九月もなかばを過ぎた。わたしたちの不道徳な関係は、まだ続いている。
滅多に行かれないが、家族が不在のときには幸村くんの部屋へも誘われるようになった。それが進歩なのか後退なのか、わたしにはわからない。
「数えなくて大丈夫だよ」
先日、幸村くんの部屋を訪れたときのことだ。ベッドのフットボードわきのドレッサーからコンドームを取り出すわたしのうしろで、幸村くんが言った。
行為のたびに、どうしても気になってしまうのだ。箱の中身を確認しながら、わたしは得も言われぬ複雑な気持ちになってしまう。残りが減っていないことにひとまずほっとして、そして次は、かばんのなかや、アトリエのチェストのなかなど、ほかの場所に置かれているそれらの存在を思い出し、落ち着かない気持ちになってしまう。わたしの知らないところにだって潜んでいるかもしれない。そしてそれらは、知らぬ間にじわじわと消費されているかもわからないのだ。
「ゴム、数えなくても大丈夫だよ。心配しなくても、きみ以外とは寝ない」
「それは……」
後ろから腕を引かれて、わたしはベッドに寝転ぶかたちで幸村くんのほうへ倒れ込んだ。頭を胸もとへ抱き寄せられて、ひどく当惑したことを覚えている。
「ごめんなさい。幸村くん、萎えちゃった?」
「ううん。でも、今日はやめにしようか」
ちいさく頷いたあと、わたしは彼の腕に抱かれて、しばらくじっと動かずにいた。とつぜん終わった肉体交渉の外で、抱きしめ返してよいものかわからず、静かに息を潜めていた。身体を重ねるより、こうして抱きしめられるほうが、ずっと幸村くんを近くに感じられるのだと知った。
わたし以外と寝ないというのが、彼なりのけじめなのか、はたまたほかの理由からなのかは、わからなかった。言葉にされると、まるで契約やルールのようだ、と思った。わたし以外とは寝ないという「きまり」のもと、セックスをしているようであると。
その日もわたしは彼の家には泊まらずに帰った。間違っても、自分を恋人のようだとは思わないために。
◇
二年になって、一学期が終わった。目下の一大イベントであった全国大会も終わった。すべて、あっという間のできごとであった。時間は有限だ。急いて生きるくらいでないと、間に合わない。
うだうだしている暇などないというのに、目の前の彼女は未だに宙ぶらりんの身分のまま、俺の目の前をこれ見よがしにふらついている。
俺は前よりも様々なことがわかるようになった。彼女が足踏みをしているあいだに、漫画も、映画も、ドラマも、山ほど楽しんだのだから。
三年は、もうじき、部活には来なくなる。
「マネージャー、救急箱知らないっすか」
「おつかれさま、赤也くん。今持ってくるね。お薬の期限のチェックをしていたの」
「薬に期限なんてあるんすね」
「うん。飲み薬だけじゃなくて、テープや塗り薬にもあるんだよ。箱や袋に書いてあるの」
彼女に着いて、準備室へ入る。相変わらず暗い部屋だ。窓際にいくつものトロフィーが並んでいる。ショーケースに飾らないのは、過去の栄光には縋らないという意思からだろうか。常に勝利を掴め。今日勝っても、明日負けるかもしれない世界で。
「赤也くん、また怪我したの」
「男のクンショーっすよ」
「そういう思想は危険だよ。怪我をしたってえらくなりませんからね。無茶はしないように」
彼女は甘い声で、こどもをあやすように言う。背中を向けていて表情は見えないがしかし、やさしいほほえみがまぶたに浮かんだ。容易に。
怪我をしたのが、部長だったら。
もし、怪我をしたのが部長だったら、彼女はどんな反応をするだろう。慌てふためき泣き出しそうな顔で、幸村くんどうしたの大丈夫、と、部長の頬や腕や胸をぺたぺたと触る。部長は穏やかに笑って、心配しすぎだよ、と彼女の頭を撫でる。そのとき、頭のてっぺんではなくて、こめかみに近いところを撫でるだろう。
彼女は部長がすきだ。それは、恋愛的な意味で。
気がついたのは、部長の見舞いのおり、彼女が彼に「だいすき」と言ったからだ。人が告白するところを、俺ははじめて目の当たりにした。部長は「ありがとう」とだけ返していたので、その後ふたりがどうなったのかはわからなかったが、うわさでは特に進展していないということだった。部長は彼女の気持ちに応える気がないのだ。
彼女が部長に思いを寄せていたことはもちろんだが、それよりも驚いたのは、周りのひとたちが皆、彼女の気持ちに気がついていたということだった。
柳先輩はともかく、仁王先輩は他人の色恋沙汰には興味がなさそうだし、ジャッカル先輩や柳生先輩は、まあ、まだ気がつくほうかもしれないが、丸井先輩は食うことばかり考えているのかと思っていたのだ。副部長はこの会話に参加していなかったので、どういう見解だったのかわからないが、彼に限っては、気がついていたようには思えない。
大会が終わったという感慨から抜け出したあと、俺を襲ったのは、膨れ上がる独占欲と支配欲だった。
