昼休み。ひどく混雑した食堂で、俺はトレイを持ったまま立ち往生している。学食がうまいことで有名な我が校では、少しでも出遅れると空席を探すのも一苦労である。視線を感じたような気がして硝子越しのテラス席に目をやると、手招きをする幸村くんと目が合った。
「サンキュ、幸村くん。助かったぜい」
「誰かしらいるだろうと思ってちょうどひとりで来てたんだ。会えてうれしいよ」
「げ、相席狙ってた女子に恨まれるやつじゃん」
「ひとりでいても男子しか来ないよ。俺を見かけて寄ってきてくれるのはなまえくらいだ」
ああ、と俺は納得の声をこぼす。今や彼は学校じゅうのスターで、大抵の女子は畏れ多くて話しかけられないのだ。
幸村くんは看板メニューのカレーを、俺はオプションで大盛りにした焼き肉ランチを食べている。
寛解の診断がおりていないとはいえ、幸村くんは復帰前よりもずっと生き生きとしているように見える。それは久方ぶりに通常の生活を取り戻したからか、全国大会を終えてプレッシャーから解放されたからか、あるいはそのどちらともなのかはわからなかったが、入院中の不安定なようすも見てきた身としてはとてもよろこばしいことと思えた。
「あいつとなんかあった?」
「特に変わったことはないけど、どうして?」
「いや、幸村くん、最近妙にごきげんだと思って」
そう?とでも言いたげに、幸村くんはわずかに首を傾いで肩を上げる。俺はメラミンでできた湯飲みふうのコップに口をつけた。ここは食事はうまいが、飲み水はカルキくさくてぬるく、いつもまずい。
まわりの女子の視線を感じるが、幸村くんはおかまいなしといったようすだ。
「後悔しないように生きるって決めたんだ。そうしたら取捨選択が捗って、前よりも世界がクリアに見える気がしてる。そのせいかな」
「後悔しない生きかた、ねえ」
後悔しない生きかた。彼にとってそれは、責任を放棄してすき勝手やるということではない。自分がそういう生きかたのできる人間でないことを自覚し、その上で真実成したいことを見つめなおして、進んでゆくこと。おおかた、そんなところであろう。
「彼女のこと、どう思う?」
「なまえ?」
「そう」
「どうって、いい女だし、マネージャーとしても文句ねえけど」
幸村くんは次の言葉を待つようにこちらを見つめていたが、特に言うこともなかったので、俺も彼を見つめ返した。
「真田はにぶいし無骨だし、赤也は手がかかりすぎるし、頼むとしたら丸井くらいなんだけどな」
なんでもないこと、というふうに幸村くんはつるりと言ってのける。好意を寄せている女を、ほかの男にあてがおうというのだ。眩暈がした。
「早計だって」
「シミュレーションは大事だろ」
「まあ、そうかもしれねえけどよ」
だいいち、そんなこと、彼女が望んでいないのだから。そう思ったが、口にするのはやめにした。彼女の望みなど、はなから彼は見通している。その上で、彼女の友人という身分に甘んじているのだ。
「俺は、彼女の好意を、俺たちにとって呪いにしたくはないんだよ。たとえば、一緒にいると決めたのだから離れられない、なんて、思ってほしくないだろ」
幸村くんはきれいにカレーを平らげ、静かに手を合わせる。
「とにかく、俺はお情けもおこぼれもごめんだぜい。ふたりはとっとと収まる場所に収まったほうがいいに決まってんだ」
ありがとう、と幸村くんは口角を持ち上げて笑ったが、俺の言葉を受けて彼が考えを改めることはないだろう。
お情け、というワードを使ってしまったことに遅れて気がつき、はっとした。幸村くんはすでに席を立っていた。
土曜日。部活動を終えて、俺たちは仁王の家にいる。コンクリート打ちっぱなしの洒落た部屋は、いつ訪れても俺たちの気分を盛り上げてくれる。
「やっぱ映画見るなら、仁王んち一択だよな」
「雰囲気ありますもんね、仁王先輩の部屋。俺、ひとりぐらしはじめたら絶対仁王先輩にあれこれ見繕ってもらうって決めてるんで」
赤也が部屋じゅうを観察しながら言う。これは恒例行事である。飽きずに毎度そこかしこを物色するのだ。
俺もぐるりと室内を見まわす。生活感がなく、洗練されている。遊びごころも忘れない。女子ならずとも胸の躍る部屋である。
