雨の月

荒涼とした平野を、一人歩いている。この地には昔小さな集落があったそうだが、何十年か前の戦に巻き込まれて今では面影すらない。所々に廃屋の骨格だけが風雨に晒され、地の果てのような様相を呈している。
聞けば、数年前まではそれでも人がいたのだという。この辺りの名士の娘で、半壊した屋敷にずっと一人きりで暮らしていたそうだ。何故その様な酔狂な真似をしていたかといえば、戦に出たきり帰ってこなかった男の帰りを只管に待っていたのだと云う。初めの頃は近隣の里の者共も気の毒がって何のかのと世話を焼いていたようだが、次第に荒れ果てる里と嘗ては美しかった姫が見る影もなく窶れていく様に恐れをなして、今では鬼無里などとも呼ぶようになったらしい。
鬼無里、鬼女がいたと誠しやかに囁かれる里である。さわさわと囁く噂を幾度か耳にした。女が住んでいたという屋敷から青白い人魂が飛び出るのを見ただの、赤き衣を纏いて頭に五徳を頂き奔放する姿を見ただの、どれも恐怖に憑かれた巷説に過ぎないような話だった。

それほど広くもない里に同じような大きさの家々の骸が連なっている中で、件の屋敷は殊更に目立つ。その屋敷も四方を取り囲む塀は瓦解し、庭には芒や雑多な草花が繁茂している。そうやって無常を極めてはいるが、嘗ては荘厳な屋敷であったという名残は幽かに感じられた。
だが、辛うじて形を保ってはいても、所詮は捨て置かれたあばら家だ。さやさやと野原を渡る冬を孕んだ風が敗れた屋根を勝手気ままに弄んでいる。崩れた門前で暫し立ち尽くし、葎の生い茂った庭に歩み入った。有機的であるはずの大地が、あまりに荒れ果て朽ちているからか酷く無機質な心地がする。
成る程、定めし狐狸の住処にしか見えまい。鬼が住まうと恐れた気持ちも分からなくもないだろう、そう思わずにはいられない有様である。

踏み抜かぬよう丁寧に桟敷を渡り、ぐるりと屋敷内を見渡した。外壁は粗方無くなってしまっている。折れそうな柱の上に申し訳程度の屋根が乗っているだけで、その屋根でさえ半分は抜かれているから心許ない。残骸になった畳からも所々に草が生い茂っていた。障子などはとうに朽ちてしまっているから酷く見晴らしがいい。悉くがらんどうと空虚なそこで、奥のほうに一つだけ襖がまだ残っている部屋らしきものが見えた。
目を細める。ここからの眺めは見慣れないが、あの部屋は確かに知っている気がした。ぎしりぎしりと不気味な悲鳴を上げる廊下を抜け、鮮やかな錦の雲が描かれた襖の前に着く。からり、と開ければ伽羅の香り。襖の向こうは昔と変わらぬ眺めだった。そこだけ時が止まってしまっているかのような、欄間の意匠は鮮やかに、畳は清々しい匂いさえ感じさせるほど青々と美しい。
ただ異なることは、いつも凝っていた薄闇はそこにはもう無かった。雨月はもう、とうに明けたのだ。

障子の傍には、真っ白な衣が置かれてある。いや、凭れ掛かっているという表現の方が正しいのだろうか。彼女がいつも纏っていた、古い喪服の花嫁衣裳。抱き留めるようにそこへ跪き、手にしていた濃紫の着物をかけてやった。こそこそと乾いた音が零れている。
嗚呼でも矢張り、白いからこそ良く映える。思わず愛しげに微笑んだ。

「よく似合うな、磯良」

金襴緞子の紫の中では、白々と枯れ木のような髑髏が横たわっていた。ぽっかりと空いた眼窩は何処を見詰めているとも知れない。死後何年経っているかも分からないその躯は脆く、今にも崩れ落ち、さらさらと零れていってしまいそうだった。

それでも、例えそんな姿であっても――。

美しい、と。そう思わずにはいられなかった。気が遠くなるほど愛しい人を待った、その成れの果ての姿が。
堪らなく、美しいのだと。


  
額縁