20:舞い上がれ世界

 朝の教室で、わたしは隣の空席をぼうっと眺めている。窓際で誰にも座られないままプリント紙を毎日数枚咥えこむだけの、さみしい机。開け放しの窓のせいで大きくひるがえるカーテンに攫われてしまいそうに見える。ただの一度も使われていない、幸村くんの席。もうじき予鈴が鳴る。わたしはどこからか聞こえてくる風鈴の音に耳を澄ます。

 「おはよう」という聞き慣れた声が響いたあと、教室内がにわかに騒がしくなった。わたしは耳を疑ったが、その声を聞き違えるはずがなかった。しかし、人だかりのせいで姿は見えないし、立ちあがろうにも身体が固まってしまって動かれない。
 幸村、幸村くん、精市くん、と皆は思い思いの呼びかたで彼の名を口にする。息が吸えない。思考が追いつかない。スカートを握りしめたまま指先さえ自由がきかなくて、張り裂けそうな胸を押さえることも叶わない。
 復学のことはおろか、退院するとも聞いていなかったのだ。驚くどころの話ではない。

 割れた人垣のあいだを通り、幸村くんは呑気に片手を上げながらこちらへ歩いてくる。そうして座ったままでいるわたしの前まで来ると、甘く掠れた声で呟いた。なんでもないことというように。いつもの調子で、なめらかに。

「ただいま」

 わたしは彼の腰もとへ強く腕をまわす。スラックスの固い生地からだいすきなかおりがする。脇目も振らず額を擦りつけて、さめざめとわたしは泣く。

「おかえりなさい」

 ようやくそう絞り出すと、幸村くんはやさしい手つきでわたしの頭を撫でてくれた。

「悪いことをしたね。少し驚かせようと思ったんだけど、まさかこんなに泣かれるとは思ってなかったんだ」

 ひさびさの登校のせいか、いたずらの成功によってか、幸村くんの声はわずかに弾んでいる。開け放しの教室の戸の向こうからテニス部の面々が覗いており、皆一様に楽しげなようすだったので、幸村くんの復帰を知らされていなかったのがわたしのみだったということがわかった。ちいさく息をつく。ようやく口もとが緩む。
 大きく息を吸うと、だいすきな幸村くんのかおりが肺じゅうを満たした。幸村くんのあたたかさは、わたしの身体にじんわりと馴染む。あまりにも自然と馴染むので、こうしてくっついていることが必然というように思えてしまう。
 夢のようにうれしかった。去年の秋から、ずっとずっと、この日を待ってた。願いこがれた瞬間。幸村くんの帰還。


 昼休み、隣のクラスから丸井くんが訪ねてくる。わたしは友人と昼食を終えて、屋上庭園へ向かおうかと思っていたところだった。

「あれ、幸村くんは?一緒じゃねえの?」
「うん、クラスの男子たちと学食に行ったよ。なにか用だった?」
「いや、今朝のおまえの号泣事件について冷やかしにきただけ」

 そう言いながらうしろへ周ると、丸井くんは慣れた手つきでわたしの髪の毛を梳かしはじめた。

「放課後部室で復帰祝いするって、柳から伝言。せっかくだからかわいくしてやるよ」

 丸井くんの口から幸村くんの名前を聞いて、わたしは彼の帰還が現実のできごとなのだと改めて実感する。柳くんの計画にも、クラスメイトの会話にも、今日はそこかしこに幸村くんの気配がある。わたしにはそれがうれしくてたまらない。

「丸井くんも知ってたんでしょう、幸村くんが帰ってくること」
「まあな。うれしく思えよ、トクベツ扱い」
「もう本人公認のファンみたいになっちゃって、少し複雑だけどね」
「まあ相手にされないよりはいいんじゃねえの。幸村くんもまんざらじゃなさそうだし」
「どうかしら」

