2. That saved a wretch like me
出来れば生前の通りにその側で働きたかったのだが、それは駄目だという。
――まあ、当然だろう。いくら慢性的な人不足とはいえ、死者を冥土から呼び戻して仕事に当たらせるなんて珍妙な了見は聞いたことが無い。あまりにも不道徳だ。
そんな馬鹿げた話の前に、私は真実死んでいるのだから存在を知られてはいけないのだけど。
その対策には、顔も隠せる亜麻布のローブを渡された。認識した人間の意識から、限りなく存在を紛らわすことの出来る幻術が付与された一枚である。詰まりは顔を見られたところで記憶に残らないという効果らしい。なんとも便利だが、あまり実用的な代物ではないのだとか。並みよりチャクラが弱く、感知にすら引っかからないような人間くらいでしか使えないと先生は零していた。確かにそんな忍はあまり、否ほぼいないだろう。
そんな都合のいい逸品があるので自由に里内も歩き回れるが、万一を考えて生前付き合いがあった人間に接触することは極力避けなければいけない。人付き合いが好きな方ではなかったが、一人で過ごすとなれば何事かやることが無いと存外難しい。
詰まるところ、私は暇だった。
昔から余暇を過ごすというのが、多分上手くない。下手だ。子供の頃は身体が本当に弱かったものだから、選べる事といえば、大人しく本を読むか、眠っているかの二つきりだった。
少し成長し、何とか人並みに過ごせる程度になると、暇さえあれば与えられる仕事に励む日々。勿論無理は利かないので、仕事以外は基本家で休むしかない。そうすると、読書するか眠るかのまた二択に戻ってしまう。
そんな繰り返しだったので、趣味らしい趣味もほとんど無い。流石に今更本を読みたいかと言われればそうではなく、折角なのだから何処かへ遊びに行けばいいのだと思う。
自由というのは果てしない。広大で、圧倒的で身勝手だ。相応しい目的の場所など、いくら考えても見つからない気がした。
「で、結局また釣りに行ってきた訳か」
「はい、今日の釣果は雨魚です。綺麗な魚ですね、目の淵の線が睫毛みたいで可愛らしくて」
「女王と呼ばれる事もあるからな」
「女王様なんですか。素敵、ぴったりな呼び方ですね」
「それに身も美味い、良い魚よ。しかしよく釣れたな。割に難しいのだが」
「教えてくださったポイントで狙ったんですよ。先生のお陰です」
結局何もやりたい事が思い浮かばなかった私が、何か先生と同じ事をしたいと考えるに至ったのはごく自然な成り行きだろう。家にあった釣竿を借り、存在すら知らなかった釣具屋で餌を買って、里の外れの渓流を二人で上る。息が切れ、足が縺れようが肺が苦しくなろうが、この身体では構わない。上手く出来るのか不安だったが、一から教わりながら試してみると案外楽しかった。
さらさらと流れる澄んだ清流の水、時折ひらりと光る魚の腹、ひっそりと静まり返った森の気配。黙って釣竿の先を眺めていると、自分が透明になった心地がする。それが酷く心地良い。
最初の日こそ二人で行ったのだが、それ以降は一人きりでも何度か通っていた。彼が好んだひそやかな趣味を追体験出来るようで嬉しかったのかもしれない。誰かの真似をして無邪気に喜ぶような、幼げな満足感だ。
「釣りは向き不向きがあるが、退屈ではないのか」
「とんでもない、とても楽しいです。魚が釣れる事自体も嬉しいですけど、なんだか瞑想に似ている気がしますね。ずっと静かに待っていると、外側を見ているのか、内側と向き合ってるのか分からなくなって、不思議と心が落ち着きます」
箸で器用に身をほぐしている先生を見つめながら、そう答える。流石に好物だけあって、魚を食べるのがとても上手い。丁寧に皮を破り、骨に付いたどんなわずかな小さな欠片も一つも見残さずに取り上げる。ひたむきで真摯な姿勢は、不思議な敬虔ささえ感じさせた。
焼けてしまったのでもう分からないが、その身体に描かれていた控えめだが何か秘密を隠し持っているような思慮深い斑文、はっとするほど瑞々しい艶やかな朱の斑点。こんなに美しい魚がいるのか、と少し驚いた。そんな美しいものが今この瞬間に彼の口に運ばれ、身体の管を通り、細胞ひとつ一つへと吸収されていく営みは想像するだけで心が躍る。行ってきてよかった、改めてそう思う。
食べ終えた先生が一息つき、こちらに目を遣る。美味しかったですか、と問うと満足げに頷いた。
「ところでイノリ、何処か他に行きたいところは無いのか。近々休みが取れそうだ」
「珍しいですね、お休みなんて」
「ここの所、特に詰めていたからな。流石に周りがうるさくて敵わん」
「いつもお忙しいですからね、私もですけどみんな心配なんです。でも、そうですね……。お気持ちはとても嬉しいですけど、大丈夫ですよ」
