雨が止みませんね、と女は言った。何気無い口調である。通りすがりの顔見知りにでも会ったかのような、軽やかな気安さが込められている。しかし、押し付けがましくはない。その聲は、寧ろ奥ゆかしくさえある。此方をそっと伺っているような慎みも孕んでいた。
妙な、女だった。忍には到底見えない。だが、堅気にも凡そ見えない女である。
固く古びていながらも、上質な香の焚き染められた褥に寝そべりながら、改めて女の姿を注視する。窶れている。取り立てて不器量という訳ではなく、どちらかと言えば美人と評せられる類の顔立ちだろう。だが、その面には青褪めた憂いが影を落としていた。果敢無げというよりかは、幸が薄い。憂いを帯びた顔付きをしながらも、不幸そうに振舞っている様子はなかった。寧ろ、何処か楽しんでいる様にも見て取れる。質素ながらも、振る舞いは洗練され上品な物腰である。随分と若くも見えるが、相応に歳を重ねているようにも見える。
何処か、不釣合いな女だった。付随する属性が悉く相反している。
知らない筈なのに、知っている気もした。
――否、そんな事は有り得ない。この女とは、初対面だ。
会った事など一度も無い。ならば、己の知る誰かと似ていたか。
女は窓の外を眺めている。外は薄暗く、闇の向こうで雨が降り頻っている。
幽暗とした夜である。
「白湯でも、お持ちしましょうか」
唐突に、横顔が此方を振り返る。女の方を眺めていたものだから当然目が合ってしまい、不覚にも動揺した。思わず逃れるように目を逸らす。
「……構うな」
「そう仰られても、乗りかかった船ですから」
女の聲と共に衣擦れの音が零れる。開け放した襖の向こうへと消えていく足音を辿りながら、茫洋と暫し放心した。女は内所にでも向かったのだろう。古びているが、それなりに広さのある屋敷のようである。此処に来て五日になるが、この部屋から出たことも無いのだから只の想像であるが。
――そう、五日だ。もう五日も経っているのだ。
可笑しな感覚だった。五日前に俺は死ぬ筈だったのである。風雨に晒され、行き倒れて朽ち果てる身だった。本来ならば生き長らえる事など出来なかった程に外傷は深い。木の葉の長、柱間との因縁に終止符を打ったのだ。結果、俺は敗れた。昔から一度も敵う事は無かった男に、終ぞ追い付く事は出来なかった。あの男はいつも遠い。いつも、いつも。
生き長らえた所で、居場所などはとうに無かった。
死に場所を選びたかったのかもしれない。負け戦だった。勝てるとは、多分本心では思っていなかったのだ。弟も、一族も、居場所も、最早何もかもを失った。生きている意義など見失ってしまっている。だからこそ、せめて嘗て夢を語り合った友の手で終止符を打たれたかったのかもしれない。――それすら、叶わなかったのだが。
死んだ方がましだった、矢張りそう思う。
からり、と襖が開かれる。盆を掲げた女が立っていた。
「どうぞ、重湯の方が宜しいかと思って」
「……構うな、と言っているだろう」
窮した様に眉根が寄る。女の紅い唇が何事か言いたげに、薄く開いた。暫し間が空く。かたり、とかわらけが置かれる音。枕元に女が腰掛ける。
「それでは、治るものも治りませんよ」
「だろうな」
短く吐き捨てる。動けぬ我が身が口惜しい。
「女よ」
果敢なき影が、ゆらりと揺らぐ。いやに艶やかな眼が此方を見据える。
「何故、助けた」
「見ず知らずの他人様とはいえ、見殺しなどは後味が悪いですから」
「――驕慢だな」
思わずそう答えていた。可笑しい、何故自分は見ず知らずの女にこんな事を言っている。死に損ないが、一体何を喚くのか。
戦場に身を置き続け、幾多の命が消えていくのを目にしてきた。幾千の灯火を厭というほど奪ってきた。だからこそ、他者の命というものには兎角敏感になる。
神経が磨耗して、如何でもよくなるという物ではない。
他人の命に手を出すことは、悉く傲慢な事なのである。殺す云々は然りだが、生かすもまた然り。救いの手を差し伸べたところで、差し伸べられた側が死にたいと願っているのならば、それは只の毒なのだ。有難く等なんとも無い。死んだ方がましだと思う事は存外多いのだから。
――俺も、死んだ方がましだった。
そういった意の事を、我知らず呟いていた。らしからぬ事である。だが、この期に及んで虚勢を張るにも疲れ切っていた。本当は負け犬らしく、無様に慟哭でもしたかったのだ。自暴自棄といわれれば、それまでなのだろう。己を保ったところで、最早意味など無いのだから。
女が身動ぎする。淡い影が幽かに揺らめく。
「只、死んでほしくないと、思ったのです」
視界の端で認めたその顔は、切なげに眉を顰めながらも何処か熟れる様な甘さを孕んでいた。思わず其方を注視する。
女は喪服を纏っている。そう、恐らくは未亡人なのだろう。夫に先立たれたか、子も喪ったか。去った影に、俺を重ねたとでも言うのか。
――下らない。
「人など、皆身勝手なものですよ」
「……」
「だから、――」
白い影がやわらかく覆い被さる。ほのかに冷ややかな指先が頬に触れる。またたきの音が聞こえる距離にある艶やかな睫毛を、ただ見詰める。
唇には、秘めやかな体温。
薄く開けていた口から、熱が流れ込む。口腔を潤すそれを、導かれるがままに嚥下した。
「貴方は、生きてください」
幽かな熱だけを残し、その唇が離れてゆく。潤いのある唇は僅かに弧を描いている。
花弁の様なそれは、ほのかに紅い。
輪郭を辿り、女の顔立ちを視線でなぞっていく。――見覚えのない面だ。
だが、矢張り。
この女を知っている気がした。
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