一体どこまで騙せるだろうか。彼女へ触れた理由が単なる腕だめし以上の意味を持ちかけているということは、ゆたかなふくらみへ掛けた手のひらに、意図せず力が入ってしまったことで気がついた。
彼女は恥ずかしそうに俯いたが、拒絶のそぶりはまるでない。やがてゆっくりと上げられた顔の、その濡れた視線に、心臓の奥が低く疼くかんじがした。
「あなた、仁王くんね」
キスの寸前だった。彼女は俺の正体を言い当てると、身体をよじって屈み、腕のなかからするりと出ていってしまう。
ごうごうという乾燥機の音を、急にうるさく、耳ざわりに感じた。妙に没入していたのだと気づかされる。ドラム式乾燥機の扉には、庭球部と書かれた札が下げられている。ランドリールームの扉を閉め切って、俺たちはふたりきりでいた。
「さすがなり。やられたの」
「幸村くんにはならないんじゃなかったの」
腕を後ろに組みながら、彼女はくちびるを尖らせる。
「ほんの出来心じゃ」
「出来心でキスされたんじゃたまりません。もう。危なかった」
ここにきてばれてしまうとは思わなかった。どのみちキスはしないつもりだったが、彼女があのまま気がつかなかった場合、自らの意思で止められていたかどうか、今となっては定かでない。幸村の前でのみ見せる彼女のとろけきった表情に、その熱に、らしくもなく、すっかり浮かされてしまっていたのだ。
敗因はおそらくキスである。乳房に触れたとき、彼女は濡れた瞳で受け入れの意志を示していた。
「いっぺん抱いておけばよかったか」
彼女が立ち去った室内に、俺のひとりごとは思ったよりもクリアに響いた。幸村の入院中、自棄を起こした彼女に迫られたときのことを思い出す。
彼女へあからさまな好意を寄せているのはレギュラーメンバーのなかでは幸村のほかに真田と赤也のみだが、それは彼女が入部当初から幸村にひどく懐いていたからであって、恋愛にめっぽう疎いやつら以外はその事実に気がついていたからだ。つまり、好意を寄せたところで叶いやしないという、結果論である。はじめから恋愛対象というテーブルに乗せられなかっただけのことだ。彼女がもっとわかりづらい人間であれば、もしくは連中がもっと鈍いやつらであったのなら、あるいは。
乾燥機は俺たちのハンドタオルを入れたまま、まだ、がたごとと回っている。
十月。気温は下がり、朝晩の冷え込みも厳しくなった。山では楓が色づきはじめている。少し早いが、マフラーを卸した。寒さにはめっぽう弱いのだ。
来月からアンダーセブンティーンの強化合宿がはじまる。レギュラーメンバーは全員招致されたため、彼女はひとりで校舎に残ることになる。
恋というメイクツールでうつくしくめかし込んだ彼女は、未だにショウウィンドウのなかにいる。ゆるくほほえみ、成約済みの札を首に下げたまま、ただずっと、迎えを待っている。もう二年以上も。
◇
準備室へ行く用事ができたときは、まずコートの付近をぐるりと見渡す。彼女の姿が見あたらなければラッキーだ。ちいさくガッツポーズを取り、一目散に部室棟へ向かう。コートにいないとき、彼女は大抵、そこにいる。彼女の書斎。日の当たらない準備室。
ロッカールームに入ると、開け放された扉のすきまから、彼女のつむじが見えた。ミーティングテーブルに顔を伏せて、ちいさく寝息を立てている。手もとに広がった資料は次の対戦校に関するもので、要所要所にピンク色のマーカーが引かれている。窓がわずかに開いており、室内はひんやりと冷たかった。彼女はブレザーもジャージも着ておらず、ジャンパースカートの上に指定のセーターベストという姿だった。
ジャージの上着を脱いで掛けようとして、一度ためらう。ロッカーからブレザーを持ってきたほうがよいだろうか。動き回ったあとのジャージで、かえって迷惑ではなかろうか。ぐるぐる考えていても答えがでないため、諦めてジャージを持つ両手をそのまま下ろす。彼女のちいさな背中に、俺のジャージは大きすぎるように見えた。
「マネージャー」
静かに呼びかけてみるも、起きる気配はなかった。ふくふくとした白い頬が、呼吸でゆっくりと上下している。
強化合宿がはじまれば、彼女には毎日会われない。期間は明確にされておらず、学業と合宿の成績によるということだったが、監督からは年をまたぐ可能性も見越してほしいと伝言があった。俺たちのいないあいだも、彼女はここで、この学校のこの場所で、彼女自身のときを過ごすのだ。そうして、三月には去っていってしまう。
