江ノ島電鉄のレトロな車両の座席に行儀よく並び、幸村くんとわたしは言葉少なに、きらめく海原を眺めていた。
毎日見ていても、海は飽きない。果てしなく広く、無限大の神秘を孕んでいる。もともと、海でも、川でも、池でも、水路でも、水を見るのがすきなのだ。やわらかくかたちを変え、ゆらめき、きらめくものが。
車両が揺れるたびに、肩が触れた。由比ヶ浜駅ではわたしたちのほかに、観光客らしき中年の夫婦が降りた。
「貴重なオフの日に、つきあわせてしまってごめんね」
「謝らないで。俺が無理矢理きみについてきたんだから」
「でもこれじゃあお礼にならないわ」
「じゃあ、一緒に出かけること自体がお礼。花を同じ気持ちで楽しめる友人はいないから。それなら文句ないかな」
わたしが頷くのを見ると、幸村くんは満足げに瞳を細めた。
幸村くんのテニスは、ほんとうにすばらしかった。週末にばら園に行くので、よいものを見せてもらったお礼に、迷惑でなければばらの苗木を贈らせてほしいと伝えたところ、いっしょに行きたいという予想外の返答があったので、わたしは戸惑いを隠す余裕もなく「ええと」だの「その」だのと、短く、意味を持たない言葉をしばらく繰り返した。
わたしは活発なほうではないので、男子と出かける機会などは滅多にないし、それが一対一となれば、はじめてのことだった。しかし、わたしの緊張をよそに時間は穏やかに過ぎてゆく。ごくやさしく、ごくなめらかに。
幸村くんは常にナチュラルで、彼の作る空気のなかでは、わたしも余計な色やかたさを失い、自然のままでいられた。幸村くんとの会話のなかには、お世辞も、つまらないゴシップも、ミーハーじみたトピックもなく、わたしは終始安堵していられる。次の瞬間、悪意や浅慮で頬を叩かれるようなおそれが、彼との時間のなかでは皆無なのだ。
木々に囲まれた緩やかな坂を登り、石組のトンネルを抜けると、青い切妻屋根の洋館が見えた。
幸村くんはゆっくりと歩く。同じ歩調で、わたしも足を進める。おろしたてのワンピースの裾が、木々のあいだを抜ける初夏の爽やかな風に揺れる。
「幸村くんのお庭、今度見に行きたいな」
「もちろん。きれいな子揃いだから、ぜひ。きみはガーデニングはしないんだったかな」
「うん、お花は見るだけ。切り花しか買わないの。だって、健康に育てるという義務と責任が生じるでしょう。自分が生きるので精一杯なのに無責任に手をつけたりして、枯らしてしまったらかわいそうだもの」
「そういう考えができる人は、枯らさないと思うよ。きみはむしろ、水をやりすぎてだめにするタイプと見た」
幸村くんは肩を揺らして楽しげに笑う。わたしはその本意がわからずに、首を傾げて、幸村くんの顔を覗き込む。
「それは悪い意味?」
「いや、繊細でやさしいっていう意味。褒め言葉だよ」
「ほんとうかなあ」
「ほんとう」
「見て、幸村くん。海が見えるよ」
幸村くんはばら園の向こうを指すわたしの手の動きを追って、海を見た。
「ほんとうだ。晴れてよかったよ。きれいだ」
向かい風が吹いて、幸村くんの横髪を強く揺らす。軽く目を細めた幸村くんの瞳のなかに、たくさんの光がきらめいている。夕映に輝く琥珀色の海のような色をした幸村くんの瞳が、わたしはとてもすきだ。
ばらは見事に満開だった。わたしたちはガーデンのなかを、色とりどりの花と、ネームプレートを交互に見ながら、短く感想を言い合って歩いた。
「幸村くん、このばら、春の雪っていうんだって」
「三島由紀夫の作品にちなんだんだね。名前通りの、うつくしい色味だ。そっちの黄色い子もかわいいけど、今日はこの子を連れて帰ろうかな」
「イエローでなくっていいの?」
「この子、きみに似ている気がして。だから今日の思い出に」
幸村くんがそっとほほえむ。なんの他意もない言葉とわかっていても、思わずどきりとしてしまって、わたしはごまかすように話題を逸らす。
「豊饒の海って、どんなかな」
ペールピンクの可憐な花を咲かせたばらが、彼の腕のなかで、しあわせそうに揺れる。
