19:Doubt

 誰もいないロッカールームにいると、ふいに幸村くんが会いにきてくれるような、そんな気がしてしまう。会いたいと思うとき、幸村くんはいつだって、ねだるよりも早くわたしを見つけてくれた。ふたりきりのロッカールームで、準備室で、アトリエで、わたしたちはいつまでも会話を続けることができたし、穏やかな沈黙を楽しむこともできた。

 もうずっと開かれていない幸村くんのロッカーへ触れる。吸い寄せられるように頬を寄せた。かたくて冷たいスチールの感触。

「幸村くん」

 額を擦り付けて呟くと、涙は次から次へとあふれてくる。
 会いたくないと言われたとき、わたしの態度や言葉がどれほど彼を苦しめていたのかを思い知った。それでも会いたいと願ってしまうのは、おろかなわたしのエコイズムだ。これ以上自分勝手になる前に、考えることをやめてしまいたい。



 飲食店の立ち並ぶ通りを抜け、細い川に架かる石橋を渡る。春にはたくさんの椿が見られる場所だ。ここを右に折れたビストロの門の脇に白澄、見えてきた神社の境内に、わたしのすきな乙女椿。この通りの生垣は藪椿である。
 幸村くんと見たかった花。うつくしい花。さよならの予感を感じさせない、完璧な花。そして今は花びらのひとひらもなく、気配もなく、硬くつやつやとした葉が、夕陽を跳ね返すのみである。
 いつのまにか桔梗も散り、ぱっと目につくのは能天気な鮮やかさを振り撒く百日紅ばかりだ。このあたりの百日紅はほとんどが眩しいマゼンタである。

 頭にぼんやりと霞がかかったように、意識がはっきりしない。全身が怠く、まばたきのひとつでさえ苦しいと感じる。働かない頭で、それでも幸村くんのことを考える。幸村くん。幸村くん。
 会いたくないと言われても、ここからあなたの幸福を願うよ。毎日、得られる限りの最大限の幸福をと願うよ。最善の選択と、最良の未来と、たくさんの愛を。


 長い石段を登り、手水舎を越えて、舗装されていないゆるく長い葛折りの坂を登る。境内の小高いところに構えられた東屋は仁王くんのお気に入りのサボタージュスポットで、坂の途中で見える民家のためいかにも私有地然としているせいか、いつも人けがない。

 わたしが幸村くんをもっとよろこばせることができたら、わたしが幸村くんのせつなさをすこしでも紛らわすことができたなら、幸村くんはまたわたしとの時間を許してくれるだろうか。
 わたしの利用価値が、そっくりそのままわたし自身の存在価値だと思われても構わない。幸村くんの役に立ちたい。この有事に、かえって彼を苦しめる存在なのだ。今のわたしは。
 幸村くんの負担にはならないつもりでいた。幸村くんがほんとうに苦しく、ほかの人のことなど考えられなくなってしまったとき、持ちきれない荷物はきっとすべて捨てられてしまう。わたしは切り捨てられる荷物にはなりたくなかった。重たくて捨てられてしまうものにはなりたくなかった。
 幸村くんを愛することも幸村くんに触れることも、それはわたしの責任で、幸村くんに課されるものはなにもなかったはずなのに。

「なんじゃ、思い詰めたような顔して」

 仁王くんは東屋の腰掛け部分に寝転んでいたが、わたしの姿を認めると、むくりと上体を起こす。読んでいた詩集は、しおりも挟まれず彼の学生かばんのなかに放り込まれた。

「あのね、仁王くん、あの、仁王くんは、セックスをしたことはある?」
「どうした、突拍子もない」

 こんなこと、いたく調子はずれである。わたしだってそう思う。でも、ほかになにができるだろう。

「言いたくないなら、それでも構わないけれど……」
「ないとは言わんよ」
「……わたしにセックスを教えてほしいの。お願い」

 わたしは学生かばんを放り捨て、まだ腰掛けに預けられたままの仁王くんの下半身に跨った。
ネクタイをほどいて、ジッパーを下ろし、ジャンパースカートを腰まで脱ぐ。ワイシャツの前を開けると、わたしの白い鎖骨も、乳房の谷間も腹も、すべてが露わになった。前開きのブラジャーのホックがビジューみたいにきらきらと輝いている。
 これは前金のようなもので、わたしはなるべく手早く肉体交渉を確約したかった。ホテル代だって持つつもりだ。

