5. The earth shall soon dissolve like snow The sun forebear to shine; But,God who called me here below, Will be forever mine.


 意識がゆっくりと掬い上げられる。深く澱んだ水底から、ぐっと重力に抗う粘度の高い感覚。四肢が緊張する。水圧に耐えながら身を固くすると、ある一点でふうと力が抜けた。
水中で朱が混じり赤く色付いていくように、ゆるやかに意識が覚醒する。
多分、私は目を覚めた。

「此処は……」

思わずそう呟き、辺りを見回す。生々しい土埃。焦げた硝煙。骨にこたえるほどの血の臭いが鼻につき、思わず口元を手で覆った。辺りには幾体もの死体が散乱している。その全てが眩むように赤い。吐き気を催すような凄惨な眺めだ。
――此処は、どこだ。此処は地獄か。
かたかたと鳴る奥歯。逃げるように後ずさった。喘鳴が喉から零れ落ちる。耐え切れずに固く目蓋を閉じた。手を組み合わせ、祈るように誰かを呼ぶ。

「イノリ……」

細く聞こえた名前に振り返る。今まさに思い描いていた声。まさか。

「先生――っ、どうされたんですか!」
「すまんな、こんな姿で」
「嗚呼そんなっ、どうして」

夢中で膝をつき、その身体を抱き起す。甲冑は砕け、肢体が抉れ、口からは鮮血が溢れていた。元より白い顔は暗く青褪め、血の赤がまざまざと映える。震える手で口元を拭った。拭っても拭っても湧き出すように溢れる喀血に、声が掠れる。嗚呼いやだ、嘘だと言って。どうして。どうして――。

「此処は里の近くですか。待っていてください、今すぐ人を――」
「いい、どのみち助からん」
「ですがっ!」
「イノリ」
「……、先生っ」
「いいから、少し話をさせろ」

焦点の定まらない瞳が、虚ろにこちらを見遣る。血塗れの手がゆらゆらと上げられ、私の頬を捕らえた。滑り落ちそうな弱弱しい掌を必死に支える。そうすると、先生は酷く安らいだ表情を浮かべた。

「二度もお前を勝手な私欲に付き合わせてしまって、話を聞けというのも無理筋だがな。許せよ」
「そんな、これ以上はお体に障ります。どうか、もう――」
「死に目に、好いた女に会いたかった」

力なく頭に手を回され、その重みで引き寄せられる。割れた額当てに額が付くような格好になった。暗い洞窟の奥から時間をかけて吹いてきた風の音が、その喉から絶えず鳴っている。懸命に耳を澄ます。細い声を一言も漏らさないように、息をする事さえ忘れていた。こんなにも赤い目は瑞々しく、白い肌は潤っているのに。これでも死んでしまうだろうか。とても死んでしまうように思えない。終末が分かり切った現実でも、その先は信じたくなかった。

「お前が死んで、もう何年も経つ。里は安定し、若き火の意志も多く育った。悔いなく生きたと思っておる」
「扉間先生……」
「私情を殺し、里に尽くした。最期くらい、耄碌した老い耄れの戯言に付き合ってくれんか」

まるで縋るような言葉に、声を失う。次第に頭の芯が冷えていくのを感じた。多分、彼はもう死ぬのだろう。きっと死んでしまう。その言葉がすとんと胸に落ちた。あるべき場所に収まったような、そんな安らかささえ持って。
固く手を握りしめる。なら、私に出来ることは取り乱す事でも大声で喚き散らす事でもない。誰に囁かれたのでもなく、そう理解した。重要なのは、思慮深く付き従うことだ。微かに唇を震わせ、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「勿論です。約束しましたものね、また会いに来ますって」
「全くだ。貴様があまりに遅いから此方から呼んでやったまでよ」
「ごめんなさい、遅くなってしまって」

先生が僅かに口の端を上げる。目を細めると、白く粒子の細かい肌に微かに皺が入るのが見えた。見た目があまり変わらないので分からなかったが、きっと私が思うより長く待たせてしまったのだろう。何年、もう何十年と経ってしまっていたのかもしれない。太陽が出て、また沈む。月が出て、また沈む。星が出て、また沈む。天体たちが東から西へ、東から西へと落ちていくうち。何千回と繰り返される間、こうしてずっと私を待っていてくれたのだろう。

