あの日以来、わたしたちは幾度も秘密を重ねた。幸村くんの調子のよいときに限り、わたしはこわごわと彼に触れる。それはある種の儀式のように、厳かに執り行われた。
皆が王者の誇りを護るものたちとしてりっぱに戦い続けるなか、野良猫のように、通り雨のように、ふらりと訪れる快感として、わたしは幸村くんを思い続けた。
七月二十七日はすぐにやってきた。関東大会の決勝戦が行われる日でわたしたち立海大付属は青春学園との試合を控えていたが、わたしが向かったのは会場ではなく、通い慣れた金井総合病院のほうであった。気を利かせた部員たちが幸村くんの付き添いを勧めてくれたのだ。行かせてほしいと願い出るつもりだったので、それは非常にありがたい提案であった。
おもてはうだるように暑く、外気は重く停滞し、べとべとと足もとへまとわりつくようだった。
病室にはすでに幸村くんのおかあさまがいたので、わたしは気まずさから挨拶もそこそこに退散して、スタッフステーション前のフリースペースで、汗をかいたペットボトルのカーブを撫でている。
「テニス部のみょうじです」のほかに、わたしが言えることはただのひとつもなかった。「おたくのアトリエに度々お邪魔していました」などとは言えないし、なにか取り繕おうにも、今の幸村くんとのいびつな関係が悟られるようなことがあってはいけないと思ったのだ。
わたしは幸村くんの手の甲に触れ、そして指先をやわく握り「院内にいるからね。みんなも終わったらすぐに駆けつけるって」とだけそっと口にした。そうして、逃げるようにしてここへ来た。指先を通してわたしの恐怖が伝わることのないようにと願った。汗ばむ背中にブラウスが張りついて、気持ちが悪い。
ややあって幸村くんから連絡が入る。屋上にいるから、よければおいで。
顔を上げると、幸村くんのおかあさまがスタッフステーションの前を通り過ぎていくところだった。会釈するときのおだやかなほほえみも、そもそもの面立ちも、ほんとうに幸村くんとそっくりだ。
広い屋上に、幸村くんはひとりで立っていた。わたしの足音に気がつくとくるりと振り向いて、やわらかくほほえんでくれる。その両腕が誘うようにこちらに向いて開かれていたので、わたしはすぐさまそのなかへ飛び込んだ。存外しっかりとした腰。今のわたしにはその腰の、肌の色も、指やくちびるで触れたときの硬さもわかるけれど、こうして触れているとき以上に幸村くんを近くに感じることはない。引き込まれ、許されて、触れているとき。なんの駆け引きもなく、すきという気持ちが逸って触れるとき。
「勝利の女神がいないんじゃ、みんなこころ細いんじゃないかな」
「でも、行かないとだめって言って送り出してくれたよ」
風はほとんどない。あたりには行き場を失った熱たちが停滞している。
「幸村くんのおかあさん、幸村くんとそっくり」
「見た目は母親似だね。趣味嗜好は父親譲り」
「妹さんは?」
「どちらかというと母親似かな。昔は兄妹そっくりってよく言われてたけど」
「幸村くんの意外と頑固なところは誰譲り?」
「きみのが移ったんだと思う」
「ひどい」
腕をほどく。幸村くんの髪の毛が揺れる。夜色の波打つ髪。わたしたちは肩を寄せ合い、フェンスの向こう側を見つめる。
わたしは幸村くんとの日々を思い返す。いつも導いてくれた。わたしのこころを見つけてくれた。やさしく寄り添ってくれた。わたしはあなたへ精一杯の恩返しがしたいと思う。そしてあなたが、願いうるすべての幸福を手に入れられるようにと祈る。
崩れかけた関係を思う。不道徳でも、正しくなくても、今幸村くんが笑っていてくれることを、わたしはこころの底から尊いと思う。
駆けつけた部員たちのなかに、真田くんはいなかった。真田くんが会場に残っているということは我が校の苦戦を意味している。
勝たなければ意味がないなどとは思わないけれど、敗北がもたらす彼らへの影響を考えると、胸が痛かった。皆、こういう気持ちを持てあまして、勝利に固執するようになるのだろうか。自分のためにも他人のためにも、あとに退けないという強い気持ち。進むことしか許されない気がして、がむしゃらに打ち込むほかないと思えてしまう。ときに向こう見ずと言われたって、ほかに道がないのでしかたがない。
わたしには、それはもう、ほとんど呪いであると感ぜられる。幸村くんが、真田くんが、どういう気持ちで今戦っているのかを考えなおす。呼吸が苦しくなる。わたしはかたく瞳を閉じる。
待っているあいだじゅう、丸井くんがずっと背中をさすってくれていた。オペフロアの待合スペースで、わたしたちは永遠とも取れる時間を過ごした。息をひそめ、静寂の破られるときを、じっと待っていた。
手術は成功── 運動機能をどこまで取り戻せるかは幸村くんの努力や彼自身の身体に備わっているもの次第ということらしいが──に終わった。その場から動かれなくなってしまったわたしを介抱してくれた柳くんは努めて冷静に振る舞っていたが、その面持ちにはわずかに不安の影が見えた。
大会の成績は準優勝であった。わたしたちにはそれが不吉の予兆であるように思われた。わたしは、一秒でも早く、幸村くんに会いたいと思う。