 仁王くんは口角を持ち上げて、わたしの覚悟の脱衣を、まるで自身の仕掛けたいたずらの行くすえを見るような、あるいはピープショーでも見るような、好奇とわずかの加虐心の入り混じった面持ちで眺めていた。
 羞恥心に押し返されないよう、わたしはくちびるを強く噛む。

「ばかなことを言いなさんな。服を着んしゃい」

「わたし、幸村くんをしあわせにしたいのに、なにを言っても彼を傷つけちゃう。会いたくないって言われてしまったけど、次に会えたら、せめて気持ちよくなってもらいたいの。ほかにできることがなにも思いつかなくて、わたし……。すきなの、幸村くんのこと、すごく。あいしてるのに、恋人でもないしきっと友人でもなくて、もう、どうしたらいいのかわからないの」

「おまえさんが相当の床上手になったとして、幸村と会えんことには意味を成さんよ。それともなにか、夜這いでも仕掛ける気か」

 仁王くんはニヒルな笑みを崩さない。わたしの悩みなどまるでどうでもよいことといったかんじで、いたずらにこちらを揺さぶる口調で言葉を紡いでゆく。
 かなしいとか悔しいだとか、なにか思うよりも先に涙がこぼれた。はらはらと溢れ出て頬を滑り、わたしの胸元や仁王くんの上に次々と落ちた。

「わからない。わからないけれど、なにかしていたいの。幸村くんに繋がること」

「混乱ついでに自棄を起こしとる。本音はフェイクんなかじゃ。人間は、見つけられたくない本音や、後ろめたい気持ちほど、派手なフェイクで隠そうとするもんじゃき」

「……わからないよ」

 仁王くんはわたしの腹に爪の先で触れると、そのまま制服の布だまりまで滑らせた。くすぐったいとも感じない。触れたのが幸村くんだったら、わたしはよろこびに身をよじっただろうか。

「シンプルに、会いたい、でええじゃろ」

 上体を起こしきった仁王くんが、鼻先の触れそうな距離で笑う。彼は腰掛けの下へ片方ずつ足をおろしてわたしの身体から抜け出すと、ポケットから取り出したスマートフォンで誰かへ連絡を取っているようだった。

「さて、幸村の『会いたくない』はなんのフェイクかの」

 わたしの自暴自棄が、会いたい気持ちを正当化し、押し隠すためだとすると、幸村くんの言葉の裏にはなにが隠れているのだろう。わたしにはわからない。幸村くんをよろこばせたいという気持ちは確かにやぶれかぶれのなかで生まれた感情だけれど、わたしにはこの気持ちがただのフェイクだとは思えない。

「とにもかくにも、今ケアが必要なのはおまえのほうじゃ。迎えがくるまでここで待っとれ」

 そう言い残すと、仁王くんは背中を丸めて歩き出し、すぐに見えなくなってしまった。わたしは着衣の乱れもそのままに、彼のいなくなった空間をぼうっと見つめていた。


 仁王くんの指した迎えというのは丸井くんのことだったようで、震えるスマートフォンにほぼ無意識下で応答すると、ひどく焦燥した彼の声が耳もとでわんわんと響いた。

 通話を繋いだまま駆けつけてくれた丸井くんは会うなりわたしの頭をわしわしとかき混ぜて、手首を掴んで歩き出す。引っ張られるままについて行くと、鳥居の外に置いてあった自転車のリアキャリアに座らせられた。

「行こうぜ、幸村くんとこ」

 うんともすんとも言えなかったけれど自転車が走り出してしまったので降りる術はなく、固まる思考をよそに、景色はすいすいと流れていった。海の輝きが尾を引いて見える。もうずっと、幸村くんと海を見ていない。

「なんかあったんだろい」
「……会いたくないって言われちゃったの」
「まじかよ」
「きみにだけは会いたくないって」

 丸井くんは「あー」と間伸びした声を出して、少しのあいだ口を噤んでいた。続きの言葉を口にするかどうか迷っているみたいだった。

「そんなの、もう」

 下り坂の終わりにちいさな段差があり、車体ががたんと揺れた。わたしは腰に回した腕に力を込める。
 いつの日か、幸村くんの漕ぐ自転車に乗せてもらったことを思い出す。幸村くんがはじめてわたしを下の名前で呼んでくれた日。変わってゆくことがこわいと言うわたしへ幸村くんは、変わったほうがよいものもあるのだと教えてくれた。