「マネージャー。なまえ先輩。起きないと襲っちまいますよ。ねえ」
彼女がちいさくみじろぎをする。長いまつ毛が揺れて、ゆっくりと瞳が開かれた。花のかおりがする。幸村部長とはまた違う、もっと重たく深いかおりだ。
「……赤也くん」
「おはよーございます。こんなとこで寝てたら風邪引いちまいますよ」
「ごめんね、起こしてくれてありがとう」
彼女が目を擦りながら半身を起こすと、肩に掛けたジャージがずり下がる。床へ落ちる前に回収して羽織り直すと、彼女は少し驚いたのち、また「ありがとう」とほほえんだ。彼女に迫った日以来、ふたりきりで話すのははじめてだった。
「あの、この前のこと、すみません。傷つけたことは謝ります。それに、その、ファーストキスだって知らなかったんすよ。てっきり部長と済ましてると思ってたんで」
彼女はぱたぱたと瞳をまたたかせてから、眉尻を下げてちいさく笑った。しかたがない、というふうに。こどものいたずらを許容する大人のように。
「煽ったのはわたしだから謝らないで。それに、赤也くんだって苦しかったと思う。だから、わたしのほうこそ、ごめんなさい」
「あんたは悪くありませんよ」
窓の外から、秋の冷えた外気が流れ込む。白いカーテンが風に膨らみ、レールがからからと音を立てる。
彼女は大人みたいな顔をする。俺の前では、一介の女学生という表情を見せてはくれないのだ。そのヴェールを、いつか取っ払ってやりたいと思う。俺がほしくてたまらないと、余裕がないのだと言わせてみたい。その瞳を期待の色に染めてみたい。部長を呼ぶのと同じトーンで、俺の名を呼ばせてやるのだ。いつか。
「俺、泣かせたことと傷つけたことは悪いと思ってますけど、告白したことも言ったことも、嘘じゃねえし、後悔してませんから」
彼女はほほえみを崩さない。頷きもせず、ただちいさく「ん」と相槌を打つのみだった。
「いつかあんたを奪ってみせますよ」
捨て台詞のように言い残して、俺は準備室をあとにした。彼女がどんな顔をしているのかは確認しなかったが、きっと、一瞬瞳をまるくしたのちに、また困ったように笑うのだろう。
部長と彼女は、どこか似ている。俺たちの前では大人というポーズを取るくせに、こっそりと目線を交わし合うときには、ふたり揃って等身大の男女という顔をするのだ。
「遅かったじゃねえか。またなまえに絡んでたんだろい」
「宣戦布告してたんすよ」
「幸村くんに絞られてもしらねえからな」
「部長、そんなんじゃ怒らないと思いますよ。たぶん」
「思い通りにならないからって傷つけるようなやつに、彼女は渡せない」と、低く冷たい声色で部長は言った。瞳の底に、ちりちりと焦げ付くような憤りの色が見えた。彼女との一件の、数日後のことだった。
「まずはきちんと謝ること。それと、彼女、言わなかったと思うけど、ファーストキスだったと思うよ。したんだろ、キス」
つらつらと告げられたその言葉から、彼の心情は読めなかった。想像だにしない真実に、俺が心底驚き、戸惑っていたせいもある。
彼からそれ以上責められることはなかった。少しでも嫉妬心や独占欲をちらつかされようものなら噛みついてやろうと思っていたので、その一点においては正直、拍子抜けであった。
「それにしても、よくめげずにアプローチできるよな。脈なしもいいとこなのによ」
「脈がないからっすよ。あの人がなにも感じてくれないから、無責任にアピールできるんです」
「ふうん。おまえ案外考えてんだな」
いつか、彼女のこころに触れてみたい。今はまだ、届かなくとも。
彼女が想像しているよりも、部長は彼女を思っている。ふたりのあいだには名前や言葉で約束されるもの以上の深い繋がりがあるのだ。彼女に教えてやる気はまだない。このまましばらく、気づかないままでいてほしい。もうしばらく。少しだけ。
指先でくちびるに触れる。彼女のファーストキスの甘やかな感触を、まだ覚えている。
◇
十月の終わり。三年生のなかには部活に顔を出さなくなった者もいる。外部受験をする者や、今後テニスを続ける予定のない者、ほかに優先したいことができた者、それぞれの理由をもって彼らはコートをあとにした。
後輩の指導とトレーニングのため、レギュラーメンバーは今も毎日顔を出しているが、練習試合などの表舞台に立つことはめっきり少なくなった。世代交代のために、皆あくせく過ごしている。
