親が何かを言ったり、兄弟に何かを告げられた訳ではなかった。
それでも、――この子はじきにいなくなってしまうから、そんな諦めにも似た静かな目でいつも見られていた。優しい彼らからの扱いは、ふらりと立ち寄った客人に対する遠慮を感じさせた。
親でさえ持て余していた私を掬い上げ、居場所を与えてくれたのが他でもない先生だった。ただ形のない諦念だけを抱えて生きていた私を、直属の事務補佐として召し抱えてくれたのだ。
懐かしいようでまだ一昔ほどの月日しか経っていない、彼の兄である初代火影がこの里を築いたばかりの頃だった。人々の生活は安定し、平和で落ち着いた日々を送れるようになった。それでも、長く続いた戦乱の爪痕はまだ残っている。識字率だ。平易な読み書きをこなせる者は多くいたが、公的な文書、約款の取決めなどを熟知し、書き下せる者はまだ少ない。
往々にしてそういった教育を受けている、受けられたのは由緒ある一族の血統である事が多かった。忍はその生業柄、事務的な内向き作業を嫌う者が多い。文治の適性があっても、専任で据えることは厄介だった。どこでどう不満が噴出するか分かったものではない。そのため、行政事務を専門で執り行うような文官は万年不足していたらしい。
――以上全て、上司の受け売りである。
任ぜられた過程はどうあれ、家から碌に出ることも出来ず、ただ文字の虚構と現実の狭い隙間で立ち竦んでいた私に、彼がぴったりと見合う役割を与えてくれた。
先生は厳しい人だった。無理を強いることは無かったが、怠けたり手を抜いていると必ず叱咤された。それが、私には得難く尊い。誰からも必要とされなかった私を、先生だけはきちんと目を合わせて、その言葉で導いてくれたのだ。
見たことのない遠い国の政治や文化、身を守るための技、里の世間話、色々なことを暇を見ては教えてくれた。先生から手渡される知識は何だって嬉しい。彼がいたから世界が知れた。私だけの世界があった。
それだけで、何だって出来る。まさに生きる糧だった。医者でさえ驚くほどの気力で、私は彼の補佐として働き続けた。灯を燃やし尽くし、あの方の役に立てる限り。
頭を撫でていた先生が手を止め、私と目線を合わせる。いつも冷静でひんやりとした眼差しの彼には珍しく、形容し難い不思議な表情で目を細めていた。何かを、堪えているような。
それ以上知るのが怖くて、私は無意識に目を伏せた。こつり、と額に彼のおでこが当たる。ふんわりと空気を含んだ繊細な髪がくすぐったい。
「こんなに早くに逝きおって」
「すみません……。でもほら、この通り帰ってきましたよ。私は何もしてないので、威張る事でもないのですが」
「そうだな、よく戻ってきてくれた。おかえり、イノリ」
「あ、そちらの表現の方がよかったですね。おはよう、よりしっくりきます」
「……おい、返事は」
きっと、選んだ答えは正しい選択ではなかった。倫理や道徳に照らし合わせたなら、きっと世界から糾弾される。誰からも許してはもらえない、そんな途方も無い罪を犯してしまった。
けれど、それでも私は構わなかった。先生が、他でもない彼自身が呼んでくれたのだから。世界中の誰からも認めてもらえなくても、先生が然りと言うなら信じられる。先生は私の全て、世界の導だったから。
死んでしまった私を禁術で蘇らせる。口寄せ、穢土転生の術。生者を犠牲にして死者を呼び戻す、神をも恐れぬ禁忌の御業。
それを実行した先生の真意は分からない。ただ、真っ白な病室から霞む目で窓の外を眺めるだけだった意識の水際で、彼は言ったのだ。見れなかった世界を見せてやる、と。
――貴方が、望んでくださるなら。本当は拒絶すべきだと分かっていながら、朦朧とした意識で私はそう応えた。だから、今ここにいるという事は先生が望んだ結果だ。彼が望むなら、それでいい。他に納得できる理由なんていらない。それだけでいい。
「――ただいま戻りました、我らが二代目火影様」
寝台から立ち上がり、その足元へ跪く。見上げた彼の姿は、何よりも眩しい。例え誰からも謗られようと、こうやってもう一度現世で相見える事が出来たなんて、なんと幸福なのだろう。死んでよかった、不謹慎にもそんな事まで思ってしまう。
感情の奔流に息が詰まる。私はそれ以上何も言えず、衣の裾へそっと口付けを落とした。