 丸井くんはスマートフォンのカメラでわたしのうしろ姿を撮って見せてくれた。とても器用に編みおろされている。
 とにもかくにも、幸村くんがすこやかに、幸福に生きてくれるのなら、それで満足だとわたしは思う。相手にされていても、いなくとも。まんざらでないと思っていてくれても、そうでなくとも。



 思いがけず長引いてしまった監督との電話を終えて部室へ向かうころには、すでにテニスコートから高らかな打音が聞こえていた。アップを終えた部員たちが手出し練習をしている音だ。
 部室棟の廊下をゆるく駆け、誰もいないと踏んでノックもせずにロッカールームの扉を開けると、着替え途中の幸村くんと目があった。ポロシャツの下はボクサーパンツしかつけていない。わたしは思わず「きゃ」と素っ頓狂な声を上げる。

「ご、ごめんなさい、誰もいないと思ったの……!」
「わ、びっくりした」
「見たけど見てません……」
「ばかだなあ。今さら恥かしがることないだろ」

 両手で口もとを覆ったまままごつくわたしを見て、幸村くんはおかしそうに喉をならして笑う。ずっと閉じたままだったロッカーは幸村くんの手によっていともたやすく開けられて、内側の鏡に彼のうつくしい横顔を映している。夢みたいだ。ほんとうに、夢のようだ。

「また泣きそうな顔してる」

 幸村くんはごくやさしくほほえんでくれる。ラケットバッグの前に屈む背中に、わたしは思わずぎゅうと抱き着いた。幸村くんはわたしの腕にそっと触れる。

「おかえりなさい、幸村くん」
「うん、ただいま。留守のあいだ、ここを守ってくれてありがとう」

 肩に顎を乗せると、よしよしと頭を撫でられた。頬が合わさる。幸村くんのとろけるような熱を感じて、わたしはこころの底から満たされた気分になる。うれしくてたまらないのに、涙はほろほろと静かに流れた。処理しきれない幸福が瞳を介してあふれているのだと思った。

「おんぶして行こうか」
「うん」
「ずいぶん甘えたになっちゃったな」
「今日はずっとおんぶがいい」
「構わないけど、恥ずかしがってもやめないよ」

 今日くらいはうんと甘えても許されるだろうか。まだふわふわと夢を見ているようで、幸村くんを視界に映していないと、今日の出来ごとすべてが現実のことでないように思えてしまう。また幸村くんが消えてしまいそうな気がしてこわいのだ。せめて今日は、ずっとずっと触れていたい。ここにいるのだと、どこにも行かないのだとわからせてほしい。深く。



 監督とレギュラー陣が秘密裏に準備を進めていてくれたようで、復帰祝賀会は想像よりもずっと豪勢に行われた。ケーキにフライドチキン、ピザやサンドイッチに巻き寿司、ドリンクの種類も様々だ。そして、にぎにぎとした雰囲気の部室のなかで、わたしはすさまじい尋問にあっている。

「んで、パンいちの幸村くんと抱き合ってたってまじ?」

「パンいちは語弊があるな。ポロシャツも着てたよ」

「一方的に絡んでいただけで、抱き合ってはいないです……」

「まったくけしからん。マネージャーのおまえが部内の風紀を乱してどうする」

「まあ今日くらいは大目に見てやってもいいだろう。毛利先輩と言い争ったり弦一郎に突っかかったり、みょうじも色々苦労したことだしな」

「へえ、初耳」

「赤也が見舞いに鉢植え持って行ったときも、ばかばかって言いながらきゃんきゃん泣いとったの」

「ていうか、マネージャーってまだフリーでいいんですよね?幸村部長と付き合ったりしてないっすよね?」


 着替え中の幸村くんへのハグを一年生に見られてしまったのだ。復帰のこともあり部内では誰もが幸村くんのことを話していたのでうわさは猛スピードで回り、レギュラー陣の耳に入るまではあっという間だった。
 しかし、その件でからかわれるのはしかたがないとして、柳くんと仁王くんの発言にはあきらかに悪意がある。なにか言い返したい気持ちであったがどれも事実だったため反論の余地はなく、横目で盗み見た幸村くんの顔が非常に楽しげだったこともあり、わたしは詮かたなしと諦めてなかば自嘲気味に口もとを緩めた。笑うと、幸村くんと肩がぶつかった。

