神さまのガーデン

 キャリーケースを部屋の隅へ寄せ、靴を脱ぐ。エアコンの電源を入れてから、冷蔵庫へ飲みものを入れている幸村くんの背中へぎゅうと抱きついた。おぶさるように体重をかけて、頬へキスをする。くちびるを離すと、ちゅ、と大げさな音が響いた。顎に手のひらが添えられて、今度はくちびるどうしが重なった。
 夏の盛りだ。もうすっかり夜だけれど、部屋のなかまで茹だるように暑い。そうでなくとも、食事をしながらワインを飲んだので体温が上がっているのだ。幸村くんのくちびるも、とろけるように熱い。
 遠征について遠い地へ行くことはあっても、旅行となると、ずいぶん久しぶりのことである。わたしは日がないちにち浮かれっぱなしで、そして今現在も、浮かれている。

「疲れただろ。平気かい」
「こんなに歩いたの、久しぶり。まだまだ全然元気だけれど、今日はぐっすり眠れそう」
「上のバーラウンジはどうする?」
「もちろん行く」
「そう言うと思った」
「あとでマッサージしてあげる」

 わたしは会話の途中途中でキスをする。頬に、まぶたに、くちびるに。くちびる以外にキスをすると、幸村くんは必ず「きちんとしたキス」をわたしのくちびるに施してくれる。こちらが正しい、というふうに。そうしてわたしたちは何度もキスを交わす。しあわせで、ぐずぐずに溶けてしまいそうになる。

「食事中もずっと欲しそうな顔してた」

 幸村くんはわたしのくちびるを親指でやわやわと押しながら言う。甘く掠れただいすきな声が、身体の奥まで響いて熱を持つ。今日の幸村くんは、ローズのオードトワレのかおりがする。プライベートの外出の折に彼が好んでつけているもので、アンバーやシダーウッドがアクセントになっており、わざとらしくない甘さがとてもよい。「これは恋人用の、つまりきみ専用のフレグランス」と幸村くんは言う。

「出かけたがるくせに、すぐに帰りたいって顔をするんだから」
「帰りたいわけじゃないもん。キスがしたいだけ」
「でもキスをしたら、今度は続きをしたがるだろ」

 ふふ、と笑うと、幸村くんもくぐもった声で笑って、わたしの下くちびるをやわく噛む。彼がこんなふうにじゃれて、その上いたずらなキスだってできてしまうのだということを、わたし以外は誰も知らない。


 ホテルの最上階にあるバーラウンジはカウンターの後ろ側が広く硝子張りになっており、見渡すかぎりの大パノラマにわたしは思わず感嘆の声を上げた。淡く光るネオンのガーデンには、神さまのために夜ごと咲く花々が、またたき、きらめいている。


 カウンター席に並んで座り、わたしたちは思い思いのカクテルを楽しんだ。わたしの太もものとなりで、ゆるく手を繋いで。
 幸村くんの今日のかおりに因んで、はじめはジャック・ローズに決めた。
 次に頼んだのはポロネーズだ。これは以前に行ったバーで三月五日の誕生酒として紹介してもらったもので、一般的に広く知られているものとは別のカクテルであったが、こちらのほうが幸村くんらしくて、気に入った。なんともロマンティックなかおりがする。「華麗」というのがカクテル言葉──花言葉のように、カクテルにも彼、彼女らを象徴するにふさわしい言葉がそれぞれに割り当てられているのだ。わたしはカクテルに性別があると考えており、今日は女性、別の日には男性、と性別を変えるものもいれば、このカクテルは女性というふうに決まっているものもある──だ。

 幸村くんはいつものようにまずはマティーニを一杯。二杯目にはウォッカ・アイスバーグ。ふだん薬くさいものは避ける幸村くんが、このカクテルは好んで飲む。幸村くん曰く「過去を乗り越えた味がする」とのことである。「ただあなたを信じて」というのがカクテル言葉だ。甘みがなく度数が高いのでわたしはほとんど飲まれないが、わたしたちはふたりとも、このカクテルの存在を愛している。

「幸村精市」

 後ろのテーブル席から幸村くんの名前が聞こえた。夜景を見るふりをして振り返ると、ふたり組の女性客が顔を寄せ合い、囁いているのが見える。
 深夜のローカル番組で知る人ぞ知る花形選手として取り上げられてからというもの、幸村くんの名前は飛躍的に有名になり、近ごろはこういうぐあいに騒がれることも多くなった。

「場所を変える?」

 わたしは繋いだ手の力をゆるめて、幸村くんの顔を見上げる。指先が離れる気配はない。

「俺はどちらでも構わないけど、きみが気になるならそうしようか」
「だって、またすっぱ抜かれちゃうよ」
「すっぱ抜かれるもなにもないさ。そもそも隠していないんだから」

 あっけらかんとしたようすで幸村くんは言う。彼はたまに驚くほど楽天的だ。それは大抵のことであれば難なく対処できてしまうという自信によるものであり、幸村くんの、驕らず、正しく自信を持っているところが、わたしはだいすきだ。

「あの子たち、たぶん写真を撮ってる」
「撮らせておけばいいよ。キスでもする?」

 ずいと顔を寄せられて、わたしはつい、濡れた瞳で見つめ返してしまう。幸村くんの笑い声が耳元を掠める。彼はわたしのオーダーしたキッス・イン・ザ・ダークをひと口飲み、繋いだ手の指先でわたしの手の甲をするすると撫でた。赤いチェリー・ブランデーが彼の口内をとろとろと侵すようすを想像すると、下腹部の奥のあたりがずんと低く疼くかんじがした。ごまかすように、わたしもカクテルグラスに手をかける。
 置き時計の針が二十三時を指している。部屋へ戻るのに、ちょうどよい頃合いだった。