それは長い夢の終わり。燃えるように暑いコートのなか、なにもかもがストップモーションのように見えた。
迎えてみると、あっけない幕切れのようにも思えた。球が落ちてコールがかかる。たったそれだけのことだった。
悔いの残らない終わりかたかと聞かれれば、決してそうとは言い切れない。
追い続けていたものが見果てぬ夢と消えること。手にすべき星を二度と戻らないときのなかに閉じ込めたままこの場所を去ること。叶わぬまま閉じた夢の結果は、もうどのような手を使おうとも望んだかたちには変えられない。
しかし、ほんとうに不思議なことに、そこまで悪い気はしないのであった。ある種の解放感すらあった。走り続けてきた。ここまで。走り続けなければならなかった。
観客席では応援に駆けつけてくれた学徒たちが、こちらに向けて懸命に手を振っている。まるで勝った者へするように。泣いている者もいれば、笑っている者もいた。皆一様に、興奮したようすであった。
無性に、彼女に会いたかった。
「幸村くん!」
彼女が俺を呼ぶ。勢いよく駆け寄って来た彼女は、その勢いのまま俺の身体にぎゅうと強く飛びついた。
「幸村くん、だいすき」
抱き返した背中が震えている。しかし、明るい声だった。流れる汗を気にも留めないで、彼女は背中に回した腕にさらに力を込める。
彼女がくれたのは、ねぎらいでなく、慰めでなく、ただ確かな愛の言葉だった。
「ありがとう」
俺の腕のなかで、彼女はわずかに頷いた。目の奥が熱くなる。
彼女をすきで、よかったと思う。今ここに、彼女がいてよかったと思う。
部員たちが駆け寄ってくる。会場内は、まだ大歓声に包まれている。
空を仰いだ。青々としたカンヴァスに、雲がいくつも浮かんでいる。生きている限り、夢はいくつも生まれ、どこまでも続いていくというかんじがした。
◇
それは長い夢の終わり。
幸村くんの面持ちを見て、わたしはひそかに胸を撫で下ろした。
神話の完成を、皆で一緒によろこべたらよかった。よろこび以外の感情で泣く人がひとりもいなければよかった。
しかし、この人は今、やっと、疲れた足を休めることができたのだ。すべてのプレッシャーから解放されたひとりの青年として。会場じゅうを熱狂させるスペクタクルを残して。誰の目から見ても、すばらしいプレーだった。
三連覇の夢は、わたしには時おり呪いのように思えた。勝たなければならないという強迫観念にも似た信念は、今までどれほど彼らを、幸村くんを悩ませてきただろう。
病を克服して、プレッシャーから解放されて、まっさらな幸村くんが今やわらかい表情を浮かべていることを、わたしはとてもうれしく思う。
幸村くんには、どうか、幸村くんのために生きてほしい。誇り高く、やさしい人。愛情深い人。
飛びついたわたしを、幸村くんは強い力で抱き止めてくれた。
がんばったね、とか、お疲れさま、とか、言いたいことのすべてを込めて「だいすき」と口にした。幸村くんの「ありがとう」は今まで聞いた言葉のなかで、いちばんやさしい響きをしていた。
帰りのバスのなかは、これから行う打ち上げの話で大盛り上がりだった。
わたしは幸村くんの隣で、これまでのことを思い返していた。車内にはコールドスプレーのにおいが満ちていて、このあたりだけ、幸村くんのやさしいかおりがしている。
「幸村くん、わたし、幸村くんに誘ってもらって、ここに来られてよかった。見たことのない世界をたくさん見せてくれてありがとう」
幸村くんの言う「見たことのない世界」を求めてわたしはここへ来たのだ。ほとんど無鉄砲に。ここがこんなにかけがえのないもので溢れる場所になるなんて、あのときは少しも想像していなかったことである。
「まるでおしまいみたいな言いかただな。退部まではまだあるんだし、今度はもっと格好いいところを見せなきゃいけないね」
幸村くんはわたしの言葉を受け取ると、ちいさく笑う。
「今日だって格好よかったよ。幸村くん、世界いち格好よかった」
「大げさだなあ」
