4:そして彼女は扉を開ける

 「悩み事か」

 急に降ってきた声に驚き、勢いよく顔を上げる。近ごろこういうことが多い。誰も彼も、わたしのつむじ目がけて言葉を投げてくるのだ。今回わたしを見下ろしていたのは、同じクラスの柳くんだった。いたずらを企むこどものような、含みのある笑みを浮かべている。大人びて見える柳くんには意外とこのような具合でチャーミングなところがあって、わたしは彼のそんなところが実は少し気に入っている。

「昼食はまだのようだな。よければ一緒にどうだろか」

 口ぶりや面持ちからすると、ことのあらましを知っているのだろう。知った上で、なにか思惑があって、わざわざわたしをつつきに来たのだ。しかしながら、特段断る理由も見当たらない。少しだけ逡巡したのち、わたしは観念して彼の誘いを受け、連れ立って食堂へと向かうことにした。

「精市が無茶を言ったようで、すまない」

「無茶ってほどでないの、大丈夫。ただ、ちょっと戸惑ってるだけ」

「今日は精市の代わりに、詫びとして奢ろう」

 固辞しようとするわたしを制して、柳くんは食券機前の人だかりのなかに消え、そしてふたりぶんの食券を購入して戻って来た。ここに来るまでに今日食べる予定のメニューを聞かれたことを思い出す。なにもかもが柳くんの描いた道すじどおりに進んでいるという気がする。

「取って食おうと思っているわけでも、説得に来たわけでもない。リラックスしてくれ」

 頷くわたしを見て、彼は穏やかにほほえんだ。切り揃えられた前髪が静かに揺れる。

「花がすきだと、精市から聞いた」

「ああ、うん。でも幸村くんみたいに詳しいわけじゃないのよ」

「なぜすきなのか、理由はあるだろうか」

 インタビューを受けているみたいだ。あるいは面接だろうか。しかしそのまなざしは、値踏みするような無遠慮なかんじでもなく、むしろわたしの警戒を解くにたる穏やかなものであった。悪いようにはしないというサインと取って、わたしはゆっくりと言葉を紡ぐ。

「花はね、そのときの時間や記憶を豊かにするものなの。たとえば香水やアクセサリーを選ぶみたいに、この人との時間にこの花、このイベントに、この服にって考えると、とてもわくわくするでしょう。あのときあの花が咲いていたとか、あのときあの花を贈っただとか、思い出が花と結びつくと、その花を思うときも、そのかおりを感じたときも、大切な記憶をすぐに呼び戻すことができるのよ」

 思いがけず語りすぎてしまい恥ずかしくなったわたしは「幸村くんはどういう理由なのか、わからないけど」と、さして意味のない言葉を口早に言い添えて、アイスレモンティーをひとくち、ストローで流し込んだ。

「精市のテニスはどうだった」

「……とってもうつくしかった。技術的なことはまるでわからないから、そんなことしか言えないけれど。幸村くんって、不思議だね。ぱっと見たとき、線の細い儚げな人っていう印象を受けるけれど、よくよく見ると、すごく強いまなざしをしてる」

 柳くんは、ほう、と呟いた。楽しげな表情をしている。メラミン素材の湯飲みをさする指先までもが、軽快に動き、彼の上機嫌のようすを現していた。

「なかなかいいデータが取れたよ。興味深い」

 「わ」とも「あ」ともつかない声をあげて、わたしは柳くんを睨んだ。

 柳くんは収集したデータを活かした戦略的なテニスをするプレーヤーで、彼の知識と機転が今の立海テニス部の強さの要のひとつであるということは、校内では有名な話で、わたしも知っている。
 しかしまさか、テニス以外のことでも、他人を観察したり、分析しているのだは思ってもみなかった。はめられた、と思った。昼食に誘ってくれたのは、わたしの悩みにある種の責任を感じていたからでも、はたまた悩めるわたしを慰めたかったからというわけでもない。鋭い観察力と人身掌握のスキルをもって、わたしを思い通りに動かそうという魂胆だったのだ。

