コン。と物音が響いて、唐沢は伏せていた顔を上げた。紫煙が揺れて、空気に融ける。換気扇も空気清浄機も動いているが、室内は煙と独特の匂いがたゆたっていた。ガラス張りの喫煙所の中、安っぽいベンチに座っていた唐沢は、咥えていた煙草を指に持って、視線を外に向ける。ガラスの向こうに立っていた青年は目が合うと何事か口を動かした。『どうも』と、そんなふうに見える。
小さく首をかしげた唐沢に、青年はニィと笑って、指で出入り口を指差した。出ろ、ということだろうか。腰を浮かしかければ、手のひらを向けられて静止を願われる。青年は移動して、喫煙所の扉に手をかけた。
「……きみ、未成年だろう?」
入って来た青年に唐沢が苦笑を零せば、彼はにやりと唇を歪ませて、「吸いませんから」などと軽妙に囁いた。いつものことながら、飄々としてつかみどころのない狙撃手だ。二人だけの喫煙所は静かで、廊下にも他の人間の姿はない。唐沢は隣に座った青年を横目で伺った。
「東隊員あたりに見つかったら怒られるんじゃないか。巻き添えは御免だよ」
「あー、東さんは怒りませんよ、こういうことじゃあ。それに今、合同訓練の時間なんで」
「サボり?」
「かったるいのなんの」
「狙撃手一位がそんなことを言うなんてね」
当真勇。ボーダーが誇る狙撃手のひとり。訓練には不真面目だが、実戦での強さはその肩書きが物語る。感覚派の天才、と呼ばれていた。二位の奈良坂を完璧に押さえ込んで一位に君臨し続ける彼は、もう少し真面目で歳上だったなら、上層部からさらに重宝されていただろう。同じ狙撃手でも、東とはかなりタイプが違う。
「いやぁ、それは関係ないでしょ」
「示しがつかない、なんて言われたりしないかい?」
「示しがなけりゃあできないやつはどっちにしろ、って感じなんで」
「それもそうかもね」
煙草を灰皿に擦り付け、火を消す。「ありゃ、」と、当真が声を上げた。
「吸っててもいいんスけど」
「未成年の横では、ちょっとね」
「つっても、お疲れだったから喫煙所でタバコ吸ってたわけでしょ?」
「……まあ、ほんの息抜きで」
「別に吸っても、今はトリオン体なんで影響はないですよ」
「体面的な話だ」
「それは。オトナは大変そうだ」
「きみも根付さんあたりに見つかったら大変になるよ」
同じ幹部の苦労を思った。幹部の中では、どちらかといえば唐沢と同じ種類の戦場で戦っている彼には、少しばかり親近感を覚えている。唐沢の方がより戦闘員たちとは遠いから、その苦労の全てがわかるとまでは言わないが。
「そういや、影浦が『素行不良』で減点くらってましたね」
「まあ、減点なんて痛くも痒くもないだろうけれど、それぐらいしかこっちはできないし」
「もっと簡単な方法、ありますけどね」
「ん?」
「影浦を痛めつけたければ、想うだけでいい――って」
声音が、冷たく沈んだ。あたたかな空気を冴え冴えとした刃が切り裂いて、そこから寒々しい空気が流れ込んでくるような。からりと乾いた物言いがそれを助長させる。もしも、今の言葉を影浦が聞いていたら。その言葉に宿った感情が突き刺さったら。それは、とても、冷たく寒く凍えるような、そして鉛のように奥深くまで沈むような、痛みだろう。
「……それは、」
「俺じゃないですよ。最初に言ったの」
そんな物騒なことを言ってのけたのは誰だろうか。ボーダーの隊員は、特に若い学生は、あまりスレていない。未曾有の事態が起こったというわりにというか、人智を超えたことが起こったからこそというか、まっすぐとした人間が多いと感じていた。そういう人間を選んでいる、というのもある。ボーダーは正義のヒーローでなければならないから。
「興味あります?」
「そういうふうに言われたらね」
