4. Was blind, but now I see.
「よかったのか、こんな所で」
「ずっと見たかったんです。子供の頃からの夢でした」
軽やかな砂を踏みながら、波打ち際へと腰を下ろす。海と陸との境界は驚くほど曖昧で、絶えず寄せる波が不安定に定めている。
半透明に白い波はさわさわと、風に揺れるカーテンのようだ。一針ひと針丁寧に編んだ泡のレースが繊細な襞を描き、たっぷりと砂浜を撫でている。
その波を避けるように、乾いた砂を両手いっぱいに掬い上げた。掌から溢れる砂は見たことがないほど細かくささやかだ。少し手を緩めれば、光が零れるようにさらさらと落ちていく。
夢の手触りを表すなら、きっとこの砂のような手触りだろう。指先から逃げていき、すぐに風へと消えていく。
この砂が一面に広がる世界は、真っ白な夢のようになるのだろうか。厳粛に肩を寄せ合うように海を縁取る砂浜を眺め、そう思う。
あまりに海の青が深いから。あまりに空が鮮やかだから。きっと持っていた色を全部吸い取られてしまって、こんな抜け殻のような色になったのだろう。白々と続く地平は死後の世界だ。生き物が死に絶え、その乾いた骨や遺骸の欠片が降り積もって大地となり、静寂に寄り添っている。
掻い摘んで取り留めなくそう話すと、砂の忍に怒られるぞ、と笑われてしまった。
「確かに、砂漠というのは荒涼とした眺めだがな」
「でも、砂漠にも生き物はいるんですよね。そうですね……、月の方が近いのかもしれません」
ちいさなヤドカリが歩いていたので、指先で追い掛ける。何か大切な秘密を待ってるように臆病で、すぐに貝殻に隠れてしまった。
足元に落としていた視線を上げる。延々と続く、青に満ちた地平線。私は目を凝らし、見えるはずもない彼方の果てを想像する。
「私、人は死んだら月に行くって思っていました」
「珍しいな。普通、空なら星だと言うが」
「目があまり良くないので、星ってぼんやりしか見えないんです。だから、どうもしっくり来なくて。もし行けるなら、月がいいなって思ってたんですよね」
「願望か」
「ただの空想ですね。結局、月には行けませんでした」
肩を竦めて少し微笑んだ。
「死んだ後のこと、はっきり覚えてはないんです。病室で目を閉じて、それから気が付くと真っ白な世界にいて。目を覚ますと先生がいらっしゃいました」
「ほう」
「寂しくはなかったですよ。終わりまで側にいて下さったから、その思い出にずっと包まれているようで」
立ち上がり、手についていた細かい砂を払い落とす。靴紐を解いて裸足になり、寄せる波に足を浸した。冷たい。足首を掠める澄んだ水。蹴上げるように歩くと、光を受けて飛沫がきらきらと瞬いている。遠い水平線は水晶を砕いたように輝いていた。辺りはひっそりと静まり返り、波の音ばかりが鼓膜に馴染んでいる。
見渡す限りの、濁りない青だった。身体が透き通っていくような、そんな清々しい景色だ。
なんて、綺麗な眺めなんだろう。泣きたくなるほどに、どうしようもなく美しい。いつまでもこの透明な海に揺蕩って、ずっと此処に立っていたい。
叶うのなら、許されるのならば。その隣で、この先も。
「もう、終わりにしましょう」
振り返ることが出来なくて、ただ海を眺めながらそう言った。波の音が私の声を隠すように寄り添っている。
「見れなかった世界が、こんなに綺麗だなんて。先生が愛した世界が、こんなにも美しいなんて知らなかった。昔から、いつも私の知らないことを教えてくださいましたよね。ありがとうございます」
少し口を噤めば、海鳴りがくっきりと輪郭を持って聞こえた。ひそやかで、どこまでも思慮深い。何千、何万年と積み重ねられ、それでも決して疎かになることも休むこともなく、連綿と続いてきた音楽である。
海は全ての生命が生まれ、帰る場所だと誰かが言ったか。私も、そこに還るのだろうか。そして、またいつか会える日を待つことが出来るのだろうか。月でもいい、海でもいい。天国でも地獄でも構わない。行き着く先が一緒であればいいと思う。
「もう、充分なんです。もう充分過ぎるほど見せて頂きましたから。これ以上いたら、もう離れられなくなっちゃいます。ずっと、此処にいたいって」
「……いればいいだろう」
