25:魔法の言葉

 薄暗い準備室で、さめざめと泣く彼女の、頭や背中を撫でていた。どれだけそうしていたかわからない。彼女の呼吸が落ち着いたころ、薄手のポロシャツはたくさんの雫を吸い込んで、すっかり重たくなっていた。

「真田、彼女体調がよくないみたいだから、帰らせることにした。駅まで送ってくるから、留守を頼んだよ」
「顔色が悪いな」
「この時間だ。今日のメニューはこなしているようだから、おまえも上がるといい。精市」

 うむ、と頷く真田の陰から蓮二が顔を出す。青ざめてまつ毛を震わせる彼女は、たしかにさながら病人のようで、彼らふたりも驚いたようすだった。

 日はすでに落ちており、外には夏のなごりを感じるぬるい空気が停滞していた。雲が少なく、星がよく見える。

「ごめんね、幸村くん。付き合わせてしまって」
「いいよ。すきでやっているんだし。それに、謝るべきは、きみをそんなふうにさせたやつだからね」

 さすがに卑屈すぎただろうか、と少し申し訳なく思ったが、彼女は存外穏やかな面持ちで、泣き腫らした瞳を重たそうにまたたかせていた。
 彼女は夕暮れや夜の静かな海がすきだから、こういう穏やかな夜は、いつもとりわけ機嫌がいい。橋の下に広がる海の、ふだんより控えめな波の音に、耳を傾けているようだった。

「浜辺に降りようか」
「いいの?」
「もちろん」

 橋名板の近くから下へ降り、元来た方向へ引き返すと、少し歩いたのちに浜のほとりへ辿り着く。砂がちいさな山や谷を作っていて足場が悪く、革靴を汚しながらでないと歩かれない。
 彼女の手を引いて、ゆっくり、ゆっくりと進んでいく。岩肌にぶつかって砕ける波の音が、だんだんと大きくなる。

「今日は渚に寄りたい気分だったの。だから、駅まで送ってもらったらこっそり引き返すつもりだった」

 視界が開けて、眼前いっぱいを海原が支配してしまうと、ようやく彼女のナチュラルなほほえみが見られた。
 欄干や海岸沿いのたてものを飾るイルミネーションの輝きを拾ってうつくしく光る水面は、黒とも青ともつかない、深い色をしている。きらめく夜の、上澄みのような色。

「わたし、足だけ入る」
「へえ、めずらしいね」
「足だけでも少し冷やしたいの。あと、処理しきれない気持ちを、波にさらってもらおうと思って」
「俺も入ろうかな」

 俺は驚く彼女を傍目にすばやく革靴と靴下を脱いでしまうと、ちいさく駆け、その勢いのまま水面を蹴った。砂浜は思ったよりも冷たくて、水は思ったよりもあたたかかった。追いかけてきた彼女の指先を掴む。深さを確かめるように、一歩一歩進む。

「幸村くん、寒くない?」

「平気だよ。思ったよりもあたたかいな」

「これからぐっと寒くなるよ。秋が終わって、冬が来て、春になったら、今のメンバーではなかなか集まれなくなっちゃうね。きっとあっという間だよ。さみしいな」

「きみはあまり、刹那的なものを好まないよね」

「まだこどもだもの。おとなになって、たとえばわたしに、家庭とか仕事とか、そういう守りたいものや帰りたい場所ができたら、移ろいゆくものを、穏やかな気持ちで愛することができるんじゃないかなあ」

「ほしいのは絶対的な安定、か。きみらしいな」

「ひとつだけ、絶対に変わらないって確信を持てるたいせつなものがほしいの。それに依存したいわけではないし、するつもりもないけれど、生涯、こころのお守りになってくれると思うから」

 繋いでいなかったほうの指先を彼女が握って、俺たちは向かい合うかたちになる。
 きみのそういう考えがすきだよ、と伝えたかったけれど、彼女がなにか言いたげな面持ちをしていたので、飲み込むことにした。