「大げさじゃないよ。ほんとうだもん」
「ほら、主役」と幸村くんへ後ろから声が掛かる。バスはもうすぐ目的地へ着く。今日はまだ終わらない。
大会後のはじめてのオフの日は、幸村くんと出かけることになった。わたしの願いを叶えるべく、幸村くんが計画してくれたのだ。
わたしたちは人気の卵焼き専門店で少し遅い朝食を楽しんで、小町通りをつきあたりまでふらふらと歩いたあと若宮大路を通って駅に向かう。幼いころから幾度となく利用している江ノ島電鉄から見る景色は、いくつになっても、どんなときでもわたしの胸を震わせる。
「きみの願いごとも教えてよ。俺に応えられるものならなんでも叶えてあげる」
幸村くんから急な申し出があったのは、先日の打ち上げのときだ。ほかの部員たちはすでに店外へ出ており、わたしはちょうど会計を済ませたところだった。
たくさん面会に来てくれたからという理由で、赤也くんが幸村くんに願いごとをかなえてもらった──赤也くんは面会に行くたびにシールをもらっており、たまった暁にはひとつ願いを聞いてもらうというという約束がなされていたのだ──という話題で盛り上がったあとのことである。赤也くんがなにを願ったのかまでは教えてもらえなかったが、宿題をかわりにやってほしいとか、強さの秘訣を教えてほしいだとか、おおかたそんなところであろうと予想がつく。
そして、いちばん多く面会に来てくれたから、と、幸村くんはわたしの願いごとまで聞いてくれるというのだ。わたしはさんざ悩んだ結果、一緒にお出かけがしたい、と切り出してみたのである。
「デート? いいよ、しようか」
幸村くんはそう言って笑い、すんなりと請け合ってくれた。わざわざ「お出かけ」というワードを使ったわたしの言葉を、わざわざ「デート」と言い直して。
横顔の耳もとから顎にかけてのラインがうつくしかった。ふと見上げるとき、つい触れてしまいたくなるシャープな輪郭。ひんやりとしていそうに見えるのに、実際はとてもあたたかいことを、わたしは知っている。
近ごろ、わたしたちの境界線はひどく曖昧だ。それは大変によろしくないことである。
うまく友人として振る舞えなくなってきていると感じる。
幸村くんとの時間は穏やかに過ぎた。こうしてふたりでゆっくりと過ごすのは去年の夏ぶりのことである。失われていたものを取り返したような気がしたが、そっくりそのまま返ってきたというわけではない。
幸村くんとの関係はこじれ、ひねたものになり、わたしはもうあのときのように無垢でなく、気がつくとよけいなことばかり考えている。
わたしたちは二年前そうしたように、富士山の見える岬から海を眺めることにした。今日は風が少ないので、きっとうつくしい海原が望めるだろう。あのときわたしはまだ入部前で、幸村くんとは知り合ったばかりだった。
石段の途中で躓いたわたしの手を幸村くんが取る。想像よりもずっと高い温度に安堵した。病室で握る手のひらは、いつも静かでぬるかった。
「ありがとう、幸村くん。もう大丈夫」
「そう? 転ばないようにね」
離された手のひらのあいだを、濡れた潮風が通り過ぎる。
波が海蝕台地を洗う。何度も何度も。沖へ引く波は、幾度となくやって来ては、岩肌を撫でて去ってゆく。砕けた水面のかけらも、また海に溶け、波の一部となる。
夕映えであたり一帯が黄金色のヴェールで包まれる。楽しかった一日が終わろうとしている。
「幸村くん、具合は大丈夫? 疲れてない?」
「平気だよ。心配しすぎ」
一日を通して、様々なことを話した。そこかしこに咲く花のこと、幸村くんのガーデンのこと、部員たちのこと。しかし相変わらず、遠い未来の話題にはならなかった。わたしにはまだまだ話したいことがたくさんある。来年も一緒にテニス部に入ろうねとか、成人したらいちばんはじめに一緒にお酒を飲んでほしいなとか、おとなになってもそばにいたいなとか。友人のひとりとしてでいいから。
