霧の紗幕

糸のように細く、絹のように滑らかな雨が降っている。雨音はしない。霧が凝ったような雨は音も無く流れ、密やかに夜を濡らす。夕闇が空を染めるかの如く粛々と。
梅雨の、長雨である。四半刻も佇んでいれば、着物はしっとりと濡れそぼってしまっていた。水気を孕んだ空気は重い。煩わしげに張り付く髪をかき上げれば、自然溜め息が零れ出た。
雨は、嫌いだ。
元々忍とって、天候は時として脅威ともなりえるのだ。雨が降り頻っていれば視界も当然悪くなる。瞳術を使う己にとっては猶更である。そんな事以前にも、濡れそぼる感覚は不快であったし、湿度を帯びた大気が皮膚を撫でていくのは我慢ならない。
良い事等、一つも無い。
嫌いというよりかは、寧ろ厭という感覚に近しいのかもしれない。そう。単純に、厭なのだろう。雨の日は、思い出したくも無い事ばかりが思い浮かぶ。耳鳴りばかりが反響する。胸の底に、届かぬ聲ばかりが凝っていく。
陰鬱な空は、捨て置いてきた筈の過去ばかりを想起させる。取るに足らぬ事であるのだが、雨が降る度思い起こしてしまうのだ。
とっくに、切り捨ててきた筈なのに。未練がましい事である。

茫洋と考えを巡らせている内に、愈々本降りになってきたようだ。ざあざあと篠突く雨は葉と葉の隙間を辿り、容赦なく打ち付ける。
ひやりとした。
動こうにも、もう気力すら無かった。
負け犬だ、と誰かが囁いた。無様だ、と誰かが嘲笑う。嗚呼五月蝿い。捨て置いてきた筈の過去が嗤っている。ざわざわ、ざあざあ。
誰にも看取られず、誰にも悲しまれずに死んで逝く。たった一人きりで。
似合いだろう、とは分かっていた。哀しくなどはない。寂しくなどはない。生き恥を晒す位ならば、ひそやかに一人朽ち果てていく方が余程ましだろう。

ただ、
最期の時に、一体誰を思い浮かべたらよいのか。
護ってやれなかった弟を悼めばいいのか。
死んでいった同胞達を悔やめばいいのか。
終ぞ敵わなかった親友を恨めばいいのか。
それとも、――

頭に靄がかかる。芯が痺れているようだ。脳髄は蕩け、ゆらゆらと揺蕩っている。
苦しくはない。淋しくもない。

ただ、少しだけ
寒いようだ。


  
額縁