期待をすることが苦手だ。正しく自信を持つことも。それらを行おうとするとき、わたしはいつも、非常にはずかしい気持ちになってしまう。浮かれたり驕ったりしているようで、笑われてしまったり、うしろ指をさされる気がして、そわそわとしてしまうのだ。
わたしはいつも、いつだって、ひっそりと生きていたい。自分を誉めてあげることはできなくても、へまをしないことで、なんとか、自分にがっかりしすぎずに生きていきたい。
だから丸井くんから「期待をしろ」と言われたとき、どういう反応をしたらいいのかわからなかった。困惑して、心臓がばくばくとうるさく鳴った。叶わないあれこれのことを思った。改めて考えてみても、どれひとつ、到底叶いそうにはない。
金曜。わたしはまた小型バスに乗り、合宿所を訪れる。すっかり馴染んでしまった幸村くんのマフラーを、首もとにぐるぐると巻いて。
丸井くんが怪我をしたということは部員たちから聞いて知っていたが、その顔に巻かれた包帯を見たとき、想像を超える痛々しさに身体じゅうの力が抜けてしまい、わたしは彼の名前を呟くだけで精一杯だった。しかし、駆け寄ることもままならなかったわたしに比べ、当の本人といえば今までにないくらいの上機嫌ぶりである。わたしは瞳をまるく見開いたまま、駆け寄ってきた彼の腕のなかで、彼の手のひらがわたしの髪の毛を乱暴にかき混ぜるのを感じていた。手負いとは思えないほどの力強さであった。
「ど、どうしたの丸井くん。傷に障るよ。おとなしくしていなくっちゃ」
「よかったなあ、おまえ」
「なんのこと?」
「んん、今は言えねえけど、期待しとけ。とにかくよろこべ」
無茶を言われたと思えば、今度は両肩を掴まれて押し返され、身体を強く揺さぶられた。脳みそがぐらついて目眩がする。丸井くんのヴァイオレットの瞳の輝きが、細く尾を引いて見える。
「おまえの頑張りをずっと見てきた。俺、おまえには絶対しあわせになってほしい。そんで、これからも、大人になっても、ちょっと遠くに行ったとしても、俺たちのこと思い出して、しあわせな気持ちで思い出して、笑っててほしい」
丸井くんは一言ひとことを噛み締めるように、そう言った。語気に隠しきれない興奮の気配があった。
「ひっでえ顔、なんだよそれ。幸村くんが見たらびっくりするだろい」
丸井くんは途方にくれるわたしの顔を見ると、声を上げて笑う。その目尻にうっすらと涙が浮かんでいる。
ちょうど夕食どきで、エントランスはレストラン棟へ向かう人々で賑わいはじめていた。
丸井くんの笑い声に誘われるようにして見慣れた面々が集まってくる。ぞろぞろと歩いてくる部員たちのなかに、幸村くんの姿もあった。わたしはますますいたたまれないような気持ちになり、眉を寄せる。
「お、幸村くん!」
わたしの面持ちを茶化しながら、丸井くんはわたしの身体を幸村くんのほうへ、ずいと押しやった。
「うわ、驚いた。ひどい顔だね」と冗談めかして笑いながら、幸村くんはごくなめらかな手つきでわたしを受け取る。わたしは幸村くんの胸板に手のひらをついて、頬を寄せるかたちで、彼のふところにすっぽりと収まった。頭に乗せられた手のひらがあたたかい。とくとくと脈打ってこちらの肌を押し返す鼓動の規則正しさは、わたしをあっという間に安心させてしまう。
丸井くんはちょうど鉢合わせた芥川くんと連れ立って、すでに玄関のほうへと歩きはじめていた。
「あの、笑わないで、幸村くん。丸井くんがね、期待しろって言うんだけど、なんのことだかわからないし、そういうのは得意でないから、どんな顔をしたらいいかわからなかったの」
「うん、冗談。ちゃんとかわいいよ」
「からかわないで」
「からかったつもりはないけど。ほら、前髪が乱れてる」
幸村くんの指先が、わたしの額をするりと撫でる。甘くやさしい感覚。幸村くんの指先は、わたしの触りかたを知りつくしている。
幸村くんがほほえむので、わたしのまなじりも自然にとろりと下がった。胸がとくとくと音を立てて脈打つ。
ふと玄関のほうへ目線を向ける。丸井くんの姿はすでにない。
先日の丸井くんの対戦相手は、遠野さんという高校生で、危険なラフプレーをすることで有名な選手である。丸井くんが集中的に攻撃を受けるシーンもあったようだが、最終的に試合は遠野さんと、彼に狙われた木手くんが動かれなくなってしまったために落着したということだった。遠野さんは、丸井くんの打球を膝に受けたのだ。少なくとも傍目には、偶然当たってしまったというようには見えなかったという。