アンダーセブンティーンの強化合宿の話は、彼らにとって、非常にありがたい提案であったに違いない。プレイヤーとして燻る彼らのエネルギーを、わたしは毎日肌で感じ取っていた。ぴりぴりとちいさく爆ぜるような感覚。コートへ戻りたいと叫ぶ魂の震えを。
彼らの抜擢をよろこぶ一方で生まれたさみしさをひっそりと抱え、わたしは差し迫るその日の訪れを待っている。あたりまえのように顔を合わせていた彼らになかなか会えなくなってしまうのは、やはり、少しせつない。
ロッカールームへの扉を開けると、樹脂ベンチに腰を掛ける幸村くんの背中が見えた。上がる時間にしてはやや早い。
「お疲れさま、幸村くん。今日は検診?」
幸村くんはこちらを一瞥するとやわらかな笑顔で頷き、目線をまた足もとへと戻す。広い背中が靴紐をほどくために、ちいさく揺れている。
「ああ。少し早いけど、合宿に合わせて日にちをずらしてもらったんだ」
「とうとう週明けからだね。合宿中も検診は受けられるの?」
「うん。毎週同じ曜日とはいかないかもしれないけど、送り迎えもしてくれるみたいだよ」
ヘアバンドを外す白い腕のしなやかなライン。華奢に見えるが、触れるとたくましく、広い背中。ゆるやかに波打つ艶やかな髪の毛は夜の色。
わたしはつかつかと近づくと、うしろから腕を回し、彼の左耳を甘く食んだ。どうしてそうしたのかはわからない。後付けになってしまうが、理由らしい理由を挙げるとすれば、甘えたかったのだと思う。合宿前にふたりで話せるのはこれが最後かもしれなかった。
わ、とちいさく声を上げ、彼はわずかに驚いたようすだった。くちびるを離したあとの耳が赤かった。わたしは思わず彼の名を呼ぶ。
こちらを向いた彼の思いがけない表情に、わたしの顔もみるみるうちに熱を持ってゆく。心臓がきゅうと疼き、どくどくと大きく脈を打つ。幸村くんのこんな表情を見るのは、はじめてだった。
「おかえし」
幸村くんはわたしの頭を手のひらで押し下げると、わたしがそうしたのと同じように右耳をやわく食む。うるさく鳴る心臓がこれ以上はキャパオーバーだと告げるので、わたしは彼から腕を離し、二、三歩後ずさって両手で顔を覆った。
間近で見た赤い顔が脳裏に焼き付いて離れない。幸村くんにも照れたりすることがあって、それは人間なのであたりまえのことかもしれないけれど、まさか、わたしに対してそんな顔を見せてくれるとは思わなかったのだ。いつも、余裕のないのはわたしだけだと思っていた。揺さぶられて思うとおりに動かれず、どきまぎしてしまうのはわたしだけであると。
「自分でしかけたんだろ。俺より照れてどうするんだい」
「だ、だって、幸村くんがそんな顔してると思わなかったから」
「俺も、きみがそんなふうに甘える子だったとは知らなかったよ。まだまだ知らないことだらけだな」
すっかり制服に着替え終わった幸村くんが、わたしの頭をやさしく撫でる。
「合宿、さみしい?」
「……うん。でも、だいじょうぶ。今回は、会えないあいだも幸村くんが元気にテニスをしているっていうことがわかるから」
皆の栄進の手前、さみしいと言葉にするのはタブーであると思っていたが、幸村くんの声に誘われるがまま頷いてしまった。彼は静かにほほえむと自身のマフラーをほどき、わたしの首もとへ丁寧な手つきで巻いてくれる。
なくさないでね、と言い残して幸村くんが部室をあとにしてからも、その場にしゃがみ込んだまま、わたしはしばらくのあいだ動けずにいた。
「うお、どうした」
部室へ戻ってきた丸井くんの声が頭上に降る。
「思っていたより」
「思っていたより?」
「……思っていたよりも、わたし、あいされているかもしれない」
膝の上で組んだ腕に顔を伏せたまま、わたしはちいさく呟いた。今さらだろい、と丸井くんは笑う。
それは、わたしにとってはいち大事であった。お互いを慰めるためでなく、言いたい言葉の代わりにするでもない触れ合いを、わたしたちは今まで、ほとんどしてこなかったのだ。理屈で固めたやり取りの外で行われた触れ合いでこころが大きく動いたのは、いつぶりだろう。触れることにも、触れられることにも、理由をつけていた。そうでないといけないと思っていた。これではまるで、正しくすき合っている男女のようだ。
鼻先を埋めたマフラーから、幸村くんのかおりがする。せつなくなるほどのときめきから逃げられなくて、わたしは思わず息を止める。