「高くつくき、覚悟しんしゃい」
「うげ、金取るんすか」
「必要な投資だよ、赤也くん。おんなのこをめろめろにしたいんでしょう」
「やっぱりマネージャーもこういうのがすきなんすか」
「ううん。大切なのはどんなお部屋に住んでいるかじゃなく、誰が住んでいるかだもの」
「じゃあ必要投資じゃないじゃないすか」
「おまえはまず中身磨くところからはじめろい」
ローテーブルの上には、大量のスナック菓子と、レンタル用のケースに入ったいくつものディスクが置かれている。
ジャンルちゃんぽん観賞会は不定期開催で、大抵は仁王の家で行われる。レギュラーメンバーは俺と仁王と赤也であるが、ここ最近はなまえも参加しており、イベントは紅一点を迎えてますます盛り上がりを見せている。
今回観ることに決めたのは、ホラー映画とサスペンス映画と、アニメーションの映画が一本ずつ。これを最低限のノルマとして、サブでいくつかのゾンビ映画と、スパイアクションもの、恋愛リアリティーショーの名前が上がっている。
俺たちは、俺の隣に仁王、その隣に赤也、彼女の順番で、テレビを真正面に構えるフラットソファに腰を掛けた。三人掛けのソファで押し合いへし合いするさまは、間接照明のあかりとコンクリート打ちっぱなしの壁面に飾られたオールドキネマのポスターが演出する色気を見事に打ち消している。
「あ、赤也くんに蹴られた!」
「足当たっただけ! 冤罪っすよ」
「幸村に言いつけるなり」
「幸村くん、明日予定あるんだっけ?」
「うん、お父さんとピアノリサイタルを観に行くんだって」
「朝いちで帰れば無問題じゃん。誘おうぜ」
「迷惑になっちゃうといけないでしょ」
「迷惑かどうかは幸村が決めることじゃき」
彼女はしばらく唸ってから携帯電話を手にしたが、沈思すると、そのままブランケットの上に置きなおしてしまう。
「一本観てから考えよう」
耳まで赤くして、潤む瞳で彼女は呟いた。幸村くんのことを語る彼女は、それがどんな話題でも、まるで別人のように大人びて見える。愛を知っている、という顔をする。そうすると、どんなにこどもじみた言葉でも、濡れた響きを持つのだ。
一発目に観たホラー映画は評判どおりのおもしろさで、俺たちは全員大いに満足であった。
「仁王くん、こわいところでリアルに脅かすのはやめて」
「ええリアクションじゃった」
「そんで、そのええリアクションに俺と赤也がビビるっていう」
すでにフラットソファからはみ出してフローリングに座っている赤也へ、仁王がクッションを投げて寄越す。
「赤也くんはそもそもずっと怖がってたよ。わたしの袖がびちょびちょだもの」
「だってえ、音が卑怯なんすよ。ばーんって」
「だってえ」
「仁王くんさすが! 似てる」
きゃらきゃらと笑っていた彼女の笑い声が、はたと止まる。携帯電話のディスプレイを見つめて瞳をしぱしぱとまたたかせている様子を見れば、ある程度の察しがつく。幸村くんだ。
「電話きてた?」
「電話きてた」
彼女がリダイヤルをはじめる。電話口で、幸村くんがなにかを言った気配を感じる。彼女の声がどんどんと甘くなる。うん、うん、そう、と幸福そうに相槌を打つ。
赤也をちらりと見たが、案外あっけらかんとしたようすだったので、すこしほっとする。俺たちのよいところは、身内どうしの恋愛で関係がこじれたりはしないことだ。ひとりひとりが特別な絆で結ばれており、そのことを全員が理解しているからである。それぞれが友情と呼ぶにはもったいないくらいの深い絆のもとで繋がれている。彼女と幸村くんも、幸村くんと赤也も。彼女と赤也もだ。
「うん、今、仁王くんのおうちにいるよ。みんなが寝落ちするまで、映画とかをたくさん観るの。今日はお泊まり」
少しの間があって、彼女がちいさく呟く。
「会いたい」
驚くほど甘くて、濡れた響きだった。たしかな熱を感じた。不覚にもどきりとしてしまい、思わず盗み見た彼女の横顔のとろけるようなほほえみが、しばらく頭から離れなかった。