お疲れでしょう、と首を傾けて私は笑う。火影である先生は、日々本当に忙しい。というより、火影になる前から彼はずっと忙しかった。いくら私が必死に書類を片付け、紙の束を減らそうと、いつも彼の机の上には抱えきれない位の案件が山積みになっている。何もかも埋め尽くすほどの紙の洪水で、決して自棄になる事も途方に暮れる事も無く、淡々と草稿を書き連ねる。一枚、また一枚と。かさこそと静かに紙が囁き合う音。静謐な眼差し。迷いのなく筆を走らせる白い指先。そんな姿ばかりを生前見ていた。
元から身体が丈夫という事と、自己管理もしっかりされた方なので、無理をし過ぎるという話は聞いたことが無い。だが、それでも仕事は多かった。多過ぎる。そんな合間を縫って、里内外の公務や諸外国との外交、術の開発や後進達の指導にも当たられているのだから本当に凄い方なのだ。だからこそ、休める時には休んでほしいと思うのが部下心である。
「お前は本当に欲が無いな……」
「そうでもないですよ、お側にいられるだけで充分ですから」
「またそれか。相変わらずだな」
そう言って、先生は少し目を伏せて口を噤む。彼と過ごす時の静寂が、私は好きだった。先生は醸す雰囲気の割りに口数が多い方だが、私が何かを話すときはきちんと耳を傾けてくれる。取り留めのない話をして、ふと無言の沈黙が落ちる。鼓膜に蹲るひそやかさ。それは、軽率な饒舌などより遥かに奥深い、何事にも乱されない滑らかで凪いだひと時だ。
――二人きりの世界のようだ、と。私だけが彼を独り占めしているような、そんな烏滸がましいまでの錯覚に浸る。無欲の皮を被っただけで、随分と欲深い。強欲だ。
けれど欲深はいけない、どうしたものかと神妙に顔を顰めていると、元より目尻を緩めていた先生が一層目をたわませる。――珍しい、今日は随分とご機嫌がよろしいらしい。先生は周囲の者に理不尽に当たることは少ないが、必要以上に甘く接することもない。自他ともに厳しい人。そういう印象を長く抱いていたのだけど。
よくよく考えれば、そうでもないのかもしれない。少なくとも、ここ直近の記憶では威厳ある厳格な為政者というより、出合った頃の生真面目な年長者という色が強い立ち位置だった。雰囲気が幾分かやわらかい。優しく、か弱きものを見守る父性に溢れていた。
どうしてなのだろう、囁くように疑問が掠めていく。――そう、きっと彼は私に同情しているのだ。先が分かっていたとはいえ、年若い教え子が自分よりずっと早くに死んでしまったから。胸の奥に湧き上がる居心地の悪さをそっと拭うように、そう言い聞かせる。
黙っている私を、頬杖を突いた先生がじっと眺めている。透き通った風変わりな色の目に何もかもを見透かされている気がして、少し決まりが悪い。
「なあイノリ、少しくらい我儘を言ってみろ」
「……私には勿体無いです」
「そう言うな。今更だがな、恋人らしいことの一つくらいさせてくれ」
こいびと。その言葉を反芻する。聞き慣れていない訳ではないが、あまり馴染みのない言葉ではあった。私にはなんとも不恰好で似合わない。言いようもなく困ってしまって、私は少し眉尻を下げる。
私と先生は、確かに恋人同士だ。教え子と指導者、部下と上司。そんな関係のほんのささやかな片隅に、その四文字は隠れていた。いつも隅の方で蹲り、じっと物静かに身を潜めている。
告白という程のものではなかったが、その関係に導いてくれたのは先生だった。厳格で無駄を好まれない彼が、というのは随分私を驚かせた。年も離れているし、何より私には先が無い。末期の床で言われたものだから、応えるにしても何もかも遅過ぎた。合理的な判断とはとても言えない。
いくら彼から示されたものを何事もただ飲み込んでいた私でも、それだけには異を唱えた。先生の名誉にかかわる、そう思ったからだ。
それでも、時折ふと思い出すことがある。生前の、ある夜の、先生の目。いつもと違う、冷然とした静けさの代わりに酒と煙草の匂いに浸されていた執務室で、先生は夜の底に灯る焔のような目をしていた。その目で、私を見ていた。
煮詰めたように揺れていた赤が、何を湛えていたのかは私には結局分からない。怒りとも悲しみとも焦りとも、どれも違うような。そのどれでもあるような。彼が苦しんでいるのは分かる、だけど何に苦しんでいるのが分からない。だから何とかして差し上げたかった。
分からない、と改めて私は思った。身体を求められているのは分かったけれど、どうしてなのか。先生が何を抱えているのか。私はどうすればいいのか。
何も分からなかった。あの時もそれだけしか思えなくて、先生にそう答えた気がする。泣きながら、分からないのが怖くて。何が怖いのかも分からなくて。
縋り付くことしか出来なかったが、先生は突き放さなかった。抱き締めてくれた腕が苦しいほどにあたたかくて。それだけが確かに心に焼き付いている。
きっと、酔った勢いの気の迷いだった、それ以外の他意はない。そう弁えて仕舞い込むつもりだった。そうすることは得意だから。それでも引き摺りだしたのは他でもない先生だった。