業務用の換気扇が音を立てていた。当真の軽薄な笑みだけが唐沢をその場に留める。迅や唐沢の笑みとは、似ているようですこし違う。全てを隠すという意味では同じだけれど、軽々としているが故の、踏み込めなさがある。脅されているという感覚はないのに。
当真は長い脚を持て余すように組み替えた。ぎしり、とベンチが軋む。かろうじてクッション性のある背もたれに背中を預けて、ことさら軽々しく、その名前を口にする。
「鳩原未来」
記憶に、新しい名前だった。
「知ってるでしょ? ボーダーを辞めた、元二宮隊で、俺と同い年の、そばかすがチャームポイントな――人を撃てない狙撃手ですよ」
その横顔は軽薄に歪んでいる。そこに何らかの意味を見出すことは難しいほど。意図を持たせることが馬鹿馬鹿しくなるほど、努めて軽く。なにも知らないような顔で、彼は笑っている。知らないはずだ。知らされているのは極少数。上層部とほんとうに一握りの隊員だけ。派閥に属しているわけでもない当真に、知るよしはないはずだ。
「彼女が、そんなことを」
「意外でした?」
「もっと大人しい子だと思っていたよ」
「いやぁ、そんなことないですよアイツ。妙なところで空気読めねえっつうか、変に大胆っつうか」
ああ、確かにそうかもしれない。
城戸をはじめとする上層部の頭を痛めさせた彼女。彼女がやったこと。ボーダーでも知るものは極々一部の――密航。そんなことをするようには思えなかった。そう思わせた彼女の、勝ちだった。ハト。平和を謳った名前のくせに、やってくれたものだ。
「それは知らなかったな」
「唐沢さんでも知らねえことはあるんスね」
「あるよ、勿論」
「じゃあ、唐沢さんがウワサされてるのは知ってます?」
「噂? どんな?」
「裏で三人くらいやってる」
じ、と視線が絡んだ。軽妙な態度を貫きながら、当真はずっと唐沢を観察している。何か知っているのかとも思ったが、口は閉ざした。探るということは、勘付いてはいても知っているわけではない。
唐沢について噂しているのはどんな人間だろう。若者は想像力が豊かで、その想像力は時々現実に追いつくから、困ったものだ。いや、想像力に追いつかせてしまう――ある意味において想像力を超えてしまうような、そういう現実を過去として持っている唐沢という男が、なによりの困り者だけれど。
「三人で済んでるならよかったな」
笑いながら言えば、隣で当真が吹き出す。くく、と喉で笑い、「たしかに」と囁いた。
「実際のところどうなんです?」
「何人やったか、って?」
「片手で足ります?」
「片手も使わないよ」
「またまた」
「きみはどうなんだい?」
「善良な男子高校生ですよ? 一人も」
「俺も善良な営業マンなんだけどな」
「オールバックが悪いんスよ。やってそう」
「城戸司令……は、反例にはならないか」
「十人くらいか、もっとですかね」
「あとは誰がいたっけ」
「んー、鋼とか」
「村上隊員か。そうは見えないけどな」
「いやでもああいうやつが案外」
「誰でもそうなんじゃないか。きみもオールバックだし」
「まあ、俺もそうだって言われたら、たしかに反論は難しいですわ」
ニヤニヤと笑う当真が何を考えているのかはわからない。鳩原未来という名前を出した以上、妙に勘の鋭い彼がそれを放置するとは思えなかったが、唐沢との雑談を楽しんでいるようにも見える。
すこし、鈍ったかな。心の中で呟いた。昔だったら、もう少し上手く――遠慮なくやっていた気がする。遠慮なくやるのもそれはそれで大人気なくて、そのさじ加減がわからない。唐沢が鈍ったのか、目の前の青年が鋭すぎるのか、判断は難しいところだった。
「タバコ、くれませんか」
「吸わないって言っただろう? 俺は未成年に吸わせない善良な営業マンでね」
「ケチー」
「吸ったことあるの?」
「そこは黙秘で」
「都合がいい」
「唐沢さんは守ってた人ですか?」
「ラグビーやってたから。吸い始めたのは大学出てからだよ」
