日陰躑躅は今年もうつくしく咲いた。淡く光立つような、ペールイエローの花。顔をうずめるように鼻先を近づけると、こっくりとした甘いかおりがする。うつくしい花を見るたび、わたしは幸村くんを思う。一緒に見られなくたって構わないので、幸村くんがこの眺めを楽しめればよいのに、と考える。
今年は去年よりもさらにたくさんの部員が入ってきた。スター選手である幸村くんの不在を嘆く者は非常に多く「じきに戻ってくるよ」と言うたび、わたしのなかから大切なものの抜け落ちるような感覚があった。
「マネージャーって、どんな男子が好みなんですか」
恋愛話に花を咲かせていたらしい一年生たちから声がかかる。ぼうっとしていたため過剰に驚いてしまい、素っ頓狂な声が出た。彼らの邪気のない瞳を見ると、羨望にも慈愛にも似た甘酸っぱい気持ちになる。
「ええと、そうね、強いて言うなら、価値観の合う人かな。どんなことをうれしいと思うか、どんなものをうつくしいと思うのか、そういうところでわかり合えたら、ふたりでやさしく生きていけると思わない?」
たとえばどんなことで傷つくのか。どんな行為、どんな気持ちをやさしさだと感じるのか。あたりをぱっと見渡したときになにをいちばんに見つけるのかとか。
「あとは、お花がすきな人だったらうれしいな」
「そんなん幸村部長くらいしかいないじゃないっすか」
通りがけにさらりと呟いた赤也くんの声色は軽く、それがなんの気なしに放たれた言葉であるとわかる。わかるのに、わたしはなんの反応もできず、去っていく赤也くんの背中を見つめながら、ただ口を噤むのみだった。海辺の町の春は、少し肌寒い。
部内のことは副部長である真田くんが取り仕切っている。無敗の掟が布かれ、どんなにちいさな試合でも敗れた者には制裁がくだされた。体罰など言語道断だというわたしの反対もむなしく、その戒律は今も生きている。
「恐怖でみんなを支配することになんの意味があるの」
二週間ほど前のことだ。意を決してそう聞いたとき、わたしはほとんど泣き出しそうだった。言うべきだと思ったから声にしたのに、真田くんのあまりにもまっすぐなまなざしを見ると、それが正しい行為ではなかったかもしれないと思えて目を逸らしたくなった。
「俺たちには誇りを守り抜く使命がある」
そのまなざしにふさわしい、力強い声色だった。見つめ返すわたしの瞳は頼りなく揺れていた。プレイヤーではないわたしには、幸村くんの大切なこの場所を守ることができない。少なくとも、王者のプライドの保守という点においては。
「幸村に後悔をさせたくないのだ。自分の不在のために敗北したなどと思わせたくはないだろう」
「わたしもそう思う。そう思うよ。それでも、痛みを与えたからといって勝てるようになるわけじゃない」
ここは幸村くんの人生における大切なガーデンだ。彼が育て、守り抜いてきたもの。ここを荒野になどしたくない。そう思うこころは、わたしも真田くんも同じはずである。勝ちにこだわるのが、テニス部、ひいては幸村くんのためだというのなら、口を挟む権利などわたしにはないのかもしれない。それでも、だ。
「真田くんは、勝つために厳しいきまりを作ったんじゃなくて、勝ち続けることで幸村くんが帰ってくるって思ってるんじゃないの?願掛けみたいに」
言い出すと止まらなかった。「それは」と言う真田くんの声は、わずかに震えているようだった。
「勝てば帰ってこられるなら、負けたらどうなるの?もしも負けてしまったら」
そんなの、負けてしまったら幸村くんが帰ってこないと言われているみたいでこわい。言い切る前に涙がこぼれて喉の奥がきゅうと締まり、わたしはなにも続けられなくなってしまう。真田くんのたくましい腕が、わたしを強く抱き竦めた。
「苦しいよ、真田くん」
彼の肌は燃えるように熱かった。やわらかさも、かおりも、温度も、すべてが幸村くんとは違う。わたしはさらに苦しくなる。
「苦しい」
もう一度ここで、幸村くんに会いたい。
わたしはだらりと下げた両腕ごとかたく抱かれながら声を殺し、そうして、しばらくのあいだ泣いていた。少しずつ、少しずつなにかがずれていくような気がしてこわかった。
病室で、わたしは幸村くんの手を握っている。ハンドクリームを使ったマッサージを施したあとで、わたしたちの肌はどちらともしっとりと濡れていた。あたりにはピオニーとベイローズのかおりがやさしく漂っている。幸村くんは今日はベッドの上にいて、リクライニングで半身を起こしている。わたしはベッドサイドに丸椅子を置き、その薄っぺらいクッションの上に腰を掛けた。
今日はレギュラー陣全員が招集された。幸村くんから集まってほしいと言われたのははじめてのことで、口にはしなかったが、わたしたちは皆、一様に緊張していた。