「幸村くんとぐるなの?それとも、この話から身を引いてほしいって言いにきたの?」

「どちらともノーだ。今日のことは俺の独断で行っている。精市は関係ない。俺はただ、これから長いあいだ共に行動することになる人間のデータを、一足早く取りに来ただけだよ」

 立ち上がった柳くんの楽しげな瞳がわたしを見下ろす。はめ殺しのおおきな硝子窓から差した光が、彼の黒髪を輝かせる。陽に透けるとすこしグリーンがかって見える、うつくしい色味をしている。

「勧誘などせずとも、今自分を興奮させているものの正体を、おまえは暴かずにはいられない」

 なにも言えなかったのは、柳くんの言葉が確信を突いていたからだ。

 幸村くんの提案に、わたしはきっと、頷いてしまう。
 目の前に訪れたまったく新しい興奮のわけを、見果てぬ夢とも思える神話のゆく末を、あの凪いだ海のような瞳に映る世界の色を、彼の瞳を通して見るほんとうの自分の姿を、どうして知らずにいられようか。
 焚きつけられたと知りつつも、このこころを落ち着かせる術を、わたしは持ち合わせてなどいないのだ。



 土曜が来て、日曜が来て、わたしはわだかまる思いを抱えたまま月曜を迎えた。週末はやさしく寄り添ってはくれず、わたしの横を、ただそうっと通り過ぎていった。

 明け方、バスタブに湯を張った。眠られなかったのだ。日の出前でまだぼんやりと暗く、窓枠に切り取られた薄明のカンヴァスには、くらげのような月が浮かんでいた。

 幸村くんに先日の返事をしなければならない。しかし決心は幾度も揺らぎ、湧いては消えるうたかたのようだった。

「どうかしてる。ほんとうに、どうかしてる」

 今わたしを急き立てている好奇心の、行きつく先はどこだろう。幸村くんの誘いを受けたとして、はたしてわたしは、最後まで彼らと共に走り抜けることができるのだろうか。遊びではないのだ。好奇心ついでに安請け合いするべきではない。
 そもそも、右も左もわからぬわたしを、皆は受け入れてくれるだろうか。なにをすればよいのか、なにができればよいのかもわからない。イエスと答えるには判断材料があまりにも少ない。

 これだけの不安要素を抱えて、わたしは一体、どうして悩んでいるのだろう。
 どうかしている。もう一度そう呟いてミルク色の湯に口元まで浸かり、そうっと息を吐いた。無数のあぶくがぷつぷつと生まれ、わずかなしぶきを上げてはじけて消えた。

 柳くんの言葉を思い出す。自分を興奮させているものの正体を、わたしは暴かずにはいられない。彼の言葉は正しい。わたしはわたしを惹きつけるものをとことん掘り下げなければ気が済まない。その正体も、それがわたしの興味を引いたことのわけも、すべて。
 謎を紐解いてゆく途中に、また新たにこころ惹かれるものを見つける。それはたとえば土地や、たてものや、小説や、鳥や花だったりする。出会いと分析。日々はその繰り返しでできている。

 わたしのこころは今、幸村くんの言うまだ見ぬ世界に、その世界のもたらす興奮に、囚われたままでいる。



 放課後はあっという間に来た。美化委員の会議を終え、議事録を書き上げたあと、わたしはゆったりとした足取りで目的地へと歩みを進めた。渡り廊下を経由して二号館からおもてへ出ると、テニスコートはすぐそこだ。

 幸村くんはコートを見下ろせる位置から、ほかの部員の手出し練習のようすを眺めていた。柳くんや真田くんの姿も見える。わたしが声をかけるよりも早く、幸村くんがこちらを振り向いた。目と目があって、わたしはおずおずと会釈する。真田くんへ二言三言声をかけたあと、幸村くんは後ろで手を組みながら、ゆっくりとわたしのほうへ歩いて来てくれた。