「ワシも老いただろう。お前はいつまでもあの日のままだ、今更応えろとは酷かもしれん」
「……そんなこと、ある訳がありません。先生は、ずっと変わらず美しいままです」

心の底からの声だった。気高さを失わない眼差しも、誇り高い声も、その命が尽きるまで燃え上がる意志も。どうして美しくないと思えよう、愛さずにいられよう。

「こんなにも傷を負われてまで、最期まで里の為に尽力されて。どこまでも尊い、美しい生き様です。愛しい我らが里の父よ」
「……止せ、そうではない。イノリ、矢張りお前少しばかりズレとるな」

何も分かっとらん、と呆れたように言われたので、面食らって虚を突かれた顔をしてしまう。その様がおかしかったのか、先生は力が抜けたように微笑んだ。ふとした瞬間に見せる、私が大好きな笑顔だった。すぐ側にあった筈なのに、もう随分と遠くに感じる。乾いた目の奥が熱くなった。零れる涙で愛しい姿がかすまないように、どうしようもなく目を細める。
遠い昔に何度も聞いた、慈愛に満ちたひそやかな声。教え、諭す優しい声で彼は続ける。足りない世界を埋めるように。

「里は次代に託した。ワシの役目はもう終わりよ。なあ、イノリ」
「はい」
「もう、二代目火影ではない。ただの男だ」
「はい、……」
「お前に惚れた一人の男として、やっと向き合ってはくれんか」

なんて不器用な、伝え方だろう。思わず私は笑ってしまった。いつだって、その言葉は迷いがなく整然と並んでいたのに。こちらを切り崩すような詰め方をしていたのに。随分と、回りくどい言い方をされるようになった、と思う。言ってしまえば怒られるのだろうが、まるで子供のようで可愛らしい。
なんだか、急に彼が愛おしくなった。貴いと見上げるような気持ちがするすると下に降りてきて、目の前で手を取り合って向き合うことが出来る。対等な気持ちでいられる。やっと、想いを伝えることが出来るのだと私は確信する。もう何年も前から、何十年も昔からずっと心であたためて、一等大事に抱えてきた言葉。今更考えなくてもいい。小さく息を吸い込めば、当たり前のように喉の奥深くから零れ落ちた。

「愛しています、扉間様」

どちらともなく唇が静かに触れ合う。睫毛がぱさりと軽く掠めた。薄く開いた目蓋から覗く、潤んだ瞳孔を見つめながら私は続ける。

「好き、大好きなんです。ずっと、ずっと昔から好きでした」
「ワシもだ、イノリ。生涯愛したのは、ただお前だけだった」
「やっと、私だけの貴方になってくれますか」
「勿論だ」

腕にかかる重みが僅かに増す。取り落とさないよう、注意深く抱え直した。一部の空白も空かないよう、しっかりと身を寄せる。
周り一面は地獄の景色だ。事切れた躯が虚ろに天を仰ぎ、血が海のように淀んでいる。惨たらしく、惨憺たる世界。けれど、そんなものはもう目に入らなかった。傍から見れば、きっと気が狂っているように見えるに違いない。それでもいい。盲目でも狂信でも、愛する人と一緒にいられるなら地獄の底も天国だろう。目に映る世界は、彼がいればただ美しい。

「愛している、イノリ」
「私もです、扉間様だけを愛しています。もう二度と、離さないでくださいね。ずっと愛していてくださいね」
「共に逝こう。今度こそ、永遠に一緒だ」

なんて甘美な響きだろう。もう間も無く、世界は途絶える。彼がいない世界など太陽も月も落ちた終末に相違ない。それでも、永遠に私は貴方と共にあるのだから。もう私達を遮るものは、枷は何も無い。私と貴方だけ、たった二人だけの世界。

その唇に、ひとつ口づけを落とした。冷えた唇はゆっくりと温度を失っていく。永遠の沈黙が降りる。世界が消えてしまったような濃密な静寂に、私はじっと耳を澄ませた。

fin.


額縁