わたしには、彼がスポーツマンシップに反するような試合をするとは思えなかった。たとえ理不尽に狙われたとしても、やり返すような人ではない。
そして、先ほどの言葉。その真意もわからないままである。丸井くんの不可解な言動のわけはなんのためだろう。彼はわたしに、一体なにを期待をしろというのだろう。
わたしのほしいもの。わたしの望むこと。そのどちらも、誰かが運んで来てくれるようなものではないし、だいいち、期待をするのは苦手なのだ。当てが外れたときに、舞い上がった反動でかなしくなってしまうのはいやだ。
その日の夜のことだ。わたしは談話室でバラエティ番組を見ている。私室にはテレビがないので、見たい番組があるときや人の話し声が恋しくなったときは、ここを訪れる。
ソファにかけて間もなくやって来たのは、偶然通りかかった丸井くんだった。
わたしたちはテレビの音をバックに会話をする。丸井くんはソファの背もたれを挟んでうしろに立ち、わたしの髪の毛を編んでいる。
「丸井くん?」
編み終えた髪の毛をくいとうしろに引っ張られて、彼のヴァイオレットの瞳が間近に、逆さまに見えた。名前を呼んでみたものの、返答はしばらくもらえなかった。甘いかおりがする。花ではなく、くだものや、くだもの味のお菓子のようなかおりだった。
「どうしたの、丸井くん」
「んん、キスしたくなるか確かめてた」
丸井くんは表情を変えずに呟く。その面持ちから、彼の感情は読み取れない。
「へんなの。なった?」
「ならねえよ。やっぱおまえじゃ勃たねえもん」
丸井くんはわたしの頬を指で挟み、今度はきちんと笑顔をくれた。わたしも彼を見上げたまま笑って返す。
「しあわせになれよ」
丸井くんは犬や猫をかわいがるようにわたしの頭をわしゃわしゃと撫でて、そう言った。
テレビからはいつの間にかはじまっていた歌番組の音が聞こえてくる。はやりのラヴソングを口ずさみながら、丸井くんは談話室をあとにする。甘いくだもののようなかおりが、かすかに残っている。
しあわせ。わたしにとってのしあわせは、なんだろう。丸井くんが考える、わたしのしあわせとは、なんだろう。わたしの世界はまだ狭く、幸福が、どうしても皆の存在があってこそ成立するものであると考えてしまう。わたしのしあわせは皆の存在と切り離すことができない。でもきっと、皆とずうっと一緒にいることは、叶わないのだ。
丸井くんにならって、わたしもラヴソングをちいさく歌う。どのフレーズも、わたしの人生にはあてはまらないという気がした。メロディだけが残り、詩はひとりきりの空間に浮かんで消えた。
◇
期待をすることが、すきではない。どれほど強く思おうと、気持ちの強さでは叶わないものがあると、知っているからだ。俺の身体は、願ってよくなるようなものではなかった。
当てがはずれたときのやり場のないむなしさは、いずれ、なす術を持たない無力な己を責める気持ちへと変わってしまう。そうやって、意味もなく自分を追い詰める。だから、期待をかけることが、すきではない。ほしいのは、根拠や、理由や、真実だ。努力で引き寄せられるものだ。夢見がちな少女のように、自分は生きていかれない。
日曜日。十一月だというのに、館内は冷えている。激しく運動する選手のため、施設のなかはどこも大抵低めの温度に設定されている。自室に戻る途中、騒がしい足音に振り返ると、めずらしく慌てたようすの不二と目があった。
「みょうじさんが医務室に運ばれて、それできみを探していたんだ」
駆け回ってくれていたのだろう。わずかに呼吸が乱れている。聞くと、コート外で打ち合いをしていた者たちの逸れ球が当たったとのことだった。ボールは頭を庇おうとした腕を掠めただけで、倒れた際に頭を打ったようすもなかったらしい。すぐに目を覚ますだろうということだったが、意識の戻ったあとは、念のため診察と検査を行うとのことである。
医務室はしんと静かで、看護師のようすも落ち着いている。白衣をラフに着た若い男性の看護師は、俺の顔を見るなり、待っていたというように話しだした。医務室は、正露丸と消毒液と、メントールのにおいがする。
「立海のマネさんなら、少し前に目を覚ましたので 、安心してください。めまいと倦怠感が残っているということだったので休むように言ってあります。今は眠っていますよ」
