年が明けて、二月になった。時は倦んだまま窓の外をずるずると流れてゆく。窓枠に切り取られた庭の牧歌的な風景を、俺はほとんど映画でも見るような気持ちで眺めている。自由に動き回る人びとも誰かに世話をされて咲く花も、どこか遠いところを舞台にしたフィクションで、俺の生活とは一切の繋がりもない。
今日はバレンタインデーで、丸井からは紙袋に詰め込まれた大量のプレゼントの写真が送られてきた。放課後には部員たちが会いに来てくれるという。
皆はほんとうにしょっちゅう面会に来てくれるけれど、そのことは俺をうれしくも不安にもさせた。彼らはいつまでこうして会いに来てくれるだろう。チョコレートを贈ってくれる女子たちも、連絡をくれるクラスメイトたちも。急成長する青少年たちから、俺はきっとあっという間に忘れられてしまう。
遠ざかる人びとは、時の停滞するこの場所からはスローモーションのように見えるだろう。永遠ともとれる時間のなかで、俺は落ちてくる孤独をじっと待つ。
開け放した窓から、冬の冷え切った風が吹きこむ。ちいさく身震いをする。
「幸村くん! チョコ、持ってきたぜい」
「わあ、すごい量だな」
「わたしもたくさん預かってきちゃった」
丸井が大きな紙袋をふたつ、なまえは両手にいくつものショッパーを提げてやってきた。ほかの面々もそれぞれ色とりどりのショッパーを持っている。
俺たちは談話室へ移り、包装紙をとく係と、メッセージカードとチョコレートを輪ゴムでくくる係、それらを整頓して並べる係などにわかれ、それぞれ作業に勤しんだ。
「チョコレート屋さんみたい」
「輪ゴムでくくるとシュールじゃのう」
「負けた気分っすね」
「事実負けているんですよ」
「こういうのは数じゃないから」
「幸村の言うとおりだ」
いくつかのチョコレートに貼られたふせんには彼女の文字で名前が書き込まれてある。手紙もカードもないものを受け取ったときに、贈り主の名前を聞き取ってメモをしてくれていたのだ。
「ていうかマネージャーからはチョコレート、ないんすか」
赤也の言葉を聞いて彼女は気まずそうに目線を外した。視線の先には、彼女の学生かばんとピンク色の紙袋が置かれている。
「あの、お菓子を作ってきたんだけど、皆たくさんもらってるから渡しづらくって」
そう言うと彼女は観念したように席を立ち、ひとりひとりにちいさな紙袋を手渡して歩いた。なにかで判別しているらしく、これは真田くん、これは柳くん、とぽそぽそ呟いているさまがかわいらしい。
「なにか違うのか」
「ものは同じなんだけど、お手紙を書いたの」
「同じかよ」と不満げにこぼす赤也の頭を蓮二が小突く。
「これは幸村くんに」
はい、と差しだされたちいさな紙袋には、彼女の名前の書かれたふせんが貼られている。なまえより。触れた指先があたたかかった。
手作りのものは足が速く食べきれるか不安であったが、丸井が食べさしを引き取ると請け合ってくれたため、ことなきを得た。もらったものを横流ししてしまうことにはかなりの罪悪感があったが、だめにしてしまうよりはよっぽどよい。誰からなにをもらったかはスマートフォンに控えた。時間はたっぷりあるので、手紙を書こうと思う。会えぬ人びとに向けて、時間の外から。
「わたし、幸村くんを病室まで送ってくるね」
皆はまた学校に戻るらしい。病室までの同伴を請け合ってくれた彼女と並んで、去っていく彼らの背中を見送った。揺れるイングリッシュ・アイビーの制服。制服にもジャージにも、もう長いこと袖を通していない。やわらかな病衣ばかり着ている。羽のように軽いその布のなかで、肉体はしぼみ、身体じゅうがあらゆるはりを失ってゆく。ゆるやかに朽ちるように。
「あの、幸村くん、これ」
帰り際、彼女がベッドサイドのテーブルにちいさなショッパーをそっと置いた。グロス加工の施されたつややかな黒地に、パティスリーのロゴがゴールドで箔押しされている。夕陽のあかあかとした光をその身に受けながら、彼女ははずかしそうに俯いていた。身体の前で組まれた細い指がもじもじと動く。
「幸村くんにはもうひとつ用意したの。お店のだから、きっとおいしいよ」
「驚いた。ありがとう。でもどうして」
ショッパーのなかにはサックスブルーの封筒が入っており、先ほど談話室で受け取ったもののなかに手紙らしきものが入っていなかったわけがわかる。
「ええと、うまく言えないけど、特別に大切な人に贈るものを本命って呼ぶのなら、これは本命で、大切な人には上等の、おいしいものを食べてもらいたかったから」
「チョコレートはわたしが作るより買ったほうがおいしいと思ったんだもん」と彼女はちいさな声で言い添えた。義理が手作りで本命が既製品とは一般的なケースと比べて逆ではないかと思ったが、語られた彼女らしい理由に思わず笑ってしまう。