結局、レギュラー陣全員の参加が決まって、鑑賞会は広い客間のある柳の家に場所を移すこととなった。俺たち以外のメンバーは、ジャッカルの家の店で食事を取っていたらしい。
俺たちはかばんにDVDやお菓子をぎゅうぎゅうと詰め、寝巻きのままおもてへ出た。
「丸井くん、乗せてもらえるかしら」
「荷けつ上等。落ちんなよ」
彼女が荷台へ横向きに腰をおろす。タイヤがかすかに揺れた。腰に腕がまわされて、やわらかい肌のぬくみを感じる。
海沿いの平坦な道を俺たちは風を切って走った。海原の上で星が尾を引いて見える。うしろにいる彼女の、うっとりとした顔が目に浮かぶ。
いつまでもこのままでいたい。以心伝心とやらを信じられる仲間たちと、こうやって。こころが無遠慮に踏み荒らされるおそれもない、不可侵的な絶対の安心と安定のなかで。
時よ止まれ、とか自己中なことは言わないけれど、俺たちだけが世界から今切り取られて、ずっと閉じ込められたままでいられたらと思う。
柳の家が見えて、先を走っていた赤也と仁王に反応した幸村くんの声が聞こえた。閑静な住宅街に、ブレーキ音が響く。
「丸井くん、ありがとう」
「おう、こんなん朝飯前だろい」
「ガムあげちゃう」
彼女はかばんから取り出した板ガムの包みを開けて、俺のくちびるのあいだに差し込んだ。そうして踵をめぐらせ、ぱたぱたと軽快な足音を立てて幸村くんのほうに駆けていく。
「幸村くん、集まれてうれしい」
「あんなにかわいくねだられたんじゃ、かなわないだろ」
ふたりが並んでいると、あるべきものがそこにある気持ちよさのようなものを感じる。
目が合うと、幸村くんは笑顔で手をあげてくれた。羽織ったカーディガンが落ちないように、彼女の手のひらが、彼の肩に添えられている。
時おり思う。たとえば皆への気持ちが恋だったら、どれだけ楽だっただろう。冷めていくこともある。きっと終わらせることもできる。友愛は、明確な終わりもないまま、俺たちの意思に反して、徐々に熱を失っていくものではないだろうか。
だから、大切に思うこの気持ちが恋愛感情であればよかったのだ、と。そうでなければ、家族でありたかったのに。
丸井、と俺を呼ぶ幸村くんの声で我に返る。
落ちてくるような星空だった。
潮風があたたまりきった身体を冷やしていく。ちょうどよい速度で。
◇
深夜。テレビでは話題の恋愛リアリティショーが流れている。モニタのなかでは着飾った女性たちがひとりの男を手練手管で落とそうと画策している。
和室どうしの広い続き間のしきりを閉めた向こう側で、真田はすでに寝入っている。
「俺は断然あの子っすね。おっぱいでかいしかわいいし」
「おまえ絶対騙されるタイプだよな」
「そういう丸井先輩はどうなんすか」
どの女性が好みかという話題になると、彼女はにわかにそわそわと落ち着きをなくしてしまった。口もとには笑みを浮かべているが、サマーブランケットから出した指先をもじもじとしきりに動かしている。涼しげな幾何学模様の入ったウォッシュドリネンのブランケットは、俺と彼女の膝を跨いで掛けられている。俺たちはラタンの座椅子に腰をかけて広いテーブルの前に座っており、赤也や丸井や仁王はすでに布団を敷き、その上で寛いでいた。
「幸村、おまんはどうじゃ」
仁王の言葉に、彼女の肩のこわばるのがわかる。彼は確信犯の目をしている。好奇の色で見つめられて、彼女はすっくと立ち上がった。
「お手洗い行ってくるね」
「いってらっしゃい」と返してから、仁王への返事のつもりで「俺は」と続けると、彼女は声にならない声を上げて俺の頭を真正面から胸のなかにかたく抱き寄せた。額にゆたかな胸が押しつけられて、目の前が暗転する。彼女のやわらかい肉はどこもかしこも水のようにしなり、俺の身体のあらゆるおうとつに驚くほどたやすく馴染む。
「い、言わないで……!」
皆の唖然とした顔が浮かぶようだった。まれに妙に大胆な行動にでるのは、彼女のおもしろいところのひとつである。
「神の子に胸を押しつけられるやつはなかなかおらんよ。見事じゃ。あっぱれなり」
はっと息を呑む音が聞こえて、視界が戻ってくる。
「人の悪口で盛り上がる女子は苦手だから、あのなかに俺の好みの子はいないよ。これが答え。ほら、お手洗いに行くんだろ。行っておいで」
