夏のなごりも失せ、季節は名実ともに、すっかり秋となった。
彼女が部室に秋桜のブーケを持ってきた。白いワックスペーパーのなかで束ねられたオーキッドピンクの花々は、繊細な水絵のようにうつくしい。庭に咲いたものらしく、いつのまにかやってきて、こぼれ種で増えたのだと言う。幸村はいち早く彼女のもとへ近づくとブーケを受け取って、すぐに、ちょうどよい花瓶を持ってきた。
彼女の幸福そうなほほえみを受けて、幸村も、実にしあわせそうに顔を綻ばせていた。
「真田」
幸村が俺を呼ぶ。
「めずらしいな。ぼうっとして」
「すまない。練習試合の話だったな」
彼女を手に入れたいとは思わない。それはおそらく、彼女の存在があまりにも遠く、手に入らないということがわかりきっているからだ。勝ちへの執着も、鍛錬も、恋愛には活かせない。
勝利は勝者のもとに訪れる無機質なトロフィーで、手に入れたのち、心中どのような扱いをしようとそれはこちらの勝手であるが、恋愛においては、思いの実ったあかつきには思い人を幸福にしてやるという責任が生じる。彼女が俺のもとで、心底幸福に過ごせるとは、思わない。
スポーツショップからの帰り道、幸村と、彼の自転車の荷台に乗る彼女を見た。ふたりは横断歩道の手前で、肩を揺らしながらなにやら楽しげに話している。彼が前へ向き直ると、彼女は彼の背中に愛おしそうにもたれたのち、目の前のブレザーのほんの表面に、そっとくちびるを寄せたように見えた。俺は声を掛けられず、少し離れた場所からふたりの姿を見つめていた。
はるか先を進み、なにもかもを持っていってしまう。苦悩とは無縁というふうに涼やかな顔をして。憎いとは決して思わない。どこまでも行け。すこやかに。そうして、すべてを掴み取ればよい。
彼女が選んだ男が幸村で、ほんとうによかった、と思う。幸村に対する否定しきれない羨望と彼女に対する憧れは、近ごろその境界線が曖昧だ。
◇
風が少なく、一日を通してのんびりとした穏やかな天気だった。サボタージュをする者も羽目を外しすぎる者もいなかったので、部内のようすもまた、空模様と同様に比較的落ち着いていたように思う。
今日の作業も、あとは日誌と監督への報告書を書き上げるのみとなった。
ロッカールームのほうからなにやら楽しげな声が聞こえてきたので、気分転換も兼ねてあちらへ場所を移そうと準備室の扉を開けると、仁王くんのいたずらっぽい瞳と視線がかち合う。人差し指と中指のあいだには、トランプほどの大きさをした白い画用紙が挟まれてゆらゆらと揺れていた。
後ろ姿の真田くんは肩をそびやかせて、なにやら憤っているようである。
「まったくふざけた質問を。婚前交渉などもってのほか」
「経験ないなら想像でもいいってルールでしょ、副部長。さっきからちっともまともに答えないじゃないっすか」
「上を嫌がる方もいますからね。その日のお相手の性癖に合わせます」
「やあ、お疲れさま」
「お、お疲れさま。お邪魔だったかしら」
「いいや、ちょうどええとこに来た。見ての通りゲーム中での。おまえさんも参加せんか」
仁王くんがこちらに差し出した画用紙のカードには、比較的癖のない筆跡で“騎乗位と正常位どちら派か”と、ばかげた言葉が書かれている。ローテーブルの上には同じ大きさのカードがいくつも無造作に散らばっており、そのすべてに同じようにお題が書かれてあるようだった。ぱっと見ただけなので文字を読みとることはできなかったが、どれもくだらない内容であるということは想像に難くない。
「勝ち負けのない遊びですよ。カードに書かれた質問に順番に答えていくんです。ひとりにつき二枚カードを書き、それを消化するまでをワンセットとします。ワンセットのなかでパスが二度だけ使えるので、どの質問を避けるかがみそですね」
「下級生との交流にどうかなと思って試しにはじめてみたんだけど、この通り、ふざけはじめたやつがいてね」
「秘密を対価に秘密を暴く。どうだ、粋じゃろう」
「品のないトークに粋もなにもありません。わたしは参加しないよ。他人の秘密を暴きたいとも、自分の秘密を暴露したいとも思わないもの」
そこまで言い終えたタイミングで、幸村くんはベンチの端に詰めて席を開けてくれる。空いたスペースをぽんぽんと叩く指先に誘われて、腰を下ろした。
「部誌を書くんだろ。うるさくても構わないなら、ここでどうぞ」
幸村くんの言葉に頷いて、膝の上でラップトップを開いてみたものの、なかなか集中できず思うように指が動かない。
コの字型に並べられた樹脂ベンチの、いわゆるお誕生日席からは、好奇心に満ちた皆の顔がよく見える。
ゲームは次のセットに差し掛かったところで、真田くんと柳くんは離脱し、柳生くんが集め終えたカードの束をトランプの点切りの要領で混ぜていた。仁王くんは準備室から持ち出したデスクチェアの背もたれを抱き込むようにして反対側から腰を掛けている。
部員たちはわりにこういう遊びがすきで、先日は「愛してるゲーム」に興じる姿を目撃した。部室へ立ち入ったとたん、幸村くんの「愛してる」という声をくらったわたしは、あわや卒倒してしまうところであった。柳くんが支えてくれなければ危なかったと思われる。