「へぇ、意外とマジメ」
「そう?」
「そうでしょ。似合いすぎだし」
「まぁ、冷静に考えるともう10年は吸ってるからね。板にもつくさ」
「口寂しいなら飴でも舐めときます?」
「持ってるんだ?」
「ハトがくれるんですよ。たまに」
じわり、と毒が滲んだようだった。
「鳩原隊員?」
動揺を見せずに問いかけると、当真はポケットを漁りながら答える。
「元、隊員、でしょ?」
その横顔は相変わらず笑みが浮かんでいて、唐沢に飴を差し出す仕草に気負いはない。
「……ありがとう」
小さな包装の中に、正方形の飴が二つ入っている。穏やかなパステルカラー。包装を破いて二つとも口に放り込んだ。じわりと甘さがしみる。
「影浦がなんで減点くらったか知ってます?」
「C級への暴力、だったかな」
「理由は?」
「いつものサイドエフェクト、じゃないのかい」
「あいつがそういうことにしたらしいっすけど、本当は――C級のスナイパーが鳩原のことをバカにしたから」
「……よく知ってるね」
「まあ見てたし。それに、あいつが他人のことで暴れんの、珍しーし」
ころり、と舌の上で飴を転がした。ボーダー隊員の、横の繋がりは強い。それは入隊が古ければ古いほどそうだ。鳩原の入隊はいつだったか。けれど、感情受信体質のサイドエフェクトで話題にのぼった影浦の入隊は、彼らの年代の中でも早い方だったと記憶している。
「辞めて正解」
軽い声が響く。
「影浦に殴られたC級が言ってたこと」
「……思慮のない輩もいたものだね」
「それをユズルの前で言うもんだから、影浦もまあ、そりゃあ怒るだろって感じで」
「絵馬隊員……、鳩原元隊員に師事していたんだったか」
「あいつも結構、落ち込んでますよ。二宮隊と引けとんねえくらい」
影浦隊に所属する絵馬という名前の狙撃手は唐沢も覚えている。確かまだ中学生だったはずだ。狙撃の技術は高いと聞いている。
「しかもハトとはあのあと連絡が取れなくなるわで」
当真の目がすっと細まる。それを受けて、唐沢は微笑んだ。聞き出そうとしていることは分かっている。確定させたいのだと。いくら彼の察しがよく、気付いていたとしても、それを事実として唐沢が言葉にしてはいけない。箝口令が敷かれている。
「……ねえ、唐沢さん」
「なんだい?」
がりっ、と奥歯で噛み潰した飴がざらりと舌を刺す。
「鳩原が人をやれてたら、アイツを遠征に連れていってやりましたか」
問いかけに、さあね、と肩をすくめた。
「それを決めるのは私ではないよ」
「……そりゃそうだ」
もしも彼女を遠征に連れていっていれば、彼女は密航などしなかっただろうか。その問いに唐沢は否定を返す。遠征した先で密航していただろう。密航という手段で向こうの世界に渡る、それだけのことをする理由があったのだろう彼女は、ボーダーから離れられない小鳥ではなかった。そうなれば、ボーダーの遠征中であっても自分の目的のために行動する可能性は高い、のかもしれない。
鳩原未来という隊員のことを、唐沢は部分的にしか知らないから、だから断言はできないけれど。それでも、上層部が――城戸正宗が危惧したのは、もしかしたら人を撃てないということではなくて。そういう暴走の可能性を考えてのこと、だったのだろうか。
「アイツがなんのために戦ってたのか、俺たちは知らねーんスよ」
「……」
「人も撃てねえアイツが、なんで銃をとったのか、俺も、二宮さんも、犬飼も辻もユズルも、だあれも知らないわけで」
「……」
「唐沢さんはわかります?」
「きみたちが知らないことを、俺が知れる道理はないよ」
「でも、予想はできるでしょ。唐沢さんなら」
「それはどういう信頼かな」
「そのままの意味。俺が知ってる人の中で、二番目か三番目かに頭いいから」
「……一応聞くと、一番は?」
