彼女に置き去りにされたとき、自分でも驚くほど、苦しくなった。あまりの苦しさに途方にくれて、しばらくのあいだ、そこから動けずにいた。彼女の背中は雪あかりの薄ぼんやりとした靄のなかへ溶けて、あっという間に見えなくなった。
いつか手放すつもりだった。別れを穏やかなこころで迎えることはできなくても、それに似た静けさのもと、彼女の手を放してやるのだと、そう思っていたはずであった。
「追いかけたほうがいい」
「聞いていたのかい、蓮二」
「戻ると連絡が来てから大分経つので、心配になった。立ち聞きをするつもりはなかったんだが、すまない」
うしろから投げられた彼の声で、意識が現実へと引き戻される。呼吸すら止めていたような気がする。世界が動き出して、大きく息を吸う。とたんに肺のなかが冷たくなった。
「傘と、彼女に上着を」
「すまない。ありがとう」
彼は片手に提げていた傘を俺に手渡すと、次に羽織っていたコートを脱ぎ、そちらも持たせてくれた。
雪に足跡が残っているので、彼女の後を追うのはたやすかった。追いかけて、連れ帰って、しかし、そのあとどうすればよいのかは、わからなかった。
彼女をあいしている。だからといって、身勝手に縛りつけていいという道理はない。しかし、身勝手に手放すこともまた、道理的とは思えなかった。
水曜日の夜。白石から、彼女と出かけたのだという報告を受けた。素直になったほうがいいなどというアドバイスまで、丁寧につけ加えて。
「奪ってまうで」
「奪われるかどうかは彼女が決めることだ。俺たちが決めることじゃないだろ」
「冗談やって。なんや、めずらしく余裕なさげやなあ」
彼の言葉が冗談であることはわかっていたし、むきになっているつもりも、無論、余裕がないという自覚もなかった。ただ、彼の指摘を否定することもできなかった。彼になら、彼女は攫われてしまうかもしれない。
手放す覚悟が揺らぐ前に、誰かにさらりと攫われてしまう前に、俺は、できるだけ痛くない別れが、なにか納得のいく理由を携えてやってきてくれればいいと願っていたのかもしれない。そしてその手前勝手な願いが、ああいったかたちで露呈して、彼女を深く傷つけてしまったかもしれない。
自信がなかったのだ。それぞれの時間を過ごすようになった今、彼女は自分がしあわせになるための、さまざまな選択肢を手に入れたに違いない。たとえば俺たちと離れて過ごすこと。そこで彼女は以前よりもずっと自由で、ただ自分のために生きていけるだろう。あるいは、花や本や美術品に触れて過ごすこと。俺たち以外の人々と過ごすこと。俺以外の人とほほえみ合うこと。触れ合うこと。
自分の願いが彼女の願いでもあるとは思ってはいけない。触れれば触れるだけ、彼女の逃げ道をふさいでしまうと感じる。しかし、止めることも叶わない。すきだと思うたび、彼女のほんとうの気持ちが見えなくなる気がして、こわかった。
これは、俺の弱さと狡猾さが招いた不和である。
靴の溝に雪が詰まるせいで、滑ってしまい、うまく歩かれない。思うように動かない身体は、つらい入院生活を思い出させる。
彼女は小高い丘の上のガゼボのベンチに座り、俺のマフラーに鼻先まですっぽりとうずめて、両膝を抱えていた。俺の姿を認めると、視線を外して俯いてしまう。声を押し殺して泣いており、ちいさく震えていた。
頭にそっと触れる。拒絶のそぶりがなかったので、そのままやわく抱きしめる。
「きみを傷つけた。すまない」
「……付き合えないから、もう関わり合いになりたくないって言って」
立ち上がった彼女が、俺の身体をそっと押し返しながら言う。瞬きをするたび、はらはらと涙がこぼれ落ちてゆく。ふだんはつややかな髪の毛が、雪風に晒されて荒く乱れている。
「屋内に戻ろう。身体が冷え切っている。言い分を聞いてもらいたいけど、とりあえずは、きみをあたたかい場所へやりたいんだ」
蓮二から借りたコートを彼女へ羽織らせて、冷たい頬を手のひらで包む。慈しむように動かした親指と彼女の肌のあいだを、涙はとめどなくすりぬけてゆく。
俺の手のひらに触れてその温度を確かめると、彼女は観念したように、ちいさく頷いた。ふたりとも、ひどく冷え切っていた。渡し合える熱を、もう持っていなかった。
彼女の肩を抱いて宿舎に戻る道すがら、行きに感じた入院生活の苦しみを思い出すことはなかった。
