phantom

 金縛りにあったように動けずにいた。人びとの声は水中で聞いているかのように不明瞭で、しかし一方的、かつ、乱暴に体内へなだれ込んでくる。
 人波から押し出された先は駅の改札口だった。うしろを振り向くが、先ほどまでいたはずの人びとはひとりとして見当たらず、薄暗い駅の構内には自分のほかには誰もいないようだった。
 追い風が吹いた。それが追い風ではなく、古びた改札機があたりの風を絶えず吸い込んでいるのだと気がついたのは、切符の投入口の上に手のひらをかざしたときだった。無機質な電子音が鳴り、指先の引っ張られるようなかんじがした。プラットフォームに足を踏み入れた瞬間、だるく鈍い痺れがつま先から身体じゅうに広がった。
 すでに車両が停まっていた。行き先を確認しようとあたりを見渡すが、発車標がどこにも見あたらない。
 よろめいて壁に手をついたつもりが、気がつけば点滴用のスタンドを掴んでいた。慌てて手を引きもどすと、それはほぐした干し草のようなものへ変わり、はらはらとタイルの上に散らばった。よくよく見てみると、朽ちて見る影もなくなったダリアのようだった。眩暈をおぼえてそのままふらふらと二、三歩進む。ふと車内に目を向ける。彼女がこちらを見て、ほほえんでいる。

「行き先がわからないんだ」

 迷子のような声が出た。俺は実際に、迷子だった。彼女は深い赤の座席に腰を掛けて、慈しむようにゆっくりと瞳をまたたかせている。
 外にいるというのに、自分は患者衣を着ていた。サイズの合わないスリッパを履いている。彼女はいつか見たかわいらしいワンピースに身を包んでいる。みずみずしく濡れたかたちのよいくちびるには、薄くルージュひかれている。

「どこへ連れて行かれたっていいよ」
「……きみの意思は」
「あるよ。でも、なにが起きたっていいよ」

 彼女がそっとこちらへ手を差しだす。うしろで、乗車ドアの閉まる音がした。車内はほの暗く、ほこりっぽいにおいがした。

「それでも幸村くんは、わたしたちがどこへたどり着くのか、知りたい?」

 彼女の手を取るべきか、首を縦に振るべきか横に振るべきか、決めあぐねていた。頭を強くぶたれたような衝撃があって床に倒れ込むと、まぶたを差すような光に包まれた。

 今度は美術館のようだった。美術館といっても、絵画が並んでいるのでそう判断したというだけで、実際はもっと別の施設なのかもしれない。奇妙な空間であった。展示品以外は真っ白で、壁も床も天井も、まるで区別がつかないのだ。自分の足音のほかには、どんな音も聞こえなかった。
 飾られている絵画はどれもルノワールのものだった。庭で日傘を持つ女性。ラ・グルヌイエール。読書をする少女。黙考する女。テラスの姉妹。波。フォントネの庭。グラジオラス。何枚ものアネモネ。そして、イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢。気に入って何度も見返しているものばかりだ。
 絵画どうしはじゅうぶんな距離を置いて飾られている。そのあいだに、見覚えのあるテニスラケットが、シューズが、そしてジャージがゴールドの額縁に囲まれて吊り下げられていた。全国大会のときに撮った集合写真も豪奢なフレームに取り替えられて並んでいる。絵画はよく見るとプリントアウトされたもので、カンヴァスはつるりとしており、油彩特有のおうとつがまるでないのであった。
 
 彼女の姿を探した。彼女も一緒にこの空間に飛ばされてきたのだろうか。そうだとしたら、ひとりでさみしくしているのではないだろうか。しかし、見つけたところでどうしてあげればいいのだろう。俺は彼女のいちばんほしい言葉を、きっと言ってあげられない。
 
 遠くにひときわ大きな額縁が見えた。カンヴァスにはなにも描かれていない。後ろで手を組んでいる後ろ姿は、たしかに彼女に間違いなかった。
 俺は速度を上げて歩き出すが、すぐに足がうまく動かなくなる。カンヴァスにまぎれて、鏡があった。鏡のなかの自分は学生服を着ている。右足を引きずるようにして歩く。わずらわしかったので、スリッパは脱いでしまった。
 
「なまえ」

 彼女がゆっくりと振り向いた。ワンピースの裾となびく髪の毛の描く、ゆるやかな軌道。ばら色に上気した頬。ふくよかな花びらのような、濡れたくちびる。星の棲む瞳。五百号ほどある大きなカンヴァスの前で、彼女は絵画そのもののように見えた。
 彼女はいつでも絵画のようだった。そのうつくしさも、眺めるばかりで触れてはいけない、けっしておかしてはならない、その神聖さも。
 彼女がなにかを言いかけたところで目が覚めた。
 もうじき、彼女が面会にくる。支度をしなければならない。
 
 
 
