「あれです」
 潜められた声が唐沢にそう告げた。唐沢と風間が隠れている物陰の向こう側で、懐中電灯の光がちらちらと動いている。朝陽はまだ登らない時刻だ。元々周囲には光源のないボーダー本部だが、ブラインドが閉じられていることもあり、部屋の内部は深い闇が満ちている。その部屋の中で、風間が発見したという不審な事務職員は、今まさに不審な行動をしていた。
「なるほど……まぁ、黒だろうね」
 ここに来る前に確認した履歴書の顔写真に見覚えはなかったが、もしも本当に拳銃を所持しているのなら、顔を変えるなんてことも容易だろう。知り合いでない可能性は、まだない。
 風間に指示を送るだけなら通信でもよかったが、その可能性が拭えない以上、唐沢は現場にいるべきだと判断した。前に出る気はないが。隣で対象を観察している風間の横顔を眺める。冷たくも鋭利な整った顔立ちは、美少年という言葉すら似合う。ボーダーの中でも古株な隊員らしく、こういう場面でもひどく落ち着いていた。
「確保しますか?」
 既にトリオン体に換装している風間が、いつもの無表情で問いかけた。彼の部下は既に帰されているらしい。菊地原の強化聴力は尋問にも役立つが、彼がまだ未成年であることを思えば当然の処置だろう。時間的にも、尋問という行為的にも。唐沢や城戸が未成年を利用することを厭わなくても、それを菊地原の直接の上司である風間が許すかは別だ。
 ――彼は、中学生、だものな。目の前の風間もそのくらいに見えるが、中身は成人済みだ。唐沢は苦笑し、それから不審人物へ視線を戻す。
「頼むよ」
 柔らかな命令を受けて、風間がカメレオンを起動した。身体が風景に透けていく。オーバーテクノロジーもいいところだ、と浮かべた笑みを、風間は見ていないだろう。移動の音はごく僅かだったが、唐沢から離れ不審人物に向かったことぐらいはわかる。彼もなかなか、難儀な立ち位置だと心の中でぼやいた。かわいくない子どもたちばかりだ、とも。
 何も心配などしていないが、一応のこととして、物陰から様子を伺う。
「っぐ!?」
 事務職員らしき男の呻き声が響き、光が頭上を舞った。風間はまず、懐中電灯を手放させたようだ。姿は見えないが、手元を蹴り上げるかなにかしたのだろう。点灯したままのそれに照らされぬよう、唐沢は頭を引っ込める。
 カンッと懐中電灯は離れた床に落ちた。機能が停止するまでの衝撃ではなかったのか、部屋はぼんやりと照らされている。
「なん、だ……!?」
 淡く照らされた男のシルエットは、手を胸元へ入れているようだ。やはり銃を持っているのだろう。トリオン体である風間は傷つくことはないが。
 男の身体が不自然に曲がる。腹に拳でも入ったか。見えない以上分からない。ぐらりと身体を傾かせた男だったが、倒れるとまではいかなかった。トリオン体で生身と戦うとなると、力の加減が難しいのだろう。下手をしなくても相手を殺せてしまう。
 ガンっ、と男が椅子や机を蹴りながら部屋の隅に向かう。その動きに唐沢は眼を細めた。――慣れている。
 背中と片方の肩を壁に預けた男は、懐から取り出した拳銃を構えた。いくら見えない相手とはいえ、やってくる方向を狭めれば、多少は戦える。加えて、男が散らかした物がバリケードのように囲ってる。接近は気付かれやすいだろう。普通の銃がトリオンの体を傷つけることはない。だから、風間の優位が揺らぐことはないのだが。ただやはり、手加減をしなければならないという制限はある。
『――風間くん』
『唐沢さんですか』
『ああ。入口の方に彼を誘導してくれないか』
『しかし、』
『大丈夫だよ。この通信ができている以上、私もトリオン体だ』
『……分かりました』
 唐沢の指示に従って、風間が動き始める。それに応じてか、パンッ、と乾いた銃声が上がった。眉をひそめる。撃ったか、と。
 風間は的確に追い詰めているのだろう。さっきまで消していた足音を出して自分の存在を知らしめる。男は背中を壁に沿わせたまま、唐沢のいる入口方面へと移動してくる。
『当たってないかい』
『問題ありません』
 何とも冷静な声が答える。パンッ、と、繰り返し放たれる銃弾。それは机や壁に埋まっていく。壁の材質がまだ柔らかいものに設定されていてよかったと思った。跳弾していたらやりにくかったに違いない。
『対象、入口まで目測二メートルです』
『ありがとう。三秒後に止まってくれ。――三、』
 淡く浮かび上がった影が唐沢の視界に入る。笑みを浮かべたのは殆ど無意識のことだった。あと数歩。それで男は唐沢の圏内に入る。
『二ぃ、』