 きみの、そのこころ、まなざし、やさしさのなかに孕む少しの危うさも、ほんとうは。すきだよ。だいすきだよ。
 きみがほほえむと、大雨のなかで傘を差し掛けられたみたいに、救われたという気持ちになる。こころが安らぐ。うれしくなる。きみを待っていたんだ、と俺は思う。生まれてからずっと、きみを待っていた、と。
 足首をゆるい波が何度も撫でる。

「さっきは取り乱したりしてごめんなさい」

 ささやきのような彼女の声は、さざ波の音にかき消えることなく、おれの耳に鮮明な響きで届いた。

「あのね、わたしとのことは、幸村くんのすきなようにしていいよ。もちろん、これは捨て鉢で言っているわけじゃなくってね。わたしにとっていちばん大切なのは、幸村くんのこころが健康であることだから」

 風が吹いて、彼女の髪の毛を揺らす。水面から反射する砕けた光を受け、オーロラのように輝く。
まっすぐなまなざしが、その言葉がまことであることの、なによりの証だった。指先を握る力が、きゅ、と強まる。

「貪欲に生きて。幸村くん。だいすきだから」

 ひとつだけ、これだけは絶対に変わらないもの。その存在のために、さまざまなもののうつくしさや在りかたを受け止められるもの。
 ひとつだけ、揺るがないもの。移ろいゆくものの儚さを受け入れるための、芯になってくれるもの。
 たとえば、たしかな愛。惜しみなく、降るような。

「誰よりも、きみを大切に思うよ」

 指先が離れて、ぬるい風が吹いた。濡れたまつ毛を、星々がそっと煌めかせる。
 彼女は寸前まで瞳を開けていた。肩を持ち上げ、わずかに後ろへ身をひいて、これから起きることに思いを巡らせているようだった。鼻先が触れたとき、彼女は星の棲むように輝く瞳を、ようやくそうっと伏せた。
 触れたくちびるのやわらかさに少し驚く。ほかの肌のどこで受けたときよりも、甘く、とろけるような温度であった。


 使えない言葉がたくさんある。選び取ってはいけないものが、たくさんある。

 病に倒れ、彼女の愛を受けるのがこわいと感じたとき、俺の気持ちは彼女の思想とほとんどマッチしていた。不変の愛を手に入れたとき、人間は寛容になる。
 あのときも退院した今もおそろしいのは、揺るぎない愛の上に身を置いたとき、世のなかの理不尽や自分の弱さを許してしまいそうなことである。
 もしもテニスができなくなっても。もしもうまく動かれなくなったとしても。
 極度のストレスに晒されたとき、やさしい逃げ道のあるなかで、まっすぐに生きられる自信を、今の俺は持ち合わせていない。
 やさしい愛情にもたれかかり、彼女がいるのならなんだってよいのだと考えてしまうことがこわい。

 彼女と俺の違いは、寛容になることで、強くなるか、だめになるかという点だ。
 揺るぎない愛のもと、彼女はきっと世のなかの無常を受け入れて、強くうつくしく生きてゆける。俺は今のままでは、世のなかの不条理を諦めて、ただの甘ったれになってしまうに違いなかった。


 触れるべきでなかったかもしれない。責任も取られないというのに。恋人にはしてやれないのだ。その意志は変わらない。
 俺の身体にもしものことがあったとき「きみには関係のないことだ」と言ってやらなくてはいけない。彼女を解放する魔法の言葉を残しておかなければならない。
 しかし、どうしようもなく愛しくてたまらないのである。泣きたくなるほど。笑っていてほしい。できれば、自分のそばで。いつまでも幸福でいてほしい。
 彼女を思うたび、湧き上がる両面感情が身体じゅうを焦がす。どの思いも、焼けついて離れない。

 彼女の揺るぎない幸福そのものになれたら、と思う。繊細な彼女が、この世のうつくしいもののすべてを楽しめるように。せつなくて涙が流れても、きっと大丈夫と思えるように。


 降るような星空の下で、彼女は満面の笑みをくれた。
 待っていてと言えない俺の気持ちを掬い上げたかのような、極上の、やさしい笑みだった。