「無理ですよ、先生」
この身体の便利なところは、胸が高鳴らないことだ。情けなく泣きじゃくり、大切なことを言えなくなってしまうという心配がない。その範疇を越えようとせず、忠実に役目を全うしようと付き従う。こうやって、先生にきちんと伝えることが出来る。やっと、自分で考えて自分の言葉で伝えることが出来るのだから。
「死んじゃいましたもの。本当は、もっとお側にいたかった。生きていたかったんです。でも、もう無理でしょう? 死んだら、人は終わりなんですよ。ねえ先生――」
一度言葉を切り、砂浜に立つ彼を振り返る。目を細めた。けぶるように光を受けて立つ先生の姿が、あまりに眩しかったからだ。
「どうか最後まで聞き分けの良い教え子で、いい子のイノリでいさせてください」
「……お前に諭される日が来るとはな、随分と立派になったものだ」
「いつまでも子供じゃありませんからね。やっと分かって頂けました?」
「とっくに知っていたわ。分かりたくはなかったがな」
その言葉に苦笑する。
「そういえば、どうして私のことずっと子供扱いしてらしたんです? 私、そんなにご迷惑でしたか?」
「そうではない、ただの欺瞞だ。お前を女として求めていた、それゆえ子供だと思って自制でもしなければ歯止めが効かんかったまでのこと。全く、人の気も知らんで。お前はとかく俺のことを持ち上げるが、俺とてただの男だぞ」
「それは、……なんだか、申し訳ないですね」
「だから言っただろう、まだ子供だと。イノリ、お前この手の話には相当初心だろう」
「そう、ですけど……。残念だなあ、やっぱり先生には敵いませんでした」
「当たり前だ、小娘ごときにいつまでも乱される俺ではないわ」
濡れてしまうのも構わず、側に歩み寄った先生に、そっと頬を撫でられる。風で乱れていた髪を耳に掛けられ、くすぐったくて肩を揺らした。
「付き合わせて悪かったな」
「いいえ、先生の望んでくださった事ですから」
「強欲さに愛想が尽きたか?」
「まさか」
頬に添えられた手に掌を重ね、少し目を伏せる。あたたかな手が溜まらなく優しい。思わず頬擦りした。残酷なほど生きている温度がじわりと伝わる。嗚呼あたたかい。目蓋が、指先が、心臓が。解けていきそうだ。
満足のいく人生ではなかったが、幸せな一生だった。先生の為に生きられたこと、少しでもその足元に傅くことが出来たこと。良い生き方だったのか愚かな生き方だったのかは分からない。誰も肯定も否定もしてくれなかったが、他でもない先生が見守っていてくれた。後悔も選択もなくただ懸命に生きようともがいた私を、いつも側で見ていてくださった。何処に居られるかと問えば、ここに居ると頷いてくださった。全てを捧げることが出来た。
それ以上に一体何を望むだろう。幸せだった、この上なく幸せだ。
「幸せでした、とても」
「イノリ、俺はお前を――」
開きかけた先生の口を遮るように、人差し指を静かに立てる。しぃ、と噛み合わせた歯の隙間から息を吹いた。ひと時の沈黙が降りる。壊してしまうのが惜しい程の、安らかな静寂。そっと息を呑み込んだ。
二人で分け合った静寂は、驚くほど優しい感情で溢れていた。静寂がたくさんの思いに満ちているのを私は知っている。耳を澄ませ、そのひそやかさに耳を傾ければ何もかも分かった。言葉はいらない。これだけで充分なのだ。
仰ぎ見るように視線を合わせた。微かに首を傾ける。
「それは、言わないでください」
「……存外、勝手な女だな。聞いてもくれんか」
「大人って勝手なものでしょう。先生だって」
「なんだ、一端に言うようになったな」
「師匠がいいですからね」
そう言って笑う。先生もつられた様に目を細めた。
「お側にいて下さるだけで、それだけでいいんです。何もいりませんから」
「またそれか。分からなくもないが」
「先生?」
「お前が思うように、俺も同じくそう思っていたからな。イノリ、お前は光だ。純真で無垢で、穢れがない。お前のような者を守るために、今までどんな手を使ってでも戦い続けてきたのだ。生きて側にいる、本当はそれだけでよかった。お前が笑い、ただ頷いてくれるだけでどれほど救われてきたことか」
「勿体ない、御言葉です」
「その一生が幸せであったなら、今はただ嬉しく思う」