「赤也くん、なにがほしいの」
振り向く彼女の、やわらかそうな髪の毛が揺れる。窓からのわずかな光を拾って、その一本一本がきらきらと輝いている。いつかきれいだと思った横顔とは違う、あどけなさが背伸びをするような笑顔だ。
あの夜の海原で見た、息のとまりそうなほどにうつくしいまなざしのわけが、今になってわかる。その視線の先にいたのは、たしかに、幸村部長だった。
彼女の左肩を掴ませたのは、衝動だった。無理矢理に振り向かせたので、彼女はバランスを崩してこちらへ倒れてくる。オーバーサイズのジャージの下の身体は、想像よりもずっと細くちいさかった。
抱いているのはこちらのはずなのに、その肌のやわらかさに、逆に包まれているような気になってしまう。花のようなかおりがする。鼻先をブーケにうずめたときのような、甘ったるいかおりが胸を満たす。
一瞬の間を置いて、彼女は俺の身体をぐっと押し戻した。細い横髪が頬に張りついている。彼女の瞳は、はじめて見る強い色をしていた。
「先輩をからかったらだめだよ」
それは想像していたどの表情とも違った。怯えたり、泣いたり、照れたりするかと思っていたのだ。
彼女は、ただまっすぐな瞳でこちらを見つめていた。俺の行動は、彼女のどこを揺さぶることもできなかったのだとわかった。
「冗談なんかじゃないっすよ。目の前でふらふらふらふらされて、たまったもんじゃねえ。もう、限界なんすよ」
「赤也くん」
「あんたが俺になんの興味もないのはわかってんだ。ないもんは、作ればいい。あんたを奪うのは俺だって、わからせてやりますよ」
後ずさりした彼女が、デスクに手のひらをつく。ごと、と鈍い音がする。片腕を掴んでも、抵抗する気配はない。ただ、射抜くようなまなざしで俺を突き刺している。
「じっと待ってたって、部長はあんたを選ばない」
「それは事実かもしれないけれど、あっちがだめだからこっち、とはならないわ」
「俺のなにが足りないんすか」
「赤也くんのなにがだめなわけでもないよ。人と人とを比べて、足りているとかいないとか、そんなおそろしいこと、考えたこともない。赤也くんはじゅうぶんすてきだよ。でも、だからといって、ほかの人の魅力が失われたり薄れたりするわけじゃない」
「あんたは部長が手に入らないからって意地になって、なにもかも拒もうとしてるだけだ。だめなもんはだめなんすよ、マネージャー。すきなんです。俺ならあんたをかなしくさせない」
だめなものはだめという言葉が、自分の言動と矛盾していることに気がついたのは、すべて吐き出してしまったあとだった。湧き上がる羞恥心やいらだちのまま、彼女との距離をさらに縮めた。ともすれば、くちびるが触れそうな距離だった。
長いまつ毛も、細い髪も、白い肌も、濡れたくちびるの赤さも、すべてが俺とは違う素材でできているもののように見えた。そのやわらかさを知りたいと思った。
この距離でも、彼女はじっとこちらを見つめていた。余裕というかんじがして、俺はさらにこころを焦がす。
だめなものはだめ。そうであっても、俺は彼女のこころになにかを残したい。ほんのちいさな火種でよい。彼女を内側から焦がすものを。
「人を呼ばなくていいんすか。俺、あんたを抱くつもりですよ」
「そうすることで赤也くんの気が済むのなら、かまわないよ。セックスだけじゃこころを繋ぐことはできないから、あなたに抱かれても、わたしはなにも変わらない」
くちびるが触れる寸前、彼女は諦めたように視線を外した。
震えていたのは俺のほうだった。触れるだけのキスをしてゆっくりと離れると、彼女は俺を見つめる瞳からはらりと涙をこぼした。
一度抱き上げてデスクに座らせ、無理矢理に片足を持ち上げると、あらわになった白い太もものつけ根のほうに、花びらのようなちいさなあざを見つけた。こうなることを予測して刻まれたかのような、ちいさいけれど、それは確かに色濃い、所有欲だった。
「ちくしょう」
情けない声が出た。彼女も先ほどまでの余裕な面持ちではなく、じっと耐えるようにまつ毛を震わせていた。
内ももに思い切り噛みつくと、彼女は短い悲鳴をあげた。間抜けな歯形のまわりが、唾液でぬらぬらと濡れている。
乱暴に音を立てながら準備室を出て行く俺に、彼女はなにも言わなかった。震えた呼吸の音だけが、かすかに聞こえていた。
◇
ノックの音がして、そのあとすぐに「入るよ」と穏やかな声が聞こえた。幸村くんだ。
わたしはまなじりに残る涙をジャージの裾ですばやく拭き、努めて自然な笑顔を作る。ここが暗い部屋でよかったと思う。
「救急箱のありかを聞こうと思っていたんだけど、きみがなかなか戻ってこないから」
「ごめんね。すぐ戻るつもりだったんだけど、あの、救急箱の中身、思ったよりぐちゃぐちゃで」