 片足が視界に入った。書類の山がばさりと空を舞う。風間がやったのだろう。唐沢が何をするのかまでは知らないだろうに、男の注意を引くためと、おそらくは移動音を紛らわせる手段として。全く、風間も風間で対人戦慣れしている――ランク戦のせいだろう。ボーダーは人間との戦いを想定している。
『いちッ、』
 ぐっ、と床を蹴って飛び出す。その銃口がこちらに向けられる前に、拳銃を持った手首を掴んで捻り上げながら壁に叩きつける。銃口は上に向くようにし、その手首を力の限り握る。
 同時に、もう片方の手で――銃を抑えた手以外の全てで、男の鳩尾に体を叩き込んだ。
 どんっ、と鈍い音が響いて、男の体を通して振動が壁にまで伝わる。みしり、と嫌な音がしたが、折れるまでではないだろう。
 ショックに緩んだ手から拳銃が落ちる。足元に落ちたそれを踏みつけ、男の顔を伺った。まだ意識はある。抑え込んだ体勢のまま、もう一度鳩尾を殴った。抑え込む唐沢にずしりと重みがくる。気絶したようだ。
「銃を持っているわりに、着込んではなかったな」
 ゆっくりと体を離し、床に男を寝させる。念のため瞳孔を確認してから、踏みつけていた銃を拾った。実弾が入っている重みがある。
「お怪我は」
 カメレオンを解除した風間が近付いてくる。
「トリオン体だよ」
「生身でしょう」
 おや、と眉をあげる。どうしてばれたのだろうか。唐沢の持つ通信機はトリオンでできており、戦闘体に埋め込まれている通信機能と全く同じ性能を持つ。
「トリオン体なら最初から通信で会話しています」
「……ああ、それもそうか」
 どうやら無意味な嘘をついてしまったらしい。らしくないことをした、と考える。せめて相手が風間だったことは幸運なのだろう。
「それで、お怪我は」
「心配ないよ。さて、開発室から人を呼んできてもらってもいいかな」
「はい、」
 珍しく歯切れが悪い。風間はいつもの無表情を保ったままだ。けれど、その赤い瞳は何か言いたげに唐沢を見ていた。視線はちらりと床に伏した男を追う。風間の言いたいことを汲んで、唐沢はにこりと笑った。
「ラグビーをやってたからね」
「……そうですか」
「人を呼んだら今日は帰ってもいい。手間をかけさせたね」
「いえ」
 聞き分けがいいのも、それはそれで落ち着かないものだ。風間とは対照的に、いつも笑みを浮かべた青い瞳を思い出してくすりと笑う。彼なら、唐沢からあの手この手で聞き出そうとするだろう。それもそれで、嫌いではなかった。勿論、風間のその聞き分けの良さ――踏み込んでこない慎重さも、それはそれで好ましいのだが。

 風間が部屋を出て行ったのを視線で見送ってから、唐沢は床に寝かせた男と、その男から奪った拳銃を観察する。唐沢が以前所属していた組織が構成員に配給している銃とはモデルが違う。男の顔立ちにも弄ったような不自然さはない。詳しく調べてみなければわからないが、おそらく唐沢のいた組織の人間ではないだろう。――唐沢があの組織にいたのは三年も前のことなので、変わっている可能性はあるが。
 通信機を起動して、城戸を呼び出す。すぐに伝わることとはいえ、報告は唐沢の口からした方がいい。まだ起きているであろうことは分かっていた。そういう人だ。早めの報告は、早く休ませたいという意図もある。
 数秒の待機音の後、ホワイトノイズとともに回線が繋がった。「唐沢です」と名乗り、続ける。
「不審人物の確保、完了しました」
『――ご苦労』
「風間隊員の睨み通り、対象は銃を所持。どこに所属しているかは探ってみてからですが……まぁ、表には出さない方がいいかと」
『そうか。引き続き、きみに一任する』
「分かりました」
 通信を切ろうとすれば、嘆息のような音が聴こえた。それに気づいてそのまま耳を澄ませていれば、城戸の低い声が届く。
『……唐沢くん』
「何でしょう?」
『きみの前職場からの接触は、ないと思っていいかね』
 前職場。唐沢が撃たれたあの時期に所属していた組織。言ってしまえば、悪の組織だ。
「――……ええ。今のところは」
『……時間の問題か』
「でしょうね。あの組織はとにかく巨大です。日本支部には話を通してありますが、他の支部――ひいては本部が動いたとして、それを彼らが把握しているかは別問題です。そして組織の性格上、ここを放っておくことはできないでしょう」
『組織内ですら互いの動向を把握しない、と』
「支部と言ってもヤクザの直参みたいなものですから。支部同士で利権を争うこともあります」