「ほんとうにうれしいよ、ありがとう。そうだな」
いちばんうれしかったと言いかけて、口を噤んだ。他人への気持ちや評価に「いちばん」という言葉を彼女はあまり使わない。だから、彼女ふうに言うならば、もっと別の言葉で表現する必要があった。
「特別にうれしい」
俺の言葉を受け取って、彼女は首を傾ぎ、ふわりと笑った。ほんとうに、花が咲くような笑みだった。透けるような桃色の頬、瞳の描くやわらかなカーブ、花びらのようなくちびるは朝露に濡れたように輝いていた。花々が咲くよろこびが思い出されて、胸が詰まった。注いだ愛情に応えるようにして咲く、色とりどりの、可憐な。彼女たちは今ごろ、土のなかでなにを考えて眠っているだろう。突然の放棄に戸惑って、かなしんでいるだろうか。それとも、それはそれとして、存外元気にやっているのだろうか。
俺のいない世界で、彼女はどんなふうにほほえむのだろう。
手紙は短く、バレンタインの催事場に行ったこと、バレンタインが楽しみだということ、楽しみなのは俺に会う口実と手紙を書く口実ができるからだということ。そしてイベントにかこつけてまた手紙を書くということが数行で綴られていた。
三月。窓の外には桜や椿が咲いている。鏡のなかの自分は、少し以上にやつれたように見える。
手術は夏に行われることが決まったが、医師のスケジュール調整に難航しており施術日はまだ未定のままだ。主治医からは「成功率は高くはないが、無事に終えられた場合、リハビリ次第では夏季じゅうの復帰も可能かもしれない」というようなことを実に遠回りな調子で告げられた。希望にも絶望にもなり得る言葉だ。決して諦めなたくないと思う一方で、一層のこと、すべて諦めろと言われたほうが楽だったかもわからないとも感じる。矛盾する気持ちに引き裂かれて、魂は体内で乖離していく。
五日は俺の誕生日で、部員たちはたくさんのプレゼントを抱えてやって来た。あたたかい日が続いているので、近ごろは屋上で過ごすことが多い。
誕生日に主役へキスを贈る仁王発案の遊びはまだ続いているようで、俺は両サイドから頬にたくさんの祝福を受けた。彼女はきゃらきゃらと楽しげに笑いながら、こちらにカメラを向けていた。
飲み物を買いに行くといって皆一斉に屋内へ引っ込んだため、途中、彼女とふたりきりになった。気を遣ってくれたのかもしれない。
「お誕生日おめでとう」
彼女はその日何度目になるかわからない祝福の言葉を口にする。夕暮れの屋上で、やわらかな風が彼女の髪の毛やスカートをふわふわと揺らしていた。風は、彼女や、ほかの俺以外のすべてのものへ向けて吹いているというかんじがする。歳を重ねたという実感はまるでなかった。時間は俺の外で流れている。
「きみはしてくれないのかい」
冗談めかして聞いてみる。風がはたと止んで、彼女はぱたぱたと瞳をまたたかせた。
「わたし、ジョークでそういうことはしない主義なの」
「ふふ、知ってる」
部員たちはまだ帰ってこない。彼女は後ろに指を組んで機嫌よさげにほほえんでいる。
「今回の合宿は赤也も行けるみたいでよかった」
「うん。柳くんがみっちり家庭教師をしてくれたの。夜は電話をしてもいい?わたし、またひとり部屋だから」
「もちろん。あ、そろそろみんな戻ってくるみたい」
彼女はそっとほほえむと、こちらへゆっくりと近づいて少し屈み、ベンチに座る俺の頬に両手を添えた。夕映えを背負った彼女の顔がそっと近くなる。彼女の髪の毛が揺れて、春らしい、マグノリアの花に似たかおりが鼻をくすぐる。
彼女がくちびるを寄せたのは、彼女自身の手の甲であった。俺のくちびるにほど近い右の親指の付け根あたりで、まさかキスのふりだとは、ほんとうに寸前まで気がつかなかった。
「……まいったな」
それは、こころからの発言だった。彼女を前にすると、時おり、決心が揺らぎそうになる。彼女のことは諦めなければならない。無責任に縛りつけるべきではないのだ。たとえ今、彼女が俺の手を取って生きていきたいと思ってくれているとしても。不安定な未来に、彼女を連れては行かれない。
俺が動けなくなったとしても、きっと彼女は、俺と生きることを選ぶだろう。長い時を経て、俺への感情が愛から憐憫に変わったとしても側にいてくれるに違いない。俺はきっと耐えられなくなってしまう。なにもかもがいやになってしまう。そうなれば共倒れだ。
だれよりも幸福になってほしい。しあわせにできる確証がないのなら、手を取るべきではない。
ぱたぱたと階段を上る音が響いて、賑やかな声が近づいてきた。
「またね、幸村くん」
戻ってきた部員と入れ違いで、彼女は慌ただしく帰って行ってしまう。あたりには甘いかおりのみが残る。「まいったな」ともう一度呟いてみた。学校には行かれないまま、俺はもうじき、三年生になる。