わたしの夢見る未来には幸村くんが必要不可欠なのに、幸村くんはまだ、どの未来にも自分はいないのだという顔をする。
「幸村くんが帰ってきてくれてよかった」
「そうだな。まるっきり本調子というわけではないし、再発しないとも言い切れないから、手放しでよろこべるわけじゃないけどね」
幸村くんの長いまつげが揺れる。目を伏せると、彼はまるで女性のようにも見える。
「……こわい?」
少しの間を置いて「こわいよ」と幸村くんは言う。わずかな笑みを含んだ、明るめの声色だった。自嘲かもしれなかった。
「やりたいことも叶えたいこともたくさんあるけれど、自分の身体がこれからどうなるかわからないままじゃ、うかつに手を出せないし」
日がほとんど沈み、潮風が強くなる。復帰を能天気によろこんでいた自分がはずかしくなる。幸村くんの左手を両手でそっと包むと、彼は空いたほうの手でわたしの頭を撫でてくれた。
「でも、悪いことばかりじゃないよ。病院にいるよりはもちろんずっといいし、結果はどうであれ色々とひと段落ついたしね。ほら、かなしい顔しないで」
あっとういう間に夜のとばりが下りてくる。ばら色を差したすみれの空を、黒々とした闇が侵してしまう。海原もとぷとぷと音を鳴らしながら、深い夜に溶けてゆく。釣り人も観光客もすっかり引き上げてしまった。
夜は幸村くんに似ている。深くて、やさしくて、少し切ない。昼間よりもずっと、わたしをすなおにしてしまう。そして、うつくしい。
まるで夜のなかにふたりきりで閉じ込められてしまったみたいで、わたしは少し、嬉しかった。ずっと今日のままならいいのに。そうしたら幸村くんは、明日の恐怖に怯えなくてもよいし、未来のことなど考えなくともよくなるのに。
そんな途方もない夢想をしつつ見上げると、幸村くんがほんとうにやさしい面持ちでこちらを見つめていたので、わたしも思わずそっとほほえんだ。
「運命を嘆くときもあるけれど、この世界を、うつくしいと思うよ。今も。きみがほほ笑んでいてくれるから」
わたしたちは繋いだ手をそのままに、元来た道をゆっくりと歩いた。ほんとうは今日、幸村くんの気持ちを聞いて、この関係を終わらせるつもりだった。
しかし、やはりわたしは、自分が幸村くんの望む世界を構成するもののひとつであるという希望を捨てきることができない。この気持ちをただの思い上がりであると切り捨てることが、どうしてもできない。
ぽつぽつとある街灯のこころもとないあかりの下に、人慣れしたようすの猫がいる。
「デートとお出かけの違いってあるの?」
「特に親しい異性と誘い合わせて出かけるのがデートかな」
「今日のはデート?」
「俺はそのつもりだけど」
表参道の仲見世はもうほどんどが閉まっており、空いているのはいくつかの定食屋のみだった。あたりは薄暗く、海にかかる弁天橋の向こう側ばかりがきらきらと輝いている。
橋を渡りきってしまえば、今日という日の魔法が解けてしまうような気がした。日常がやって来て、幸村くんは皆の幸村くんへと戻り、わたしはただの一介のチームメイトとなる。
「帰りたくないな」
そうこぼしながら思わず足を止めてしまったため、幸村くんとの距離が少し空いた。わたしたちは手を繋いだまま見つめあう。
もしもあのとき、自分を含むすべての人の思いを無視して、どんな願いでも口にしてよかったというのなら、わたしはなんと言っただろう。
きっとわたしは、幸村くんのほんとうの気持ちを教えてと願ったはずだ。わたしの手を振りほどかない理由の根底にあるものが、責任か、好意か、それとも惰性なのかを教えてほしいと。わたしが身を引けば、あなたはほかの誰かと健全な恋をするのか、知りたいと。ほんとうを教えてほしい。痛くないように、そっと、教えてほしいと。
「帰らなければいい。このまま」
幸村くんが低く呟く。いつの間にか高くなった波の、岩肌にあたって砕ける音がする。まっすぐに見つめあったまま、わたしたちはしばらく動けずにいた。触れた手のひらがじくじくと熱を持っている。