 そんなのはもう、ほとんど告白じゃないか、と俺は思う。


 仁王から連絡をもらってすぐ、自転車で校舎近くの神社へ向かった。メッセージは「なまえを連れて幸村の病院に行け」と、たったそれだけの内容だったのだが、仁王からこういった連絡がくるのは珍しく、これが緊急事態だということがすぐにわかった。
 近ごろはずっと落ち込んでいるようすであったが、境内の東屋でうずくまる彼女はこれまでにないほど意気消沈としており、驚いた。ほどけたネクタイがブラウスの襟元にぶら下がって風に揺れていた。
 幸村くんの面会へ行かなくなったことにも彼女なりの考えがあるのだろうと踏んでいたのだが、どうやら見当違いだったようだ。

 幸村くんが会いたくないと言った理由。彼女にだけは会いたくないと言った理由。彼女だけを、はっきりとほかの者たちと区別しているということ。俺にはそれは、愛の告白だとしか思えない。

「彼女のやさしさに甘えない自信が今はない」

 去年の夏合宿でそう言った幸村くんの声は、凛と強く、前向きな色をしていた。いつか必ず迎えに行くという固く潔い意思を感じて、同性ながら頭の痺れる思いだった。
 病に倒れた今、幸村くんが彼女の手を選び取ることはきっとない。幸福な自分が彼女を幸福にする。それ以外の選択肢が彼のなかにあるとは思えない。
 だから幸村くんの言葉は、あいしていると言えない彼が今彼女に伝えられる最大級の愛のメッセージなのだと、俺は思う。
 やさしさを搾取したくない。依存したくない。甘えたくない。愛を甘えにしたくない。きみを、特別に思う。あいしているから。


 彼女を廊下で待たせて、病室へはとりあえずひとりで入ることにした。ちょうど戻ってきたばかりだという幸村くんは、今日は幾分か顔色がいいように見える。

「幸村くん、あの、お願いっつーか、頼み事っつーか、聞いてほしいことがあるんだけど」
「随分言いづらそうだね」
「いや、なんて言ったらいいのか」
「どうぞ。なんでも」

 幸村くんは肩を揺らしてちいさく笑う。さっぱりとした笑いかたは見ていて気持ちがよい。整った面立ちから一見女性的な印象を受けるが、彼の一挙一動は実にこざっぱりとしていて男らしく、そのギャップは人びとを魅了してやまない。病に伏しても、彼の魅力が衰えることはなかった。

「彼女は元気にしてるかい」
「ううん、まあ、落ち込んでるみたいだぜい」

 切り出しあぐねる俺を見かねてか、幸村くんが口を開く。彼女のことは、それは落ち込んでるとしか言いようがない。まるで他人ごとのような響きだったので、廊下にいる彼女の心境を思うとこころ苦しかった。

「丸井の頼みだけ聞くのはフェアじゃないから、俺の頼みも聞いてもらおうかな」

 幸村くんは顎に指を当てて、わずかに首を傾いだ。考えているようなポーズだが、言おうとしていることはすでに決まっているというかんじがする。

「彼女にひどいことを言ってしまったんだけど、今さら謝りづらくて。会いたがってるって伝えてもらえたら助かるんだけど」

 落ち着いた声色でゆっくりと言いながら、幸村くんは病室の入り口を気にしているようだった。肩の力が一気に抜ける。すべてお見通しというわけだ。思い返してみれば、彼に隠しごとなど、できた試しがない。

「真田にも殴られちゃった」

 幸村くんは俺たちの気苦労など知ったことではないといったふうにあっけらかんと笑う。俺も思わず安堵の笑みをこぼした。

「すぐにでも呼べますが」
「じゃあそうしようか」

 一応、ポーズとして彼女に電話を掛けてみる。すぐに廊下で着信音が響いて、少しの間のあと、開け放しの戸の影から彼女が顔を覗かせた。こんなの拍子抜けだ。夫婦げんかは犬も食わないというのについ首を突っ込んでしまった。俺たちは犬以下ということか。しかし、ほんとうによかった、と思う。

 彼女ははじめ人馴れしていない猫のように室内のようすを伺っていたが、幸村くんの「おいで」のひと言で顔を綻ばせ、晴れて彼の腕のなかへ帰っていった。
 幸村くんが彼女を抱き返す。その腕にしっかりと宿る力を見て、俺は彼の復帰が近いことを確信する。
 俺たちの心配など杞憂に過ぎなかったかと思われたが、どうやらそうではないようだ。困難は確かにここに存在していた。ただ、彼がその壁を越えただけだ。彼女を抱き返す力を、彼は肉体にも魂にも呼び戻したのである。

 幸村くんは帰ってくる。俺たちのもとへ。そして彼女のもとへ。