彼が席を外すと言って医務室から去っていったので、俺と彼女はふたりきりになる。幾度となく見た間仕切りカーテンをそっと開けると、脚高のベッドの上で、彼女はかたく目を閉じていた。静かな医務室のなかで、彼女はなにも言わない。
眠っているだけとわかってはいても、目覚めの気配はない。言い知れぬ不安から、指先までもがとくとくと忙しなく脈打つのがわかる。
触れた頬がひんやりと冷たかった。くちびるはわずかに濡れているように見える。サイドテーブルの上に、畳まれたマフラーが置かれていた。
室内は薬品のにおいで満ちており、彼女のかおりはすっかりと息を潜めている。
「なまえ」
ちいさく彼女の名前を口にする。ここへ来るまで頭じゅうを支配していた恐怖が、まだ消えてくれない。
このまま彼女が目を覚さないとしたら。二度とほほえみかけてくれないとしたら。二度とほほえまないとしたら。彼女がもし、自分と同じように動かれなくなったとしたら。あの暗い絶望のなかに身を置くことになったとしたら。そう考えると、ほんとうにおそろしかった。
俺の病室で彼女は、どんな気持ちでいたのだろう。やさしい彼女は、どんな気持ちで動かない俺を見つめていたのだろうか。はかりしれないおそろしさのなかで、常に笑いかけてくれていた彼女の強さを思う。こころの底から、愛おしいと思う。
片手で指先を握り、もう片方の手のひらで彼女の頬に触れる。どちらもひやりとしてやわらかい。ゆっくりと上体を倒して、ゆるく閉じられたくちびるにキスを落とした。表面をそうっと掠めるだけの、ほんのささやかな口づけだった。彼女のまつげが震えて、静かに瞳が開かれる。
「……幸村くん」
「すまない。起こしてしまったね」
「ううん、そばにいてくれたのね。うれしい」
俺たちはキスのあとの、ごく近い距離で言葉を交わす。彼女はちいさな声で力なくほほえんだ。
「寝込みを襲う卑怯な男だと思われたかな」
親指の腹で頬を撫でると、彼女はゆるく首を横に振りながら、くすぐったそうに瞳を細める。
「目が覚めて、はじめに見るのがすきな人の顔だと、こんなにしあわせな気持ちになるんだね」
彼女の頭をぎゅうと抱いたのは、溢れる愛おしさのせいでも、目の奥がくんと熱くなったせいでもあった。
もしもいつかくらしを共にすることがあれば、彼女はそんな些細なことで、毎日極上のほほえみをくれるのだろうか。
俺が名前を呼ぶたびに、とろとろとやわらかく笑うところがすきだ。幸村くん、と呼ぶ、うんと甘い声がすきだ。
共に生きてゆけると言えば、触れたときに感じるかなしさの気配の一切は、なくなるだろうか。毎日、溢れるほどの幸福でその身体を満たしてやることができるだろうか。
「どうしたの、甘えたくなっちゃったの?」
彼女の肩口に埋めた頭がやさしく撫でられる。
「どうだろう。そうかもしれないね」
今朝、君島先輩の紹介を受けたという医療機関から連絡があった。アメリカで手術を行うにあたって、検査を行うので日程を調整しようという急な提案に、困惑しきりであった。完治に向けての手術であると断言されて、さらに戸惑った。手術さえ成功すれば、近い未来、俺の病は完治するのだという。にわかには信じられない話であった。期待をしてはいけないと思えば思うほど、大して頓着していないというポーズを取ることを、己自身から強いられた。平静を装えば装うほど、焦燥感でじりじりと追い詰められてゆく。
「こわかったんだ。きみがもう目を覚まさなかったら、どうしようって。きみもきっと、毎日こんな気持ちで、俺の病室にいたんだね」
彼女は俺の頭を抱き、何度も、何度も繰り返し撫でた。
きみを迎えに行けるかもしれない。抱えきれない気持ちのままに、そう伝えてしまいたかったが、しかし、不確かなまま口にするべきことではなかった。
都合がよすぎると呆れられてしまうだろうか。弱虫だと幻滅されてしまうだろうか。そのどちらも当てはまらないとわかってはいるけれど、不安は押し寄せ、うずたかく積もるばかりであった。
「大丈夫だよ。幸村くん。大丈夫」
俺のこころのうちを読んだかのように、彼女はやさしく繰り返す。あたたまった彼女の首すじから、花のような深いかおりが立ちのぼっている。閉じ合わせた瞼のふちが熱い。
彼女はゆっくりとささやく。全部、大丈夫だよ、と。期待も途方もない不安もとろとろに溶かされて、どこか清らなところへ流れてゆくようだった。