◇
「きみにだけは会いたくない」
泣きたくなかったのだと思う。彼女はまつげを震わせながら肩で息をしていたが、やがてはらりと涙をこぼした。深く傷つけてしまった。あんな顔を見たのははじめてだ。見開かれた瞳がかなしみに揺れていた。
傷つけるために吐いた言葉ではない。傷つけたかったわけではない。ほんとうはいつでも笑っていてほしい。しかし、どうしようもなかった。
手術が成功したと聞いたとき、おおよそ事実とは思えなかった。身体は驚くほど重く、手足のしびれは術前よりもむしろ悪かったからだ。
リハビリテーションがはじまると、漠然とした恐怖は確かな輪郭を持ち、現実のものとして俺を支配した。夏季じゅうの復帰など夢の夢というふうに思えた。あとは努力と、その努力に身体が迎合するかどうかだと医師は言う。丸腰のまま大海に放られたような気分であった。
関東大会で敗北を喫したテニス部には、隠しきれない焦りの色があった。なんとしてでも戻らなければならない。戻り、そして誇りを奪い返さねば。連綿と紡がれてきたもの。大切に守り、貫いてきたもの。たくさんの人びとの栄光や意思を背負っている。その責任がある。すべてを抱えたまま倒れるわけにはいかないのだ。
「引きずってでも」という赤也の言葉を思い出す。そうだ。引きずってでも。
しかし現実は厳しく、身体の不調から、糸がほつれるようにしてあらゆるところがだめになった。ぐずぐずと溶かされて、こころまでもが身体ごと動かなくなっていくようだった。
眠れば起きられなくなってしまいそうで夜がこわくなった。自分がここまで弱いとは思っていなかった。すべてが閉じてゆく感覚。それは途方もない絶望だった。
「テニスはもう無理だろう」
陰で話す医師の言葉を聞いたとき、全身の力が抜けてしまった。そうでなくても歩行すら難しい状態だったのだ。冷たい廊下にへたり込んだまま、いよいよもう立ち上がれないという気になった。
銷魂のなか、復帰の光は医師の言葉のなかにのみ存在するものであった。自分のこころや身体は希望を生むにはもはや頼りなく、努力の果てにあるものをかろうじて信じることができていたのは、ただただ「彼らがそう言うのだから」という自失的理由の一点に尽きる。
自分が他人の言葉に依存できてしまうという事実に恐怖した。
彼女が病院を訪れたのはその日の夕方のことで、俺たちが鉢合わせたのは病室でも屋上でもなく、リハビリテーション病棟へ向かう途中の連絡通路であった。
「幸村くん」
彼女のやわらかな声が廊下じゅうに響く。次に発する言葉を考えているように見えた。俺を傷つけないやさしい言葉を、やさしい声で届けるために。
彼女の瞳が俺を見つめる。絶望も、怖じ気くこころも、芽吹きかけた諦めすらも、すべて見透かされてしまう気がした。彼女のささやきを聞いてしまえば、そちらに倒れ込んだまま、すべてを手放してしまうという確信があった。それでもよいのだと、どんな俺でもよいと、きっと彼女はほほえんですべてを許してしまう。そしてそのあたたかさにほだされて、きっと自分は、楽なほう、楽なほうへと流されてしまうだろう。
あいしているから、どうしようもなく会いたかった。同時に、顔を合わせるのがどうしようもなくおそろしかった。彼女に会ったとき、自分の感情がどちらに振れるかわからなかったが、今俺を支配しているのは圧倒的な恐怖であった。
「しばらく来ないでくれないか」
それは咄嗟に出た、ほとんどやぶれかぶれの言葉だった。歩行補助の手すりを握る手が震える。力を入れようにも、これ以上強くは握られなかった。彼女は伸ばしかけた手を自分のほうへ引き戻す。
「きみにだけは会いたくないんだ」
やさしさに流されるのがこわい。彼女に許されることが。彼女に甘えきってしまうことが。麻酔で意識を手放す前も、眠られない夜も、考えるのは彼女のことばかりであるというのに、手の届かない場所にいる手に入らないものから与えられる許しがおそろしかった。情けをかけられているようで惨めだと思った。
こんなときでも彼女は、傷ついた顔をしたくないというふうだった。
「気がつけなくてごめんね」と弱々しい声で、それでも口もとにちいさく笑みを作り、彼女はそう呟いた。念を押すように俺はもう一度口を開く。きみにだけは会いたくない。
取り返しのつかないことを言ってしまったかもしれない。しかし、ここでだめになるわけにはいかないのだ。もっと強ければよかった。強ければ、欲望をいなし、彼女のやさしさをまるごと抱き止めることができた。一緒にはなれなくとも、こんなふうに彼女を傷つけることは免れたはずだ。己の不甲斐なさに眩暈がする。
「それじゃあ、また」
消え入りそうな声でそう言うと、彼女はそっと踵を返して去っていった。押し殺した嗚咽が聞こえる。もしも今、この身体を自由に扱えたなら、駆け寄って肩を抱き、すまないと謝っていたかもしれない。なにもかもが叶わない。空調のぬるい風が頬を撫でる。
真田でも赤也でも、ほかの誰でもよいので、今すぐ彼女を慰めてやってほしい。どうしようもなく、あいしている。渡すあてのない熱がまだここにある。俺をすきだと言った彼女を、憐れだと思う。