「そろそろ来るころだと思った」

「お疲れさま。抜けてきてだいじょうぶなの?」

「きみをスカウトしたこと、一部の部員には伝えてあるんだ。だからこれは雑談じゃなくて部活動の一環ということになる」

 真田くんと柳くんの視線を感じて、わたしはちいさく手を上げる。

「場所を移そうか」

 幸村くんの提案により、わたしたちは屋上庭園へと場所を変えた。放課後の屋上庭園は人けがなく、風にそよぐ草花がかさこそと音を立てるのみだった。話し合いをするにはうってつけの場所だといえる。

「部活動と両立できるかわからなかったから今年は見送ったけど、来年は俺も美化委員に入ろうと思って」

 寄せ植えのラナンキュラスを見つめながら、幸村くんは楽しげに言った。先ほどから投げかけてくれる会話のどれもが、本題とは関係のないものだった。わたしから切り出すのを待ってくれているのだ。幸村くんのそのスマートなやさしさが、わたしにはとてもここちよく思われた。

 幸村くんはほんとうに不思議な人だ。
 スカウトを受けたときはなんて突拍子もないことを、と驚いたし、勧誘の言葉なんかは、まるで未来が見えているかのごとく自信に満ちた口ぶりだった。強いまなざしにくらくらした。テニスをしているときもそうだ。ふだんの穏やかさとはまるで違う、射るような視線。彼の纏う空気のなかに時おり顔を出す、あたりをちりちりと焦がすような熱。
 幸村くんの不思議な魅力を思うたび、わたしの胸のなかで息を潜めている「覚悟」が激しく鼓動する。

「幸村くん、あの、他力本願で、それに、とっても格好悪いことなんだけれど言ってもいい?」

「構わないよ。それがきみの素直な気持ちなら」

 ちいさく頷いて、わたしはそっと口を開く。激しく脈打つ心臓が、まつげをも揺らしているのがわかる。

「わたしね、わたしの人生は、きっと特段楽しいものにはならないんだって思ってた。自分の手で、なにかわくわくするものをたぐり寄せるというビジョンが、わたしにはまったく見えなかったから。でも幸村くんに会ってから、わたし、毎日すごくわくわくしているの」

 突風が吹いて、幸村くんの横髪と彼の羽織るジャージをはためかせる。離れたところにある藤棚から、こっくりと甘いかおりが流れてくる。

 目を逸らそうとは思わなかった。幸村くんの放つ静かな熱が、わたしのどこかに眠っていた導火線を燻らせているのだ。わたし自身も知らなかった、わたしの、熱くなれるところを。

「 自分のことを信じるのは苦手だけど、幸村くんが見つけてくれたわたしを、幸村くんが必要って言ってくれたわたしを、わたしは今、少しだけ信じてみたいって思ってる。そして、幸村くんが見せてくれるって言った世界を、その世界のうつくしさを、強く信じてる」

 他人の信頼をあてにしてでないと自分を信じられないと言うわたしを、幸村くんは、ずるい人間だと、愚かだと笑うだろうか。

「わたし、テニスのことは全然わからない。もちろん知りたいとは思ってるけれど、スポーツのことも、スポーツマンのことも今はてんでわからない。でも、幸村くんの感性がすき。幸村くんが夢中になるものを見てみたい。がんばる幸村くんを応援したい。そして、色々なものを見て、色々なことを知りたい。こんな気持ちでイエスと答えてもいいのなら、この前のお話し、引き受けたいって思っているの」

 幸村くんのまなざしは、はじめての見学の際に思わず見惚れてしまったものと同じだった。打球の軌道を追うまっすぐな視線。涼しげな瞳の奥に満ちるエネルギーは、きっと、努力に裏打ちされた揺るがない自信に違いない。

「じゅうぶんだ」

 入部届はわたしの手から幸村くんの手へ渡り、彼のポケットにしまわれた。
 よろしく、と差し出された手をやわく握る。幸村くんの肌の、想像よりも硬い感触に少し驚く。戦う人の手だと思った。