彼は尊い人だ。里を第一に考え、民の健やかな日々を守ろうと一心に奮闘してくださっている。未だ独り身ではあるので色恋の道徳において確かに自由とはいえ、私のような存在に気を取られていてはいけない。独占してはいけない。みんなの、木の葉の里の千手扉間であるのだから。
そう言ったのだが、先生も中々頑固である。一度決めたら必ず押し通す、豪気な気概。噂で聞いた限りだが、若い頃はかなり手も早かったという。質の悪い冗談だろうと思っていたが、どうにも本当だったらしいと私は思い知った。決して無理矢理ではなかったが、逃げられないようにあらゆる手筋を断って詰めてくる。末期でふわふわと細った精神では、到底太刀打ち出来なかった。
結局、覚悟空しく絆されてしまったのだ。情けない、死ぬ一か月前の事である。
そうはいっても、私達の関係はあまりにひそやかだった。きっと誰も気付いていなかっただろう。手塩にかけた教え子を見舞う、面倒見の良い師匠。あるいは、部下を惜しむ、情に厚い上司として。その枠にぴったりと収まっていた筈だ。
執務の合間を見て、短く言葉を交わしに来る。病室でのやり取りは、執務室での過ごし方そのままだった。ただ、同じ時を共有し、同じ静寂に耳を澄ませる。目を合わせてゆっくりと頭を撫でられるのが、別れ際の合図だった。
「でも、本当に充分なんです。お側にいて下さるだけで、――生きてこの世に居てくださる、それだけで」
先生の事が好きなのかと考えれば、当然好きだ。けれど、この好きは世間一般の情愛とは恐らく異なる。私は先生を崇拝している。誰よりも素晴らしく、誰よりも大切だ。敬い、その足元に傅くことが至上の喜びである。神や仏を拝する者が――無くは無いのかもしれないが――彼らに性愛を抱くわけはないだろう。その感覚に近い。
恐れ多いのだ。いて下さる、見ていて下さる。それだけで私は十分だった。
「無欲なわけじゃないんです。私、きっと先生の事を神様だと思ってるんですよ」
「……また奇っ怪なことを」
「ごめんなさい、突然変な事を言ってしまって。でも、先生がいてくださるだけで生きてこれたから。きっと生きるための信仰ってそういうものだと思うんです」
「一理あるだろうが、自分自身が対象だとぞっとせんな」
彼は私を助けてくれた。たった一人で空白に紛れていきそうだった私を、両手で掬い上げて息を吹きかけ、輪郭を形作ってくださった。私を救ってくださったのだ。
例え短い一生でも、私は彼がいたから生きてこれた。生きようと思えたのだ。なんて尊く、有難い存在だろう。
宗教なんていうものは、自分が信じたいと思うことに理由を付け、勝手に拠り所とするものなのだろう。宗教者ではないから手前勝手な考えではあるが、生きる理由として宗教を上げるならきっと同じだと、私はそう思う。
信じたいものを信んじて、体よく自分を騙す。都合のいい欺瞞である。幸せになるのは、信仰という耳触りの良い嘘があれば簡単だ。軽々しく見返りを求めることなく、ただ忠実に尽くすことだけが至上の喜びだ、と。そう思い込むだけでいい。対象の干渉は問わない、一人だけで循環する思考の営みである。
先生が深く溜息を吐く。大きな手を伸ばされ、乱暴に頭をかき混ぜられた。痛いですよ、と見え透いた嘘が口を衝く。
「何のために転生させたか、分かっとらんだろう」
「だけど、未練が出ちゃいます。きっと」
「今更だ。俺はお前が思う程、出来た男でもないぞ」
「存じていますよ、告白して下さったのは先生ですから。でも誰よりも優しいっていうのも知っていますから」
「一端に言うようになりおって」
「生意気ですか?」
先生は、私を慈しむのではなく、今度は愛そうとしたのだと思う。私がもう少し素直で、そして何より生きていたのなら、心の底から喜んだだろう。一心に愛されるのでも、例え一時の仮初でも構わない。ただ嬉しい。その透き通った指先が頬に触れ、ひそやかな言葉が鼓膜に染み入る。想像するだけで狂おしい。きっと、得難く幸福だろう。
けれど、それは生前も、今の私にもまた過ぎたことだ。彼は私だけのものになってはいけない。眩しく尊い、この里の父なのだから。身に余る。所詮は生者と死者のどこまでも不毛な遊戯でしかない。
置かれた手を両手で包み、僅かに頭を垂れる。ちょうど、祈りを捧げているようだった。目線だけを上げ、仰ぐようにその目を見る。
「いい子でいさせてください、先生」
慰めも寵愛もいらない。ただ側で仰ぎ見るだけで構わない。そして許されるなら、また釣りに行き彼の糧となる魚を捕えたいと願う。私が捧げられるものはもう何も無いのだから、せめて供物を捧げたいのだ。貴い彼に見合うような、一等美しい神饌を捧げることをただ許してほしい。
――嗚呼でも。
私はきっと、彼に食べられるあの美しい女王に嫉妬している。