「探しに行こうか。もっと近くで海を見ようよ」
すてきな提案に大きく頷いて、わたしたちは再びちいさなプラットフォームを目指した。
幸村くんはシルバーのビニール袋に入ったポットを、宝物のように抱えている。夜色の髪の毛に、白いノーカラーのリネンシャツがよく似合っている。
江ノ島駅で降りて片瀬海岸沿いを歩き、仲店通りを抜け、わたしたちはそのまま石段を上って江島神社の鳥居をくぐった。振り返ると、来た道がジオラマのようにちいさく、細く見えた。
「ちょうど日暮れ前のいい時間に着きそうだ」
わたしたちが目指すのは、いくつかのお宮を通り越し山頂まで登ってから、今度は西のほうへ降って行ったところにある、海に面した岩場である。
西日がとてもうつくしく、今日のように晴れた日は水平線にヴィーナスベルトが見える。
白い湯気をもくもくと吐き出している仲店でおまんじゅうをひとつずつ買って、岩山のあいだや展望スポットから海を眺めつつ歩いているうちに、陽はだんだんと琥珀を差したような色味になってきた。
「わあ、見て、幸村くん……!」
「うん、見事な景色だね」
眼前に広がった大海原は、降り注ぐ西日を目一杯抱き止めて、水面そのものが発光しているかのように輝いている。足元に気をつけるようにわたしへ言いながら、幸村くんは急勾配の石段を下っていく。
今日は磯のほうまで下りられる日だったが、日没は海食崖のてっぺんから楽しむことにして、わたしたちはそのでこぼことした岩肌の上にぴったりと並んで立ち、海原を眺めた。
「どう、すこしはスポーツをすきになった?」
「あの、この前は、スポーツのこと、よく知らないのに失礼なこと言ってごめんなさい。幸村くんや真田くんたちの試合を見るのは、とっても楽しい。でも、やっぱりスポーツって、たのしいだけじゃないでしょう。くやしいときも、かなしいときも、思うような結果じゃないときもあるでしょう」
「それはもちろん」
「わたしは、あんなにきらきらと輝いているみんなを、そういう苦しみが襲うこともあるんだと思うと、やっぱりかなしい。そう思うんだけれど、でも、二日ともとっても楽しかったの。だから、また幸村くんたちを見に行ってもいい? 」
わたしの言葉を受け止めて、幸村くんはゆっくりと頷いた。太陽が名残惜しそうに光を散らしながら、水平線へ沈んでゆく。
「きみにお願いがあるんだ」
「お願い?」
風が凪いで、たいらな岩に薄く張った海水が、磨かれた暗い鏡面のように見える。
「きみに、俺たちのマネージャーになってほしい。すごく大変だと思うけれど、きみはきみの知らない世界を目の当たりにする。後悔はさせない。今年は大切な年なんだ。俺たち立海は、さらに強くなれる」
突拍子もない提案に声も出ず、わたしはただ瞳をまたたかせる。幸村くんの強いまなざしがわたしの瞳を真正面から貫く。水面から突き出した岩の上に大きな鷺が止まる。
「……理由を聞いてもいい?」
「きみの感性を評価してる。五十人いる部員のなかにも、きみのような考えかたをする人はいない。きみにしか見えないものを教えてほしいんだ」
いつしか陽は沈みきり、あたりはうす明るく、ここ一帯がライラック色のヴェールで包まれているかのようだった。落日の名残の甘い色。
「強引に誘ってすまない。きみの気持ちに整理がついたら、返事を聞かせて」
わたしがかすかに頷くのを見て、幸村くんは目を細め、そのまま視線を海へと向けた。凪いでいた風が再び動きはじめ、鷺が大きな翼を広げて飛び立ってゆく。
闇がそっと近づいてきて、海の色が深みを増す。空は天に近いところが菖蒲色、そこからミルク色へグラデーションになっており、水平線と富士山の輪郭のみがばら色に淡く光っていた。海中に沈んだ太陽が、気がついてほしくて一生懸命光っているみたいだと思った。
海面から突き出た岩は黒く、水鏡には空の淡いグラデーションがそっと映し出され、その上には波紋が幾重にも広がっている。
豊饒の海と呼ぶにふさわしい、うつくしい光景であった。