「幸村くん、さっきのゲームではなんて書いたの」
「一応匿名にしてあるのに、ここで聞くのかい? ほら、仕事に集中」
幸村くんの指先が、キーボードに置かれたまま動かないわたしの指先に触れる。掠めるように触れ、ふっと去っていったぬくもりの余韻が肌を甘く痺れさせて、わたしの指は余計にばかになってしまう。
集中、集中、と、うわ言のように呟きながら、かぶりを振った。
幸村くんは一体、カードになにを書いて、そして、先ほどのお題にはなんと答えたのだろう。そう考えてしまうのは、今しがた発した「他人の秘密を暴きたいとも思わない」という自分の言葉と、甚だ矛盾している。
「俺たちの答え散々聞いたでしょ、マネージャーもなんか教えてくださいよ。ほら、“セックスの最中のときめくしぐさ”」
「もう、セックスセックスってそればっかり。男の子ってそんなことばかり考えてるの? えっちなことはよくわからないけれど、わたしはそんなことよりキスがしたいし、お付き合いするならそういうふうに考えてくれる男性がいいって思うけど」
ひと息にそういうと、なんだかみじめな気持ちになってしまい、鼻の奥がつんと痛くなった。熱を持った顔を隠すようにそっと俯くと、なぜだか涙がこぼれそうになる。
セックスなんていくらしたって、快楽を伴う行為以上の意味を持たない。そのときちょっと気持ちがよくったって、わたしを永劫しあわせにするわけではない。恋人以外とのセックスは。恋人とのそれを、わたしは知らない。
わたしの発言のあと、一年生のグループがどやどやと帰ってきたので、レギュラー陣の破廉恥なゲームはそのままお開きとなった。
めずらしく自転車で来ていた幸村くんが、後ろに乗せて送ってくれると請け合ってくれた。
リアキャリアに腰を下ろすと、ひんやりと冷たかった。
ぎっとパーツの軋む音が聞こえたが、わたしの身体は少しも揺れない。わたしを後ろに乗せるとき、幸村くんはいつも、わたしに危険のないよう細心の注意を払ってくれる。わたしはここが世界でいちばん安全な場所だと感じる。
今、あの画用紙のカードをもらえたら“ここにほかの女の子を乗せたことがありますか”と書いて、幸村くんに手渡したい。実際には怖気づいてしまい、そんなことはできやしないと、わかっているけれど。
今日は潮風も穏やかで、海は時おり凪いで鏡のようになった。日はすでに沈みきっており、すみれ色の空には、星を纏った紺青色の帷がゆっくりと降りてくるのが見える。
「あのね、幸村くん。さっきの言葉、当てつけのつもりではないんだけど、気分を悪くさせてしまっていたらごめんなさい」
「わかってるよ」
信号待ちのあいだ、声を絞りだすようにして呟いた。セックスよりもキスがしたいというのは、まぎれもなくわたしの本心であったが、幸村くんを傷つけようという意図はない。
幸村くんがくつくつと笑って、頬を寄せた背中が静かに揺れる。幸村くんのうつくしい声が、彼の洗練された身体のなかで響くのがわかる。腰に巻きつけた腕にぎゅうと力を入れると、応えるようにまたほほえんでくれた気配がした。
「名前をたくさん呼んでくれるところ」
幸村くんがふいに呟いた。話が見えなくて、なあに、と返す。
「マネージャーのかわいいところ。さっきのゲームのお題であっただろ」
それは確かに先ほどのゲームで誰かが挙げた質問で、幸村くんはルールを無視してほとんどのお題に対してパスと答えていたため、彼の回答は聞けていなかったのだと思い出す。
「すきなんだ。きみに名前を呼ばれるの」
信号が赤に変わり、自転車がそっと止まった。幸村くんはこちらを振り返って瞳を細めて笑う。
今日の朝ごはん、先日のテストでいちばん悪かった点数とその教科、理想のデートプラン、わたしの第一印象。幸村くんは先ほどのゲーム内での質問の回答を、ひとつひとつ教えてくれる。歌うように、なだらかに。
「今度ふたりでやろうよ」
「ううん、せっかくだけど、遠慮しておく。知りたいことと、知りたくないことって、紙一重だもの」
「たしかに。言えてる」
たとえば、すきな異性のタイプ。今、すきな子がいるかどうか。恋人がいたことはありますか。ファーストキスはいつ、どこで。わたしのことを、どう思っていますか。
知りたいと思うとき、わたしは同時に、それらに対するやさしい答えを期待してしまう。傷つく覚悟がなければ、教えてほしいなどとは決して言われない。
「ねえ、幸村くん」
「なんだい」
「幸村くん」
「はい」
「幸村精市くん」
「うん」
ふふ、と幸村くんが笑う。わたしも喉を鳴らして笑う。幸村くんの身体の前で組んだ指に、彼の手のひらが触れる。
幸村くんの漕ぐ自転車で、このまま、どこまでも連れて行ってもらえたら。ここは移動式の安全地帯で、わたしはどこまでも幸せで、幸村くんもこんなふうに笑っていてくれる。絶望の迎えの恐れがない場所で、こうしてふたりで、いつまでも、ずっと、一緒にいられたらいいのに。
幸村くんの背中にひたと身体を寄せながら、わたしはとりとめのない夢想をする。海がいつもより、ずっと、ずっと、うつくしく見える。