「そりゃ、ま、うちの隊長……って言いてえところだけど、鬼怒田さんスかね」
「その見解には口を挟む余地がないな」
「でしょ? それで、唐沢さんはどう思います?」
どうやら逃してはくれないらしい。苦笑を浮かべつつ、脳裏に鳩原未来という隊員を思い浮かべた。唐沢は、彼女を、よくはしらない。知っていることは、彼女が戦闘員、狙撃手であることと、人が撃てなかったこと。人が撃てなかったくせに、狙撃手だったこと。
「……鳩原元隊員について、詳しくはないけれど。もしも俺が人を撃てない人間で、それでも銃をとる理由があるとするなら――」
あのおそろしい鉛を、身に受けてもなお銃を手放しはしなかったのは。
「それしか道がなかった、だからだろうね」
ただ、それだけしか。
「……本当に?」
当真がへらりと笑っていうので、唐沢もかすかに笑みを浮かべて答える。さあね、と。
「本当にそれだけしかなかったかなんて、俺にはわからないさ」
「……」
「でも、選ぶのはいつだってきみたちだ。撃てる撃てないは関係なく。銃をとるか、とらないか……きみたちが選べる。俺はこの組織のそういうところが――」
いかにも、ずるい大人の考え方で。
「……気に入っているよ」
胃の中に鉛が沈んでいるような気がする。ずしりと重く、つきりと痛い。じわりと毒が滲んで、やわらかな臓器を硬くこわばらせていく。身から出た錆、そんな言葉をふと思い出した。錆が積み重ねって、重く、重く、鉛へと変わる。
「……あァ、それは、俺も、気に入ってますよ」
それだけ言って、当真が立ち上がった。ぎしり、と安いベンチはちいさく悲鳴をあげる。ぐっと伸びをして、背中を反らした当真はちらりと唐沢を横目で見る。
「俺がハタチになったら、タバコ、くださいよ」
「……ああ、いいよ」
「ハハッ、年とる楽しみが増えた、増えた」
「それはよかった」
「お酒も飲みましょーよ」
「残念ながら、不得意でね」
「……は?」
「ん?」
「唐沢さん、その顔で酒飲めないんスか?」
「酒の強さに顔は関係ないよ」
「あー……まっ、楽しみにしてますよイロイロ」
「色々、ね」
「そう、いろいろ」
へらへらと笑う彼は、二年後もここにいるのだろうか。彼はきっと大人たちの薄汚さに気付いている。気付いていて、迅のように自ら大人に染まるわけでもなく、自由な子供の立場を崩さない。嫌が応に大人と見なされるその年にも、彼はこの組織にいるのだろうか。
「まぁ、今度また見かけたら唐沢さんから声かけてくださいよ」
ポケットに突っ込んだ手を出して、当真は唐沢になにかを投げつける。思わずキャッチしたそれは、飴だ。先ほど渡されたものとは種類の違う。大粒の、昔ながらのざらついた飴玉。
「最近、俺もアメを持ち歩くことにしてんスわ。吸いすぎも毒でしょう?」
「……どうもありがとう」
「それじゃあ、また」
「ああ。気をつけて。東隊員に見つからないように」
「じゃ、一応唐沢さんも俺と会ったことは黙っててくださいよ。いちおう、ね」
「……今回だけだよ」
「ケチ」
「寛容なほうなんだけどね」
「わかってますって。……そんじゃ」
当真が喫煙所を出て行く。ガラス越しに一度だけ手をひらりと振って、そこからは振り返ることもなく廊下の向こうへ消えていく。隊室にでも逃げ込むのだろうか。唐沢には、彼の行き先はわからない。
「……やれ、やれ」
囁いた言葉に混じる吐息は、まだ甘さが残っている。噛み砕いた飴の破片に傷ついた舌がちりりと痛んで、唐沢は天を仰いだ。変哲のない天井と、業務用の換気扇。機械が動く微かな音を聴きながら、目元を手で覆う。
鉛のように重いのが、心なのか身体なのか、唐沢にはわからない。わかるのは、唐沢が手にかけたのは三人でも片手でもすまない数であるということと、それしか道がないと思った過去があったという、ただそれだけのことだった。