彼女といられれば、暗闇もおそれなく歩いてゆけるのにと思った。
彼女の部屋のドアを後ろ手に閉める。暖房がつけっぱなしになっていたため、あたたかい。血の巡りが急によくなって、肌の薄い部分がぴりぴりと痛んだ。
「まずは風呂に入っておいで。身体をあたためて、話しはそれから」
「いや。少しも離れたくない。そばにいて。わたしのためというふりをして、わたしをどこかへやろうとしないで」
彼女の両腕が強く腰に巻きつく。胸元に額を擦り付けながら、いやいや、とかぶりを振っている。
どこへもやらない、と言いたかった。しかしそれがこの場かぎりのうそになってしまうことを、俺たちはふたりともわかっている。でもそのかわり、どこへもやりたくない、と言ってやれればよかった。ほんとうは。
「わたし、幸村くんやみんなから離れたいなんて、嘘でも言いたくなかった」
か細い声だった。泣き止む気配はない。
しばらくのあいだ、震える背中をさすっていた。ぐずる彼女をなんとかなだめて送り出したあとは、ざっとシャワーを浴びて、また部屋へ戻った。
考えはまとまらなかったが、今回のやり方が相当の悪手であったことを後悔している。実に卑怯で、彼女が怒るのも当然の成り行きだった。自分で切り捨てることがこわくて、誰かに奪われてしまうこともおそろしく、彼女が自然と離れていくことを、暗に強制したのだ。きれいな言葉を使えば、きれいに別れられるような気がした。
控えめなノックのあと、ドアが押し開けられる。こっくりと濃いジャスミンのかおりが、外気と共に吹き込んでくる。
ベッドに腰をかけたまま「おいで」と両腕を広げると、彼女は暗い面持ちのまま、黙って腕のあいだに滑り込んで来た。肌へなじむここちのよい体温に呼応するように、俺の身体も、そっと温度を上げる。背中に腕がまわされたので、ひとまず安堵した。なににかはわからない。嫌われていないことにか、まだ触れてくれることにか、求めてくれることにだろうか。
「おかえり。身体は平気かい」
「うん」
「俺から話してもいいかな」
俺の胸に顔を押し当てたまま、彼女は力なく頷く。
「俺はね、きみを思う気持ちがいつか呪いに変わってしまうときが来るのがこわいんだ。そばにいたい気持ちも、きみをたいせつに思う気持ちも、このままだといつかきみを身動きの取られないところに縛りつけて、置き去りにしてしまう」
思うたび、きみを呪う。動けなくする。動けないことのおそろしさを、俺はほんとうによく知っている。具体的に思い描くことのできる幸福のすべてを、生涯失うおそろしさ。この世の奈落の淵に、俺はきみを置き去りにする。
「こわいんだ。夢を見てしまうことも、多くを望み過ぎてしまうことも。それで、きみのやさしさを利用しようとした」
愛しいと思えば思うほど、別れを急く気持ちは衝動的に湧いてくる。
時限爆弾を抱えているようなこの身では、彼女を連れて生きていかれない。しかし、求めてしまう。際限なく。どこまでも応えてくれることを知っている。ストッパーが完全にいかれてしまったとき、彼女のすべてを闇へ引きずり込んで、道ずれにしてしまうというのに。
「でも、あんなことは言うべきじゃなかった。混乱していたんだ。きみを傷つけてまで保身したかったわけじゃない。すまなかった」
彼女に別れを委ねようとしてしまったのは、俺の弱さだ。無論、口に出してすぐに後悔した。彼女の反応を見るよりも先にだ。
ゆるやかな別れが来るのだと思い込み、そのときを待っているというポーズを取っていた。思うことも触れることも、彼女を引き止めているのと同じとわかっていながら、気がつかないふりをした。
俺にほんとうに必要なもの、ほんとうに待つべきなのは、彼女を諦める覚悟を決めるときであると、知りながら。
「誰も選ばないことと、誰からも選ばれないこととは違うと思ってはくれないの?幸村くんがわたしを選ばなくても、わたしは幸村くんをすきでいたいよ。幸村くんを思うのは、幸村くんに選んでほしいからじゃない。この先ずっと、愛を拒絶して生きていくつもりなら、そんなのはさみしすぎるよ」
「悪かったと思ってる。それでも、きみと共倒れするつもりはない」
「わたしじゃなかったら、幸村くんをしあわせにできた?」