わたしは窓辺のデスクを背にして立ち、幸村くんがあまり近くに来ないことを祈って太ももを擦り合わせたが、願いも虚しく縮まる距離をうれしくも感じてしまう。今度は自然とほほえみが生まれたが、まなじりにまた涙の滲むのがわかった。赤也くんに噛まれたところが、じくじくと熱を持っている。
「何かあったんだね。どうしたんだい」
目の前で立ち止まった幸村くんの胸に額を寄せると、涙はとめどなく溢れてきた。幸村くんのやさしい腕が、わたしの頭をやわらかく抱く。あやすようにやさしく撫でられて、せつなくてたまらなくて、わたしの身体はそこから溶けてしまいそうになる。
キスをしてしまった。幸村くん以外の人と。しかし、わたしのくちびるも、身体も、幸村くんのものではない。わたしの身になにが起ころうとそれはわたしだけの問題で、幸村くんにはなんの関わりもないのだ。わたしにはそれがかなしくてたまらない。
触れても、こころは繋がらない。赤也くんの行為を受け入れたのは、わたしがそのことを痛いほど知っているからだ。何度身体を重ねても、幸村くんのこころは手に入らない。わたしの気持ちが、恋人になるというかたちで成就することはない。抱いても、抱かれても、なんべん繰り返したっておなじことだ。こうして寄り添っていても。
「幸村くん、せつないの」
ミーティングテーブルのほうにやわく押し返すと、幸村くんはおとなしくそこに腰をかけてくれる。なにをされても平気なのだ。それはわたしが先ほど赤也くんに放った言葉どおり、幸村くんのこころが、これから起こりうるどんなことにも動かされないということを暗にものがたっている。幸村くんのなかにあるのは、揺さぶられないという、圧倒的な余裕だ。
白い頬に両手を伸ばして、こわごわと触れる。意外にも、幸村くんは驚いたようだった。涼しげな瞳がゆっくりと見開かれる。わたしはそのまま幸村くんとの距離を詰めてゆく。
なにか言って、と思うがしかし、幸村くんはなにも言わない。わたしも、なにも言えない。
キスをしてもいい?と聞けない。聞く勇気より、その答えを受け止める勇気のほうがない。
もしここでキスをしてしまえば、もう取り返しがつかない。きっとがまんがきかなくなってしまう。こころの通わない触れ合いも、無色透明ではない。そういった触れ合いは、いつもわたしのこころを鈍くぶつ。
「なまえ」
幸村くんがやさしくわたしの名前を呼ぶ。応えるように、わたしの瞳からははらはらと涙が溢れる。重たい女だと思われたくないのに、面倒をかけたくないのに、泣きたくないのに。
「わたし、うそつきだ」
赤也くんにひどい態度を取ってしまった。焦れる彼に自分を重ねて、自暴自棄を起こしてしまったのだ。平気だなんてはったりで、現にわたしは傷ついているし、赤也くんはもっと傷ついているはずで、彼を傷つけてしまったことを、無責任な発言をしてしまったことを、わたしはほんとうに悔いている。
こころの通わないセックスが、どれだけ人をせつなくさせるか、誰よりも知っているはずなのに。触れて、触れられて、こころだけ繋がらないまま、混乱して、絡まって、いやな人間になってゆくのを止められないむなしさ。膨れ上がったエゴイズムをコントロールできなくなっていくおそろしさも、よく理解しているというのに。
うなだれて胸に寄りかかるわたしを、幸村くんは静かに抱き止めてくれた。
幸村くん。もし中断しなければ、幸村くんはわたしのキスを受け入れてくれただろうか。わたしたちはなにか変わっていただろうか。
ほんとうは少しだって割り切れていないわたしを目の当たりにして、幸村くんは今、なにを思っているのだろうか。そろそろ潮時だろうか。幸村くん。あいしているのに。思いの大きさで恋が成就しないことも、わかっているけれど。
「ほんとうは、きみを自由にしてあげなくちゃいけない」
幸村くんの腕にわずかに力がこもる。ごめん、とちいさな呟きが聞こえる。
「わたし、幸村くんの思う自由なんかいらない。すきでここにいるの。こうしていることがわたしの自由だから、奪わないで」
擦り付けた額を受け止めるデコルテの、あたたかすぎず冷たすぎない、少し湿った感触。身体じゅうに染み渡る、やさしいかおり。涼やかで複雑な、春の花のようなこのかおりが、わたしはどうしようもなくだいすきだ。
考えてはいけないこととわかってはいても、夜ごと、目を閉じるとどうしても頭に浮かんできてしまうのは、もしも幸村くんの身になにも起こらなかった世界線があったのなら、ということだ。そこで幸村くんは、ほしいものをほしいままにできているだろうか。時おり感じる強い孤独のにおいとは、無縁に生きてくれているだろうか。そこではわたしたちの関係に、名前はついているだろうか。
いつかすべてが終わるとしても、それは、幸村くんが純然な彼自身の意思で、ほしいものと不必要なものとを振り分けるときがよい。病や他人のことなど顧みず、幸村くんの意思で要らないと判断されたとき、わたしはきっと、とびきりじょうずに頷けるはずだ。