海辺の町

 潮風が肌に痛い、冷え込みの強い日だった。何度か利用したことのあるバーは、海辺の町特有の痛んで頼りない外壁をした雑居ビルのなかにある。あまり広くはないが、落ち着いていて雰囲気がよい。
 夕方に急きょ決まった同窓会は、それぞれの都合上、開始時間を決めるのが難しく、結局、仕事や用事の済んだ者から店に向かうという手筈になった。

 恋人とは、中学の頃から交際しており、一緒に暮らしはじめてからは、もうすぐ五年になる。彼女はテニス部のマネージャーだった。
丸井は先日家に遊びに来たし、真田はよく自宅に招いてくれる。ジャッカルとは先月会ったし──ラーメンが食べたくなったときには出来るかぎり彼の店に行くと決めているため、必然的に、彼とはしょっちゅう顔を合わせることになる──赤也も、他の面々も、個々には会っていても、こうして全員が集まるのはずいぶん久しぶりのことである。
 しかしどれだけ離れていても、それぞれの人生を生きるようになっても、顔を合わせれば、あのときの空気感が一瞬にして思い出される。中学時代からの付き合いなのだ。友人という言葉の枠には収まらないようなかんじさえある。家族にも似た、オリジナルの、特別な存在だ。

 思い出を懐古しながら歩いていると、駅からの十分弱も、ほんのわずかな時間に感じた。店の華奢なドアを押し開ける。ベルの軽い音が響いて、見知った面々とすぐに目があった。
 ソファ席に柳生と蓮二と赤也、カウンター席に丸井とジャッカルと仁王、そして俺の恋人という組み合わせだ。ソファとカウンターが近いため、席が二組に分かれてもコミュニケーションの取りやすいところが、この店のいちばん気に入っているところである。

「幸村くん、お疲れさま」

「ありがとう。遅れてすまない」

背の高いカウンターチェアに座る彼女に、軽くキスをする。離れたくちびるをなごり惜しそうに見上げる瞳が、赤く潤んでいる。

「ずいぶん酔っているね。顔が赤い」

「そこまでじゃないの。でも、ぽかぽかはしてる」

「それは?」

「ホットラム。からだが内側からとろとろになるでしょう。ここのは特においしくって、何杯かおかわりをしたの。それで、ちょうど、とろんとしてきたところ」

「そうだね。すみません、マティーニと、彼女にはジャスミンティーを」

 手のひらに包まれたホットカクテルグラスに触れると、彼女はそれをすんなりと手放した。太いステムに持ち手のついたグラスの縁に、つつじ色のルージュのあとがついている。
 すっかりぬるくなってしまっているが、ホット・バター・ド・ラムはたしかによい塩梅でできており、おいしかった。
 彼女が俺の腰元にゆるく腕をまわす。やわく、甘い肉の感触が、俺をくすぐる。

「マティーニをひとくちちょうだい」

 とろけるような甘えた声だ。この声を聞くと、身体の芯が火のついたように熱くなる。熱い部分はなるべく見せないようにできている俺の身体を、彼女のこころはすんなりと、ほんとうになんでもないことというように、素直にさせてしまうのだ。必死で守ってきたものや隠してきたものまで暴かれてしまうような気がして恐ろしいと感じたときもあるがしかし、今は、無意識に強張った自分の感情が、するするとほどけていくような感覚を、そういったことをたやすくやってみせる彼女が隣にいることを、とてもここちよく、尊いことであると思う。

 濡れた瞳で俺を見上げる彼女に、もう一度くちづけをする。少量のマティーニが、舌を焦がしながら彼女の口内へ流れてゆく。アルコールを口移ししたときの、とろけるような感覚がすきだ。うんと冷えているもののほうが気持ちよい。
 声の代わりに彼女のこぼしたちいさな吐息が、濡れていた。

「おいしい」
「よかった。はい、ジャスミンティー。飲んで」
「来た瞬間キスばっか。ここは日本なんすよ、部長」

 ようやく彼女の隣へ腰を掛けると、ソファ席から赤也の野次が飛んでくる。彼女は片手を口もとに当て、楽しげに肩を揺らしている。

「なんじゃ、赤也。羨ましいんか」
「いいよ。しようか、キス」
「よしたまえ、幸村くん。切原くんははじめてあなたのくちづけを受けた日、激しい動悸のため眠られなくなってしまったんですから」
「それは悪いことをしたね」

 それは仲間内では鉄板のネタで、中学のころの悪ふざけのときのエピソードだ。仁王が始めたのだったか、誕生日には主役の頬へ無理やりキスを贈るのが習わしだった時期がある。

 レトロな壁掛け時計が九時を打つ。真田が合流して、空気がさらに熱くなる。戻らない時間を懐古する。
 また明日から毎日会えるような気がしてしまう。海辺の町の夜は、いつもすこしさびしい。
 彼女の指が太ももに触れて、変わらない、たしかなぬくもりを感じる。

「そういえば、跡部くんからリゾートスパの招待券をもらったのよ。みんなでどうぞって」
「やりぃ! 日程決めようぜ」
「ふたりでなくていいのか」
「ふたりで行くぶんは、いつも別にもらえるんだ」
「すげぇ待遇。地味に大分仲良いですよね、跡部さんと部長」
「変わった服もくれるよ」
「女性用のドレスはいっつもすてき」

 チャームのレーズンバターを彼女の口もとへ運ぶ。ミルク色のかけらが、濡れたくちびるを割って口内へ滑り込む。仲間たちの笑い声の裏で、ジャズピアノの音が薄く聞こえる。
 窓の外では細雪がちらついていた。この後は、俺の実家で泊まりがけの二次会を行うことになっている。

 手放す覚悟でいた尊いものすべてが、このちいさな箱のなかに収まっている。愛、友情。窓の外に見えるのは、いとしい海辺の町。
 皆との会話に花を咲かせながら、自由に動く指先で、彼女をあやし続けることもたやすい。

 楽しい夜は短い。しかし、幾度も巡ってくるものだ。
 ここは海辺の町。俺たちの港である。