彼女の瞳から大粒の涙がこぼれた。ルナリアのブーケのごとく輝き連なる無数の粒は、彼女のデコルテやビスコースのネグリジェに落ちて溶けてゆく。
「……そういう意味じゃないよ」
絞り出した声が、苦しげに響いた。きみがいいんだと言いたかった。誰かと生きてよいというのなら、きみがいい。きみでなければだめなのだと。
あいしていると言わず、キスをせず、制限された言動のなかで必要最低限の愛を伝えることは、とても困難だった。中途半端に繋ぎ止めている現状を誠実だとは少しも思わないけれど、それでも無責任に自分のものにしないことを、せめてもの誠意だと思いたかった。
実際のところは、度胸がなくて、どの方向へも踏み切ることができなかっただけなのに。
「わたしは、恋人がほしいとか、結婚がしたいとかこどもがほしいとか、そういうことを目的として生きているわけじゃないよ。それは誰かを愛した末に生まれる結果であって、主目的とは違う。大人になれば肩書きに存在価値を置きたくなることもあるかもしれないけれど、今はそうじゃない。わたしたちは、まだこどもだもの」
彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だから、わたしを勝手にかわいそうな子にしないで。わたしが不幸かどうかは、もう少し大人になったときに、わたし自身で決める。わたしも、幸村くんの不幸を決めつけない。でも、ジャッジをするのは、やっぱりもう少し、先にしてほしいの。自棄になって決めることじゃない」
「……そうだね」
ありがとう、と言い添えると、ゆるくほほえんだ彼女の頬を、また涙が静かに伝った。
受け止めるように頬へくちびるを寄せると、彼女はくすぐったそうにちいさく声をあげる。
「わたしが重たくて面倒くさいおんなじゃなかったら、幸村くん、こんなに悩まなかった?」
「あ、自覚はあったんだ」
「ちょっとはあります」
「でも、俺は、きみのそういうところが気に入ってる」
へんなの、と言って彼女が笑う。力ないが、しかしやわらかなほほえみに触れて、俺はこころの底から安堵する。
問題はただ先送りにされただけだけれど、つかの間の不戦の契りは、今の俺たちを慰めるのにじゅうぶんな役割を果たしていた。こんなことを繰り返し、いつか疲れきってしまうとしても。
彼女は俺の胸に頬を寄せたまま、静かに肩を上下させている。俺たちはひと月以上、性交渉をしていない。
「……きみが俺の前を去って行ったとき、とても苦しかったんだ」
彼女は上体をむくりと起こすと、俺の頬に、そっとくちびるを寄せた。
「行かないでって言われても、わたしは呪いにかかったりしないよ」
淡雪のようなやわらかな肌が、ゆっくりと触れて、ゆっくりと離れてゆく。彼女にしてはめずらしいスキンシップだった。セックスのとき以外、彼女はくちびるを愛情表現にほとんど使わない。
「わたしね、いい子でいたくて、色々なものを見ないふりしてきたの。色々なことを、言わないようにしていたの」
ちいさく掠れた声だった。寝巻きのシャツの下から、彼女の腕がするりと滑り込んでくる。まさぐるようなかんじではなく、ただ俺の体温を確かめているようだった。彼女の肌はなめらかで、触るとさらさらとしているのにいつも水分を“適量”含んでいるというかんじがする。
顔を上げた彼女が俺の瞳を覗き込む。そのまま体重をかけられて、彼女の身体ごと背中から倒れ込んだ。
「でもね、わたし、ほんとうはすごく諦めが悪いのよ。だから、共倒れてなんかあげないし、幸村くんのこと、ただじゃ諦めてあげないから」
こちらを見下ろすまなざしは強く、その輝きに頭がくらくらとする。うつくしい笑顔だった。
「それは心強いな」
彼女が言うように、時間が経っておとなになれば、俺たちは俺たちの関係に、平静な気持ちでジャッジをくだすことができるだろうか。願望に左右されず、現実を見つめ、お互いの幸福のために。そのとき俺たちは、優等生のふりをせずに、お互いの腹のうちを吐露し合い、前向きな気持ちで今の関係を終わらせることができるのだろうか。
せめてそれまで、夢を見てもいいだろうか。見果てぬ夢に終わるとしても。期待をすることは、彼女に負けず劣らず苦手だけれど。
そして願わくば、描いた夢のその先も、彼女と共に歩めたらいい。夢の続きを、誰よりも愛しい彼女と共に、見られたら。