 どの組織も似たようなものでしょう、と言うのは控えた。少なくともボーダーは、共通の敵を前にしての足並みは驚くほど綺麗に揃う。いい組織、なのだろう。
「幸い、今の日本地区の統括、それと組織の長はハト派です。動きがあれば情報が入るようにもしているので、城戸司令がご心配される必要はありませんよ」
『……人員が必要であれば、隊員から見繕ってくれても構わないと考えている』
 その言葉に、唐沢は手元の拳銃をくるりと回した。車のキーを回すように。慣れた手付きで握り込む。引き金に指は、かけないが。
「いえ……私一人で十分でしょう。戦闘も回避できないような、そんな下手な交渉はしませんよ」
 笑って答えた。通路から足音が聞こえてくる。ボーダーの開発室の――その中でも記憶処理を担当している部署の人間がやってきたのだろう。その旨を城戸に伝えると、もう一度、『ご苦労』と労られる。『それと』と、そのまま通信が切れるかと思えば、城戸はまだ何か続けるようだ。珍しく饒舌な理由は時間のせいだろうか。徹夜しているに違いない。何を言われるかと身構えた。
『きみにいなくなられるとボーダーは困ると、言わなくても分かっているかね』
 虚をつかれて、一瞬の間の後、ふはっ、と笑ってしまった。「失礼」と笑みの間に挟んで、抑えきれない笑いに喉がなる。
『……唐沢くん』
「すい、ません……分かっていますよ。ですが、城戸司令からそのような言葉をいただけるとは、思っていなかったもので」
『……言う必要はなかったようだ』
「いえいえ。それ、他の幹部にも言ってやるといいですよ。喜びますから」
『…………検討しておこう』
「ええ、是非。……それと、ご心配なされずとも、俺はここにいますよ」
 ここにしか居場所はないと、そう視野を狭めるつもりはないけれど。ここが丁度いいのだとは、思っているから。
「あなたにクビと言われるまではね」
『……そうしてくれ』
 この組織がいつか不要となることを、城戸はきっと願っているのだろう。それは少年少女が夢見る大団円とは少し違う絵を描いた結果かもしれないが。それでも。大人たちが持たせた武器を、手放させる日を。唐沢も、心のどこかで待っている。
「それでは」
 短く別れの言葉を囁いて、部屋の入り口に目を向ける。足音は大分近付いており、数秒ののちに部屋の中へと入ってきた。
 唐沢にとっては見慣れた、ボーダーの開発室、それと医務局に籍を置く、記憶操作の担当たちだ。担架を持っている。
「お疲れ様です」
「唐沢さんこそ、お疲れ様です。運びますね」
 流石に手馴れている。記憶操作を取り仕切る彼の出自も気になるところではあったが、それを探るのは礼儀の欠けた行為であろう。
「部屋は戻しておくので、唐沢さんはお戻りください」
「どうも。……あぁ、処理を施す前に、目が覚めたら呼んでください。いくつか訊きたいことがあるので」
「分かりました。では、後ほど」
 男から回収した銃は腰にさして、唐沢は一足先に部屋を出た。部屋の中では男を担架に乗せている。
 銃の処分ルートの目処を立てて、それから男の出向元にも検討をつけなければならない。男が――そして街が完全に目覚めるまでに、済まさなければならないことは多い。
 やれやれ、と溜息をつく。カツリ、と音を立て、唐沢は闇に紛れていった。


「子どもに銃を向けるのはどうかと、俺は思うんだが、きみはどう思う?」
 震えるさまをただ見下ろしていた。男の出所は分かった。唐沢の前職場でこそなかったが、似たようなところだ。それならば容赦というものは不要になる。
 例え記憶処理によって記録を失うとしても、刻み込まれた恐怖は、案外忘れないのが人間だ。何度も嗅ぎ回られるくらいならば、一度手痛い目に合わせた方がよい。幸いなことに、ボーダーの記憶処理技術は優秀だ。しかもトリオン体に換装させてしまえば、生身にはなにも残らない。痛みの感覚すら思いのままなのだから、その技術は空恐ろしい。
「好きじゃなくてね、そういう輩は」
 まぁ、風間を子どもという範疇に収めてしまうと、いろいろ不満を買いそうでもあるのだが。それはそれ、だ。
「ああ、そんな顔をしないでくれ――きみは助けを乞う声を、踏み躙ってきた側の人間だろう?」
 自分は助かろうなんて、虫が良すぎる。唐沢が笑って言えば、男の顔は蒼白に近づく。
 ああ、勿論分かっているとも。
 カツリ、と音を立てて男に近付きながら、唐沢は自嘲する。
「きみがこれを持ち込まなければ、少しは考えたけれどね」
 黒い銃身の、その引き金に指をかける。
 俺も、その声を踏み躙る側の人間だということは。嫌というほど、知っているとも。