 部内がこんなふうに盛り上がるのは実にひさしぶりのことだった。一年生ははじめて会う幸村くんに終始興奮しどおしで、二年生も三年生も待ちわびていた復帰をこころからよろこんだ。幸村くんという圧倒的なカリスマを迎えて、わたしたちテニス部はようやく元の色を取り戻したようだった。
 おかえり、待っていた、と皆は何度も何度も繰り返し口にした。受け止める幸村くんの穏やかな横顔を、わたしはずっと見つめていた。


 日は大分長くなったけれど、帰るころ、あたりはすっかり暗かった。海辺は湿度が高く、歩いているだけで肌がしっとりと濡れてくる。満天の星を映し取った海原が、低い波でゆらゆらと揺れている。
 月あかりに照らされて、幸村くんの横顔はより一層うつくしく見えた。だいすきな海辺の町をこうしてまた幸村くんと歩かれることがうれしかった。
 水平線の近くの一帯が夜行虫で青く光立っている。思わず幸村くんの袖を引きそうになったが、彼も同じように水平線を眺めていたので、わたしも黙って視線を戻し、淡く光る青い水面を静かに楽しんだ。言葉は不要という気がした。


 真田くんと別れてふたりきりになると、わたしはにわかにそわそわとしてしまう。部員たちに散々からかわれたあとだというのに、幸村くんはいたって平静というかんじだ。

「おぶろうか」

 こちらを振り向きながら、幸村くんはいたずらっぽい笑みを浮かべている。

「ううん、いいの。ラケットバッグもあるし、幸村くん疲れちゃうよ」

 それに、今はあなたの顔を見ていたいから。そう思ったけれど、口にするのはやめにした。
 今日という特別な日が許したわたしのわがままを、明日以降に引きずるわけにはいかないからだ。どこまでも許されて、すべてが手に入るなどと思ってはならない。
 甘えたいという願望は、別れの時間が迫るにつれて、身のほどを忘れてしまうことへの懸念に塗り替えられてゆく。

「それじゃあゆっくり歩いて帰ろう」

 わたしが隣に並ぶのを待って、幸村くんはほんとうにゆったりとした足取りで歩き出した。時おり肩や指先が触れた。わたしはその指を追って掴んだりはしなかったし、幸村くんもそうはしなかった。ただ不意に触れるやわらかなぬくもりをありがたいと思った。
 ひまわり、萩、おしろい花。
 あたりの花々はまるで今日はじめて咲いたとでもいうように、その存在を鮮やかに主張しあっている。

 わたしたちは「また明日」と言いあって、幸村くんの家の前で別れた。たとえ明日のことであろうとも、幸村くんと未来の約束をできることが、わたしにはとてもうれしかった。
 玄関ドアが閉じるのを見届けて、わたしは踵を返す。過保護だなあ、と笑う幸村くんを押し切って、ここまで無理やり着いてきたのだ。わたしの家は幸村くんの家よりも校舎寄りにあるため、元来た道を引き返す必要がある。

「なまえ」

 ガーデンまで出てきてくれた幸村くんが、つるばらのフェンス越しにわたしの名前を呼ぶ。

「今日はありがとう。暗いから気をつけて帰って」

 すき、と叫びたい気持ちを抑えて、わたしは大きく手を振った。去年までのドラマティックな鮮やかさを失ったガーデンはうらさびしい雰囲気であったが、幸村くんを囲む草花は、風にそよぎながら彼の帰還をよろこんでいるように見えた。

 幸村くんのガーデンは、来年にはまたうつくしい花々で満ちるだろう。世界は鮮やかさを取り戻す。
 幸村くんを連れて動き出したときのなかで、わたしはまた生きる。生きてゆく。幸村くんと生きていかれたかもしれないわたしを、閉じた世界に残したまま。