「ねぇ夏油ぉ」
逢魔が時の薄闇の中、大して顔も見えやしない景色で間延びした声が私を呼んだ。
どうかした、と彼女の顔を覗き込む。こちらに向かない視線はどこか遠くを捉えていた。
かろり、と言葉の代わりに出てきたのは飴を転がす音。
誰もいない廊下にはそれが随分大きな音に聞こえる。
「ねぇ、夏油」
随分小さくなった声でまた私を呼んだ彼女が弱く私の袖を掴んだ。
ばきんと飴を砕く音がしてしばらく口を動かした彼女が漸く目を向けた。
「死んだら呪霊になろうかなぁって思ったんだよね」
正直面食らった。何を言っているのかと肩を掴んで問い正したかった。
けれどその目は真剣味を帯びていて言葉に詰まる。
「死んでも呪霊になれば夏油の側にずっと居れるかなって」
もう一度外された視線が窓の外へ向かう。夕日に照らされている筈の瞳は随分と暗かった。
言いようの無い不安がせりあがってきて袖を掴んでいた手を取り緩く掴む。
「そんなこと──」
「でも、でもね。きっと」
"夏油は私を祓っちゃう気がする"
そんな事はない、呪霊にならずとも側にいて欲しい。どうにか吐き出そうとした私の言葉を遮って、するりと彼女の手が抜け落ちる。何も言えなくなってしまった私を置いて歩き出す。
「…さ、早く帰ろう。今日談話室で映画見ようって約束してたんだった」
そう笑って振り返った彼女の目はやはりほの暗い色をしていた。
「君はまだ死んでいないけど、私の手をとってくれるかい」
側にいたいと言ってくれただろう。と手を伸ばす。
人混みの先にいた名前が曖昧な顔をしてこちらを見つめていた。この場を離れた硝子が悟に連絡をつけているだろうから、次の瞬間にはここに現れてもおかしくは無い。
でも一瞬で良かった。名前がこの手を取るか取らないか。その判断をする一瞬があれば良かった。
「ねぇ夏油」
街中の喧騒が嘘のように静まり返った気がした。名前がいつかと同じ声をして私を呼ぶ。曖昧だった表情が次第に形を変えていく。
「私はまだ死んでないんだ」
少し距離が縮む。人混みを抜けた名前が私の前に立っている。
「まだ私は人間でさ」
あの時と同じ瞳の色をして、あの日逃げ出した手が私の手を取って持ち上げる。取られた手にそっと力を込めた。考えるように目を閉じた彼女がゆっくりと息を吐く。
「…私は呪術師だからさ」
ほんの数秒して彼女の手から力が抜けた。私に握られたままの手は今度こそ抜け落ちることはないけれど、今度は彼女の心がすり抜ける。心のどこかで分かっていた気がする。彼女はきっと私と共に来てはくれないと。
「…仕方ないね。君にまで私の理想を押し付けることはできないから」
ひとつ息を吐いて肩の力が抜ける。どうやら無意識に力がこもっていたらしい。何故か肩の荷が降りたような不思議な気分だった。
「ここでお別れだ。次があるか分からないけれど」
今度こそ自分の意思で手を離す。普段より少しだけ熱を持った手に冷たい空気が纏わりつく。
「…そうだね。次会う時はどうなってしまうか分からないから」
顔を下げた名前がするりと隣を通り抜けた。
「 」
溢れ落ちた言葉はどちらのものだったか。
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