ひゅう、と仁王が口笛を吹く。やめなさい、とたしなめる柳生の声もたのしげである。彼女はちいさく息をつくと静かに襖を開けて部屋を出ていった。
俺たちはセックスはしたのに、キスはしたことがないし、お互いのすきなタイプについて話したこともない。
彼女はそういう話題を避けたがるし、ふだんは指先が触れるだけではずかしそうに俯いてしまう。俺の背中のどこにほくろがあるのかも、知っているというのに。
「星座みたい」
あれは彼女が俺の部屋にはじめてひとりで来たときのことだ。彼女はベッドにうつ伏せに横たわる俺のとなりに座り、俺のはだかの背中を指で愛おしそうになぞっていた。
家族はちょうど出払っており、俺たちは行為のあとで、ふたりとも少しくたびれていた。彼女はシルクのペチコートのみを着ており、その身体に月あかりを目いっぱい受けていた。うつくしかった。
「ここと、ここにね、ほくろがあるの。幸村くん知ってた?」
「さすがに知らなかったな。自分の背中は見られないしね。もう一度教えて。どこと、どこ」
「ここと、ここ」
彼女がなめらかに指先を這わせる。やわく押されたところに、どうやらほくろがあるらしかった。
「幸村くんの背中、だいすき。白くて、なめらかで、知らないのもったいないよ」
「きみが知っているならじゅうぶんだ」
彼女はうれしそうにほほえんで、そのまましばらく、俺の背中をたのしんでいた。背骨をなぞり、ピアノを弾くみたいに、とんとん、と触れたりした。
泊まっていってもかまわないと告げたが、彼女は二十一時前には自宅へと帰って行った。
時計が三時を打つころ、彼女が隣で船を漕ぎだした。真田以外のメンバーはまだ起きている。
「蓮二、彼女そろそろ限界みたい」
「二階の客間を整えてある。場所はわかるか」
「ああ。いつもの場所だね」
立てるかい、と聞くと、彼女は目を伏せたまま、こくりと小さく頷いた。
彼女の手を引いて、やや急な勾配の階段をゆっくりと登る。ぽとぽとと重たそうな足音が着いてくる。腕は脱力しており、手を握り返してくる気配はない。
二階の客間はひとり客用で、俺たちもひとりのときはここを使用する。柳の家に泊まるとき、彼女はここをあてがわれるのが常だ。
扉を開けるとすでに布団が敷かれていた。彼女はその上にぺたりと座り込む。
「起きたら幸村くん、もういない?」
「そうだね、朝いちで帰るから。さみしいのかい」
「うん」
「きみは眠たいと素直になるのかな。それとも、暗闇だと大胆になれるのかい」
返事はなかった。ほとんど寝入っているようで、んん、とくぐもった声が聞こえる。脇の下に手を差し入れて一度抱き寄せ、掛け布団の下に寝かせてやる。ゆっくりと胸を上下させて、すっかり眠っているようだった。
階段の下、坪庭が見える硝子戸の前に、蓮二が立っている。聞けば、涼みにきたということであった。客間からは、皆の明るい話し声が薄く聞こえてくる。
「明日は早くに帰るから、なまえをよろしく。からかいすぎないように頼んだよ」
「からかったことはないつもりだが、承知した」
「心配だな。蓮二は妙に彼女に絡みたがるから」
彼はわりに世話好きで、赤也の面倒も率先して見てくれている。紅一点の彼女も、彼には大いに助けられただろう。しかし、彼女に対してはわざと焚きつけるような言動が目立つのだ。恋愛に対しては比較的放任のポーズを取ろうとする部員が多いなか、彼はめずらしいタイプである。
「それらしい理由をつけるとすれば、いつかおまえを連れて行ってしまうことへの、ささやかな当てつけ、だ」
蓮二の口もとが楽しげに弧を描く。
「俺はどこにも行けやしないさ」
俺はちいさく皮肉を吐く。彼の言葉が俺に気を遣わせないためのフェイクであることを理解した上で。彼が彼女へ絡むのは、煮え切らない俺たちの背中を押そうとしてのことであることも、ほんとうはきちんと、わかっている。
「おまえがそう思っているうちはな」
蓮二は穏やかな声色でそう言うと、明かりの漏れる客間へ戻って行った。
坪庭に白萩とりんどうが咲いている。季節は否応なしにめぐる。秋が来るのだ。