さりともと 思う心にはかられて 世にもけふまで生ける命か
ひそやかに呟いた女の聲に顔を上げる。彼女は障子の傍に腰をかけ、見るとは無しに雨の紗幕を透かしているようだった。儚げな目付きで眺めている外はほんのりと暗い。しっとりと潤った夕闇である。時刻は、黄昏を少し過ぎた辺りだろう。外が薄暗い所為で、生憎と此処からでは何も見えなかった。みずみずしい瞳には、仄暗い宵の向こうが見えてでもいるのだろうか。
相変わらず、肌理の細やかな雨が降り頻っている。しとしと、しとしと、と。
「浅茅ヶ宿だな」
「ええ、よく覚えてらっしゃいましたね」
霧雨のような細やかな雫は、他の音を吸い込んでしまうのだろうか。薄絹で覆われたかのように静やかである。あるかなしかの幽かな雨音に、女の聲はよく映えていた。
唇であたためるように、ひっそりと響く聲だ。
「さっきまで読んでいただろう」
「あら、てっきり寝ているものだと」
「微睡んでいただけだ」
浅い夢に浸りながら、目蓋に透かして女の姿を眺めていたように思う。寝ているといえば寝ていたのかもしれないが、眠りのように深い沈黙は訪れていなかった。鼓膜は途切れ途切れに雨音と衣擦れの音を拾い上げていたし、何故か二重写しのように揺らいだ女の姿を眺めていた。彼女は同じように腰をかけ、物憂げに書物を繰っていた。
――ただ、その衣は。白ではなく、目の醒めるような紫紺であったような気がする。
そんな事がふと思い起こされた。改めて見るまでもなく、その膚を包むのは仄暗い白だ。彼女は白の喪服しか纏わない。ならば、夢でも見ていたのだろうか。
「……夢を、見ていた気がする」
女が物憂げな目付きのまま此方を見遣る。軽く傾げた白い頸に、一筋。垂れた黒髪がやわらかな線を描いている。
「どんな夢を見ていらしたんですか」
「お前が、出てきていたな」
「私がですか」
聊か驚いた様な口調に、今更ながら後悔した。四六時中顔を合わせている相手を夢にまで見るなど、考えてみれば少し息苦しい。その胸中が顔に出ていたのが、女――磯良は目を細め唇に微笑を含ませた。半透明で、指先で溶けてしまいそうなほのかな笑みだ。
「その、夢の中の私は何をしていたんです?」
「同じように本を読んでいた。そこに、今座っている場所に同じように腰をかけて」
「よく夢だと分かられましたね」
「嗚呼、それは――」
何故か喉の奥深くで聲が留まった。僅かに眉を顰め、息を吐く。
「紫紺の着物を着ていたんだ」
目蓋の裏で、見た事のない筈の紫が淡く滲んでいた。濡れた様に艶やかな紫紺は磯良の膚に酷く映えていて、照り輝かんばかりに美しい。以前から思っていたが、彼女は色の濃い鮮やかな着物の方が似合うのだろう。濃淡に欠けた白粉の白とは違い、その膚は靄のように儚く幽かな白である。きっと、よく映えるだろう。勿体無い、と純粋にそう思っていた。他意はない。
「よく似合うだろうな」
「え?」
「お前は色が白いから、濃い着物がきっと映える」
それを聞いた磯良は揺らぐように目を伏せる。透けてしまいそうな淡い膚に、長い睫毛が影を描いた。
「如何した?」
「いえ、……」
煮え切らぬ返答に眉を顰めた。喪服の白が、やけに目に付く。目蓋では艶かしい紫が滲んでいる。
磯良の顔は、形容し難い表情を滲ませていた。平生の様に悲しげでもなければ、苦しげでもなかった。ただ、長い夢から醒めた様な、どこか脆く不安げな驚きに満ちている気がした。固く結ばれていた唇がそろりと開く。ため息の様な言葉が零れ出た。
「昔、同じ事を言われましたわ」
静かな目をして、彼女は言う。胸の底に沈んだ記憶の破片を、丁寧に掬い上げているような声色だった。それは悲哀に打ちひしがれた叫びであり、それでも安らかで、深く透徹した愛情に満ちていた。
「貴方は、あの方と同じように言うのですね」
「逃げた男のことか?」
「はい。よく、似ておられるから」
その言葉に鼻を鳴らす。磯良は相変わらず、ゆらゆらと夢見心地の淡い目付きで此方を真直ぐ見返している。
「暗に皮肉を言われているようだな」
「そんなつもりはありませんよ」
密やかな笑みを唇に湛え、磯良は目を閉じていた。ささやかな重みが肩にかかる。しっとりと潤った黒い髪に、指を絡ませた。
「もう、年月を数えるのも止めてしまいました」
「そんなになるか」
「はい、随分と長く待ちました」
磯良は泣いていた。精巧に編まれた静けさを破ることを恐れるかのように、声も無く泣いていた。押し殺して泣く姿とは相反して、涙は留まることなく縷々と溢れ続けている。眼球が蕩け出し、涙と共に流れてしまうのではないかと不安になる程だった。啜り泣きとも慟哭とも言えない、寧ろ嬉し泣きのような密やかな営み。この女は、ずっとこうして泣いていたのだろうか。来ぬひとを、只管に待ち続けて。
「こんなになって……、見られたくはなかった」
目の端が潤み、しっとりと赤らんでいる。滲むように色付いた艶やかな目蓋から目が離せないでいた。悩ましい。やわらかく唇を寄せ、口付けるように涙を啜った。乾いた唇を生温い雫が濡らす。口腔に広がるそれは、何故か冷ややかな夜露を思い起こさせた。吸っても吸っても、次から次へと涕涙は零れ落ちていく。
「泣くな磯良」
もう泣かなくてもいいのだから。そう言いながら目蓋を閉ざした。彼女の熱がやわらかい。解けるような淡い熱に絆されるにつれ、仄暗い夢の中に落ちていく。せめて掻き抱くように、唇を押し当てた。零れ落ちる涙は、それでもずっと冷たいままでいる。
「その方の、目は」
貴方と同じなのです、そんな哀しい聲を深く沈んだ夢の中で聞いた。
前 戻 次