「関東大会の最終日、手術を受けることになった」
わたしの手の甲にするりと親指を滑らせてから、幸村くんが言った。少しの間のあと「そうか」と静かに真田くんが呟く。関東大会は七月の終わりに行われる。そこから全国大会まではひと月足らずだ。
「……間に合わないかもしれないなんて言わないでくださいよ」
沈黙を破ったのは赤也くんだった。睨んでいるようにも、泣き出しそうにも見えた。幸村くんはわたしの手を離し、次の言葉を促すように赤也くんを見つめている。
「みんなあんたを待ってんだ。きれいなとこだけ見せて勝ち逃げするみたいに隠居しちまうなんて納得できないっすよ」
「あいにく、俺は他人のためにテニスをしてきたわけじゃないし、他人のために戻りたいと思っているわけでもないよ」
「そんなの知りませんよ。神話を背負って立ってるんでしょ。最後まで演じてくださいよ。魅せてくださいよ」
「おい赤也、幸村くんに謝れ」
詰め寄る赤也くんを丸井くんが後ろから押さえる。わたしは幸村くんをかばうように身を乗り出したが彼の腕に制されて、逆に守られるような体勢になってしまう。
三年は全国大会が最後の一大イベントになる。下級生と並走できるのはそこまでだ。九月からは引継ぎがはじまり、メインプレーヤーとしてはほとんど出番がなくなってしまうため、全国に間に合わなければ、赤也くんが中学のステージで幸村くんと共闘する機会はもう訪れないかもしれない。幸村くんたちを倒すという夢を妄執し続けていた赤也くんにとって、それがどれほど悔しいことであるかは想像に難くなかった。
「あんたとコートに立てるのを待ってたんだ。引きずってでも……」
「いい加減にしろ、赤也」
ぴしゃりと乾いた音が響く。赤也くんの頬を真田くんが張りとばしたのだ。
「弦一郎、やりすぎだ」
柳くんに肩を叩かれて、真田くんは振り下ろした手のひらを固く握り、腰の横へ引き戻した。
「赤也もみんなも、人の病室で被害者みたいな顔をするのはやめてくれないか」
そう言った幸村くんの声は低く落ち着いていたが、鬱屈が色濃く滲んだ横顔のあまりの切なさに、わたしは息ができなくなった。積み木が音を立てて崩れるように、それぞれの発する短い言葉がぶつかり、折り重なって、リノリウムの床に落ちてゆく。その光景はわたしの瞳にストップモーションの無声映画のように映る。音もなく涙が流れる。皆の声が遠く、薄く聞こえる。耳の奥で響く海鳴りのような音に掻き消えて、もうほとんどなにも聞こえない。鼓動の音が不規則に体内を打つ。
やがて誰も口を開かなくなり、現実にも沈黙が訪れた。
わたしは幸村くんの腕にあてていた手のひらを引き戻して、ゆっくりと彼の瞳を見上げる。
静寂が耳に痛い。喉の奥を震わせて、わたしはそっとくちびるを開いた。
「すきだよ、幸村くん」
「諦めないで」も「待ってる」も「大丈夫」や「がんばって」もふさわしくない気がした。ほかにちょうどよい言葉を持ち合わせていなかった。ただ、あいしていると、幸村くんが愛に囲まれた人なのだと、そして差し掛けられたそのたくさんの愛を受け取るにふさわしい人なのだと伝えたかった。赤也くんだってほかの誰だって、皆それぞれに幸村くんをあいしているのだ。深く。深く。
「だいすきだよ」
まばたきに合わせてはらはらと涙がこぼれる。ぎゅうと傷む心臓を抑えるように俯いた。ずっと胸にあった言葉だ。言えなかったのは、保守的になりすぎていたからだ。しかし今守られるべきはわたしのこころではないし、これは恋を叶えるための言葉ではないし、むしろ、こういうかたちで口にしてしまったことは、ほとんど恋の終わりを意味していた。それでよいと思った。愛を渡そう。許されるかぎり、ずっと。
「なまえ」
名前を呼ばれて、俯いたままわたしはこくこくと頷く。
「ありがとう」
それは、この場を収めようとしたわたしへの謝意でなく、幸村くんが出した、わたしの思いすべてに対する答えだった。やさしい声だった、わずかにほころんだ目もとに、不穏の色はもうなかった。わたしは口許だけでほほえんで返す。
そのあとはそれぞれ短く言葉を交わしあい、病室をあとにした。廊下を満たす薄明の色はせつなく、すこし大きめのスリッパがもたらすランダムな足音は雨の音によく似ていた。
砂を掴むような感覚だった。さらさらと、なにもかもが指のすきまを通り抜けていくようだ。大切だからと強く抱きしめようとすると、なおさら急速に失われてしまうような。目に見えるのに止められない崩壊。
あの病室に幸村くんをひとりで残してしまうのが切ない。夜ごと、彼はなにを思うのだろう。自分のガーデンから遠く離れた、あの場所で。