思わず言葉を詰まらせた。優しい手が、ゆっくりと頭を撫でる。いつもの、別れ際の合図だった。
「最後に少し、欲は出たが」
「それは、先生も勝手な大人、だからでしょう?」
「そうだな。まあそれに、綺麗事だけでもない」
「――っ、」
頭を撫でていた掌に力が籠められ、ぐっと持ち上げられる。視界いっぱいに埋まる、泡のように繊細な睫毛。目を見開いた。
「せん、せっ……」
開きかけた口から熱が差し込まれる、ぬるりとした感触。渇いた舌が絡み取られ、吐息さえ奪われる。じわりと滲むように溶ける熱が、温度の無い身体に染み込んでいく。味わったことのない痺れが背筋を撫で、堪らずにその胸元に縋りついた。
――どうして、と。そんな思考はすぐにほつれて消える。貪るようで、酷く甘い。
何も考えられなかった。声帯をそっと救い上げられてしまったように声すら出ない。ただ彼だけで満たされている。
ゆっくりと唇を離され、放心してその潤った瞳を見つめる。底意地の悪そうな、楽しげな笑み。我に返り、その顔を睨み付けた。
「……っ酷いです、こんなの。未練、出ちゃうじゃないですか」
「言っただろう、勝手な大人だと」
「私、ずっと我慢してたんですよ? 酷いですよ、人の気も知らないで」
「お互い様だ。俺とてどれ程耐えていたと思っている。それに、むしろ嫌いになれてよかったろう」
「――馬鹿っ」
思わず声を荒げた。その言葉は捨て置けない。
「先生は私の、全てだったんです。先生がいたから生きてこれた、幸せだったんですよ。全部貴方のお陰なんです。先生がいてくださったから、本当にそれだけなんです。私の世界そのものだった。私には貴方だけだった。それなのに今更嫌いになんて、なれる訳ないじゃないですか……」
「だろうな」
「知ってるくせに陰険です。――っ、どうして笑うんですか!」
先生が肩を震わせ笑う。細められた赤眼は蕩けるように優しい。薄い唇は綻ぶように淡く微笑んでいた。あどけなくさえ感じる、やわらかな笑顔。どこか切なげで、うっとりするほどまろやかだった。それを見ると、私はもう何も言えなくなってしまった。
「すまん、可愛くてな。それにしても熱烈な告白ではないか、なかなかどうして見かけによらんな」
「もう、これ以上困らせないでください」
「悪かった。しかし、イノリ、お前はそんな顔もするのだな。もう長い付き合いだが、怒ったところなんぞ初めて見たぞ」
「……すみません、お見苦しいところを」
「いや、やっとお前の本心に触れられた気がする」
「嘘じゃないんですよ、今までのこと。でも、そうですね……。やっぱり我慢はしてました」
幸せではあった。幸せだったが、きっと満足のいく一生ではなかっただろう。耳障りの良い嘘で自分を誤魔化し、綺麗なだけの虚像を演じていた。信じ込めば、虚構は現実になる。いつしか本当の望みなど忘れてしまった。
欲の果ては限りがない。ただ敬虔な一人として、敬愛で満たして求めないのは楽だった。願うというのは、存外疲れるものだから。
――今なら、祈ることは。願うことも許されるのだろうか。
最後に、お願いさせて頂いてもいいですか、そう問い掛けた。先生が頷く。澄んだ柘榴色の瞳の奥には、鮮やかに映り込む自分の姿が見えた。
「待っていてください、きっとまた会いに来ますから」
頬に手を添え、背伸びをする。額を合わせれば、ほんのささいな空間が出来上がった。二人だけの小さな世界に、私はそっと囁きかける。
「扉間先生、お願いします」
「嗚呼、――イノリ」
「なんでしょう」
「必ず、また会いに来い」
「御心のままに」
「決して違えてくれるなよ」
「勿論です、貴方が望んで下さるなら」
彼の瞳に映った姿が、さらさらと崩れていく。この空に、海に、砂に。美しい世界のすみずみに私という意識が拡散していく。
この世界が素晴らしいと知れて、本当に良かった。この世界に溶けるのであれば、何も怖くない。寂しくもない。ただ、幸せだとそう思える。貴方が愛したこの世界は、こんなにも美しいのだから。
ふわりと軽くなるような高揚感。透けかけた手で、けぶる白銀の髪を梳った。その額に透明なキスをする。
きっとまた、会いにきますから。
「ずっとお慕いしています、扉間様」