 彼女は丸椅子に腰を掛け、親が持たせてくれたという桃を器用に剥いている。目が合えば、喉の奥を震わせて笑ってくれた。甘ったるいにおいが病室にじゅうまんする。
 
「甘くておいしいよ。ちょうど食べごろ」
 
 口もとに運ばれて、しかたなしに頬ばる。たしかにちょうどよく熟れており、申し分のないうまさである。ほんとうは、食べさせてあげられたらよかった。この指で。もっと明るい、自然の光のあふれる場所で。
 もしも身体がよくなったら、健康な大人になって、そうして上等のフルーツをしこたま買い込める身分になったら、彼女はよろこんでくれるだろうか。桃や、ざくろや、茘枝や、梨や、枇杷を、プラムを、毎日かごいっぱいにしてプレゼントしたら。自由に動く指先で、つやつやと光る果実を彼女のくちびるのあいだに押し入れることができたなら。

「情けないな」
 
 俺の呟きは狭い病室内に、思ったよりもあざやかに響いた。彼女はくだものナイフをていねいな手つきで拭いている。長いまつげの影になって、瞳の色は見えない。ほほえみは崩れていない。くちびるはやわらかく弧を描いたままでいる。カーテンレールがからからと音を立てる。開け放した窓の外から吹き込むぬるい風が、首すじを撫でた。湿った風はじとりと染み込んで肌を濡らす。彼女は汗のひとつもかいていない。白い肌は、やわらかく、触れるとさらりとしていそうだった。

「きみにだって、学生生活を謳歌する権利がある。こんなところでくだものを剥く以外の、楽しいことをする権利が」

「会いたいから来ているの。それに、すきなことをしてる。頼まれてもいないのに、くだものを剥いてる。そうしたいから。だからこれは、わたしのエゴイズム」
 
 彼女は皿の上の最後のひとかけを手で掴むと、俺がじゅうぶんに口を開くのもまたずに口内へ押し込んだ。つぶれかけた桃から滲む冷たい果汁の、うっとりとするような甘さ。彼女の指に軽く歯を立てる。ほんとうに、ごく軽くだ。指は俺のくちびるのあいだで、やわらかくしなる。彼女はかすかにほほえむ。
 
「きみはきれいごとと正論ばかりで」
 
 そこまで言って、口をつぐんだ。傷つけたいわけじゃない。ましてや、一緒に傷ついてほしいわけでもない。つまらない自虐に巻き込んでしまった。彼女がゆっくりと顔を上げる。
 
「つまらない? いやになる?」
 
 彼女の瞳はまっすぐにこちらを見つめている。このまっすぐさが、時おり胸を刺す。自分の失いかけているものを翳されていると感じてしまう。自分は彼女のようには生きられない。少なくとも、今は。
 彼女はちいさく息をついた。聞き逃してしまいそうなほど、かすかな音だった。
 
「わたしが汚いことを言ったら、幸村くんは安心する? みんながみんなきれいなことばかり考えているわけじゃないってわかったら、溜飲がさがる?」
 
「……ごめん、そうじゃない」
 
 廊下の外で、誰かの足音が遠ざかってゆくのが聞こえる。かこかこ、とちいさくこだましながら。ここにいると、聞こえてくるのはキャスターの音とスリッパの足音ばかりである。そればかりを、もう延々と聞き続けている。
 
「いやな夢を見たんだ。俺の不幸にきみを道連れにするべきじゃないと思った」
 
 彼女は多めに取ったハンドクリームを俺の手にていねいに塗り込んだあと、やさしいまなざしで指先を弄んでいる。やわく握ったり、ごくゆるく絡めたり、つまむようにして触れたりしながら、俺の肌の温度や、硬さや、かたちをたしかめている。ハンドクリームは先日来たときに彼女がつけていたもので、ひまわりをイメージしたかおりなのだという。光を仰いで咲く、太陽のような花。ひまわりには、ほとんどかおりがない。
 
「なにか悪いことを言おうと思ったんだけど、なにも思いつかないや」
 
 俺の手をあたためるように両手で包みながら、彼女は言った。静かで、やさしい声だった。
 
「わたしのなかにも、正しくない感情がたくさんあるよ。手前勝手でどうしようもない気持ち。不道徳で、だれにも聞かせられないようなこと」
 
 夢のなかで見たのと比べて、彼女は色あせて見える。病室はいつもほの暗く、すべてのものがグレイがかっている。薄い、グレイのヴェールをかぶっているように見える。あらゆるものとの隔たりを感じる。ここでは、すべてが静かに死を待っているようだった。俺は彼女をこんなところで殺してしまいたくはなかった。
 
「もしもわたしが感情にまかせてめちゃくちゃなことを言い出すとしたら、それはきっと、幸村くんの前だと思う。そうしたら幸村くんは、わたしにどんなことを言ってもいいよ。でも、できたら、そばにいて」
 
 そう言うと彼女は俺の手を離し、ゆっくりと荷物をまとめはじめた。俺はちいさく「わかった」と答えた。彼女のささやかな、しかし、たしかな願いを聞いて、心底安堵した。彼女の意思が生きていることに、ほっとした。過ぎるいとおしさで胸がせつなくなった。
 
「おやすみなさい、幸村くん。またあした」
 
 開け放しのハンガードアの前で、彼女は一度振り向いた。廊下から差し込むばら色の西日を受けながら、まぶしそうに瞳を細めてほほえんでいる。拝みたくなるほどの、うつくしさ。ドア枠がちょうど額縁のように見えた。